『鬼火』

この週末は、ブルーレイで『鬼火』を見た。

鬼火 Blu-ray

鬼火 Blu-ray

1963年のフランス映画。
監督は、『恋人たち』『好奇心』の巨匠ルイ・マル
主演は、モーリス・ロネと、『恋人たち』のジャンヌ・モロー
ベッドの上で見つめ合っているアラン(モーリス・ロネ)とリディア。
リディアはアランの愛人で、3日前にニューヨークから来た。
なお、リディアの吸っているタバコは「KENT」。
朝を迎えた。
リディアはニューヨークに戻る。
アランは妻と離婚話しをしている最中。
リディアは「ずっとあなたと結婚したかった」と言う。
仕度して出て行く二人。
出口で給仕にチップを渡そうにも、現金を持っていないので、自分の腕時計を外して渡すアラン。
アランは「空港までは送れない」と言う。
外出すると医者が怒るからだという。
カフェでコーヒーを飲む二人。
アランは断酒して4ヶ月になる。
アランに小切手を渡すリディア。
タクシーに乗っている二人。
アランは退院するつもりはないという。
なぜなら、居心地がいいからだ。
「ニューヨークへ来て」とリディア。
「僕を置いて行かないでくれ」と言いながら、タクシーを降りるアラン。
彼は結局、「ニューヨークへは行かない。結婚もしない」とリディアに言い放つ。
そして、彼は療養所に戻った。
なかなか全体像がつかめないが、要するに、アランは結婚してニューヨークに居たのだが、アル中の治療でヴェルサイユ(パリの近郊)の療養所に4ヶ月前に入ったということだ。
愛人がニューヨークから来たので、療養所を抜け出して外泊した。
しかし、療養所から出るつもりも、奥さんと離婚するつもりもないらしい。
アランの部屋の鏡には7月23日の落書きされている。
療養所の大食堂では、神学と哲学について議論している人達がいる。
中年女性達はアランに色目を使う。
皆、どこかしらおかしい。
アランは「退院はしない」と言い張る。
アランの部屋には、新聞の死亡記事の切り抜きが至る所に貼ってある。
カバンの中にはピストルが忍ばせてある。
要するに、アランには自殺願望があるということだな。
医者が部屋に入って来る。
「君はかなり前から完治している。いつまでも置いておけない。」
「ここを出たら飲んでしまう。」
2年前の結婚で禁酒を誓った(しかし、出来なかった)。
アル中を治すのは大変らしい。
僕の知り合いの出版社の社長は、若い頃にアル中で倒れて、ICU(集中治療室)に入った。
アル中を完治させて、それからは一滴も飲んでいないそうだが、医者に言わせると、「100人に一人の奇蹟」だとか。
僕もアル中の気があると自覚している。
禁酒を誓っても、なかなか守れない。
まあ、最近はそんなにストイックには考えない。
基本的に、家では飲まないようにし、たまに飲みたくなったら飲む。
「何が何でも禁酒」とやると、守れなかった時の挫折感が苦しいからね。
以前は毎晩ワイン1本くらい空けていたが、最近は週末に缶ビール1~2本程度にしているから、大分痩せた。
僕のことはいいや。
映画の話しに戻ろう。
アランはその夜、「明日、僕は自殺する」と。
翌朝、院長夫人がアランの部屋に朝食を持って来る。
「僕は外出する。」
外出して、タバコ屋(兼カフェ)へ。
アランが店主に「スウィート・アフトン」を注文すると、「どこのタバコだ?」
アイルランド」「置いていない」「じゃあ、『ラッキー』を」というやり取り。
最近は知らんが、フランス映画を見ると、全員がタバコを吸っているイメージ。
隣の席でビールを飲んでいる運転手に、「パリまで乗せてくれ。一杯おごるよ」と持ち掛ける。
運転手が酒を飲んでもいいのか。
大らかな時代だったんだな。
で、アランは車に便乗してパリへ。
銀行で小切手を換金。
行き付けのホテルへ。
久しぶりに現われたアランに、皆は大歓迎。
だが、陰ではヒソヒソと悪口を言っている。
ホテルのBARに入る。
馴染みの店主も歓迎。
アランが電話をしようとしても、店主やら客やらが絡んで来て、集中出来ない。
タクシーに乗る。旧友のデュガール氏を訪ねる。
「来るのを待っていたんだ」と迎えられる。
彼はエジプト学者。
彼の家族と一緒にランチ。
幼い子供は「シルヴィー・バルタンが好き」と言う。
でも、親は知らない。
「アイドルさ。」
このやり取りで、63年当時のシルヴィー・バルタンの位置付けが分かる。
まあ、ビートルズだって、当時は親の世代には全く理解されなかったのだから。
アランは鬱病だ。
昔話しを嬉しそうにするアランに、デュガールは「今の生活には希望はないが、安定がある。青春とは決別したんだ!」
この気持ちはよく分かる。
僕も、若い頃に一緒に馬鹿をやった友人と再会すると、昔話しに花が咲くが、昔に戻ることは出来ない。
お互い、家庭があるからね。
若い頃は現実が見えていないから、夢も希望もあったし、四畳半風呂ナシ・トイレ共同のアパートの生活も楽しかった。
けれども、今更そんな生活には戻れない。
この後、アランはアシェット社(大手出版社)の前を通る。
あの「アシェット婦人画報社」の「アシェット」だ。
彼にとっては、3年ぶりのパリ。
色んな人と出会う。
しかし、浦島太郎状態。
そして、アランはとうとう酒を飲んでしまうのであった。
断酒後の最初の一杯は地獄の苦しみ。
僕も以前、半年くらい禁酒した後、初めて友人の家で深夜まで飲んだ翌日は、苦しくて呻いていた。
肝臓がアルコールの消化の仕方を忘れているんだな。
しかし、その後はすぐに以前の状態に戻ってしまう。
元の木阿弥だ。
ラストでアランが読んでいる本は『スコット・フィツジェラルド短篇集』。
字幕にはそう出るが、背表紙を見ると、「Gatsby」という文字が見えたが。
結末は衝撃的である。
まあ、救いのない映画だ。
例によって、ごく断片的にだが、フランス語が聴き取れる箇所があって、嬉しかった。
ヴェネツィア国際映画祭審査員特別賞、イタリア批評家賞受賞。

『枯葉~夜の門~』

この週末は、ブルーレイで『枯葉~夜の門~』を見た。

枯葉~夜の門~ イヴ・モンタン Blu-ray

枯葉~夜の門~ イヴ・モンタン Blu-ray

1946年のフランス映画。
監督は、『北ホテル』の大巨匠マルセル・カルネ
主演は、『グラン・プリ』『万事快調』の大スター、イヴ・モンタン
共演は、『トパーズ』のダニー・ロバン
モノクロ、スタンダード。
哀愁のあるテーマ曲は、あの有名な『枯葉』(ただし、歌はない)。
舞台は1945年2月、解放から半年後のパリ。
大戦は未だ続くものの、人々は昔ながらの生活を取り戻していた。
しかし、貧困などの問題も山積している。
街の様子はリアルに描写されている。
画質は良い。
だが、本作はそもそも、当時の時代背景をよく理解していないと、分かり辛い。
世界史の授業を第一次大戦までしか受けていない僕には、なかなか大変だった。
走る列車。
満員の車内に立つジャン・ディエゴ(イヴ・モンタン)。
彼に声を掛ける浮浪者風の男。
「次で降りるのか?」
オーベルヴィリエの駅で降りると、人がいっぱい。
駅前で乗降客相手に商売をする親父キンキーナ。
その娘エチエネットはクロワッサンを売っている。
彼女に声を掛ける若い男。
二人は恋仲になる。
ディエゴはレジスタンスの朋友レイモンのアパートを訪ねる。
ヤミ市には行列が出来ている。
レイモンの妻に、夫の死を伝える。
が、レイモンは生きていた。
何と、この場で二人は再会。
レイモンは銃殺寸前に刑事に助けられたという。
レイモンは鉄道員
二人は無事を喜び合う。
同じアパートには、駅前で行商をしていたキンキーナもいる。
彼はものすごい子だくさん。
娘のエチエネットが姿を消したと騒いでいる。
家主のセネシャルは威張っている。
キンキーナは、夫婦揃ってセネシャルを非難する。
セネシャルは、占領下ではドイツ軍相手に商売をしていたらしいが、息子が英雄ということで見逃されたらしい。
で、エチエネットは、橋の下にいて、駅前で知り合った若い男とキスをする。
ディエゴとレイモンの家族はカフェで食事をする。
そこへ、自称英雄で、レジスタンス仲間からは評判の悪いギイがやって来る。
彼は、アパートの家主セネシャルの息子だ。
そこへ、最初に列車の中にいた浮浪者風の男も入って来る。
彼は、店の女性客に不吉な運命を告げる。
彼は、ハーモニカで『枯葉』を吹く。
ディエゴは、このメロディーに聞き覚えがあるが、何の曲か思い出せない。
その時、高そうな服を着た紳士ジョルジュが店内に入って来て、酒を飲む。
ディエゴが窓の外を見ると、高級車の車内で美女マルーがタバコをふかしている。
例の浮浪者風の男は、「俺は運命だ」と言って、立ち去る。
ディエゴとレイモン達が駅に着くと、終列車は既に出た後。
仕方がないので、歩いて帰る。
ジョルジュとマルーは高級車で走り去る。
ジョルジュは戦争成金。
マルーは元歌手で、夫に愛想をつかして、別れを切り出す。
マルーは言い争いをして、車を降りる。
「運命」がやって来て、彼女と一緒に歩く。
そこは彼女の生まれ育った街。
彼女が訪れたのはセネシャルの家。
マルーはセネシャルの娘であった。
十数年ぶりの再会らしいが、セネシャルはすぐに娘の顔が分からない。
実の娘なら、普通分かるだろう。
まあ、いいや。
マルーの母、セネシャルの元妻は、ニューヨークで死んだらしい。
セネシャルはカネに困っていた。
マルーは米ドル紙幣の束を置いて行く。
先に出て来たギイは、マルーの弟。
素行は悪い。
レイモン家に泊まっているディエゴ。
レイモンの幼い息子がこっそりと起き出す。
それに気付いて、付いて行くディエゴ。
レイモンの息子が秘密の隠れ家と呼んでいる倉庫には、子猫が3匹いる。
レイモンの息子は眠ってしまう。
ディエゴが抱きかかえ、連れて帰ろうとして、マルーと出会う。
さあ、これからどうなる?
まあ、分からない映画である。
人間模様は描かれている。
が、時代背景を理解していないと、この人間関係が把握出来ない。
前半は、ほとんど登場人物の紹介。
主要人物が全員揃って、後半になって、やっと物語が展開する。
まあ、基本はメロドラマなのだが。
本作は、マルセル・カルネの、あの『天井桟敷の人々』に続く作品。
にもかかわらず、日本未公開。
正直、面白い映画ではない。
僕は眠気に耐え切れず、何度か中断した。
とあるブログに、「音楽だけ有名な映画」とあったが、確かにそうかも知れない。
例によって、勉強中のフランス語が断片的に理解出来たのが収穫だったが。

『北ホテル』

この週末は、ブルーレイで『北ホテル』を見た。

北ホテル マルセル・カルネ Blu-ray

北ホテル マルセル・カルネ Blu-ray

1938年のフランス映画。
監督・脚本はフランス映画界の巨匠中の巨匠マルセル・カルネ
映画史上のベストテンを選んだら、よく1位になる、あの『天井桟敷の人々』の監督だ。
マルセル・カルネと比べたら、ゴダールなんて小僧みたいなもんだろう(もちろん、ゴダールも巨匠だが)。
と言いつつ、僕は学生の頃、飯田橋ギンレイホールで『天井桟敷の人々』を観たが、ほとんど印象に残っていない。
今ならどう感じるだろうか。
セットは、『アパートの鍵貸します』(美術)のアレクサンドル・トローネ。
本作の撮影のために、実物大のパリの街並みのセットを作ったらしい。
ポンヌフの恋人』みたいだ。
主演は、アナベラ、ジャン=ピエール・オーモン。
共演は、『史上最大の作戦』のアルレッティ。
モノクロ、スタンダード。
舞台はパリ。
サン・マルタン運河に沿った石畳の街。
ベンチに座る若い男女。
この界隈に北ホテルはある。
見たところ、そんなに高級なホテルではない。
客は小市民階級。
食堂では、客達がにぎやかに食事をしている。
当時は、ホテルでも大食堂で同じテーブルで知らない者同士が食事をしたんだな。
で、売血の話題などが行われている(字幕では「献血」と出るが、血を売ってカネに換える話しをしているから、明らかに売血である)。
雷が鳴る。
上の階に宿泊している街娼のレイモンドの部屋にタルトの分け前を届ける女の子。
一緒に泊まっているヒモの中年男エドモンの分はない。
それが原因でケンカになるレイモンドとエドモン。
エドモンは写真家を目指している。
旧式の木製のカメラが出て来る。
レイモンドだけ階下へ降りて来る。
そこへ、冒頭の若い男女が一夜の宿を求めてやって来る。
部屋(16号室)へ。
キスをする二人。
ピエールは失業しており、寄る辺ない孤児のルネはピエールの他に頼る者もいない。
不幸な社会の縮図である。
ピエールはポケットからピストルを取り出す。
二人は、思い余って心中を企てたのであった。
ルネを撃って、すぐに後を追うと約束するピエール。
しかし、銃声に気付いた隣の部屋のエドモンが、ドアを蹴破って入って来る。
死ぬ勇気もなく、呆然とたたずんでいるピエールを、エドモンは「行け」と促して逃がす。
ピエールはピストルを運河沿いの公園に捨てて逃げる。
ホテルへ警察がやって来る。
第一発見者のエドモンは事情を聞かれる。
「部屋には女しかいなかった」とウソをつくエドモン。
警察は明らかに彼を疑っている。
で、何故かレイモンドが事情聴取で署に連行される。
一方、逃げたピエールは、陸橋の上から走る列車に向かって飛び降りようとするが、それも出来ない。
余談だが、この頃のパリには未だ馬車が走っていたんだな。
他方、ルネは実は死んでおらず、病院に運ばれて、ベッドの上で意識を取り戻す。
ピエールだけ死んだと思い込んだルネは取り乱す。
ところが、自首したピエールが手錠のまま警察に連れられて、ルネの病室へ面会にやって来る。
病室でルネに事情を聞く警察。
ルネは21歳になるまで孤児院にいたという。
彼女は、「撃ったのは私よ」とピエールをかばう。
が、信用されず、ピエールは警察に連行される。
その頃、運河で遊んでいた子供が、ピエールの捨てたピストルを見付けるが、傍を通り掛かったエドモンは、子供に小遣いを与えて、それを引き取る。
4日間も拘留されていたというレイモンドが、ようやくホテルに戻って来る。
カルロス・ゴーンもビックリの、フランス警察の非人道ぶりである。
エドモンは、ピストルを部屋の引き出しにしまう。
エドモンはレイモンドに、「南へ行こう」と、旅に出ることを提案する。
喜ぶレイモンド。
しかし、エドモンは、実は彼女のいない間に、ホテルのメイドのジャンヌと乳繰り合っていたのであった。
本作には、当時のフランス庶民の、解放的な男女関係が幾つも描かれる。
さすが恋愛の国フランスである(皮肉)。
レイモンドは娼婦なので、そういうことにはいちいち目くじらを立てない。
そこへ、全快したルネがホテルを訪ねて来て、支配人夫婦にお礼を言う。
支配人は彼女に酒を振る舞う。
未だにピエールを忘れられないルネは、「もう一度だけ16号室へ入らせて」と頼む。
他に行く当てもないルネに、支配人夫婦は「良かったら、ここで働いて」と言う。
ルネがホテルに戻ったことを知ったエドモンは、レイモンドに「旅は中止だ」と告げる。
ぶっきらぼうエドモンだが、実は秘かにルネを想っていたのであった。
ホテルでメイドとして働き始めたルネの方は、合間を縫って、ピエールの刑務所に会いに行っていた。
そんなルネにピエールは「新しい男を見付けろ」と冷たく言い放つ。
さあ、これからどうなる?
何と言うこともない庶民達の人間ドラマだが、当時のパリで暮らす人々の様子が生き生きと描かれている。
この頃のパリの街には、浮浪者が多かったんだな。
全体として切ないトーン。
物語もよく出来ているし、単なるメロドラマではなく、最後までしっかりと見ることが出来た。
天井桟敷の人々』も、もう一度、見てみたいな。

『ウイークエンド』

あけましておめでとうございます。
今年も拙ブログをよろしくお願いします。
新年最初の映画鑑賞は、ブルーレイによる『ウイークエンド』。

ウイークエンド Blu-ray

ウイークエンド Blu-ray

1967年のフランス・イタリア合作映画。
監督・脚本は、『勝手にしやがれ』『軽蔑』『気狂いピエロ』『東風』『万事快調』『パッション』の巨匠ジャン=リュック・ゴダール
撮影監督は、『勝手にしやがれ』『軽蔑』『気狂いピエロ』『パッション』のラウール・クタール
編集は、『軽蔑』のアニエス・ギュモ。
音楽は、『気狂いピエロ』のアントワーヌ・デュアメル
使用音楽は、ヴォルフガング・アマデウスモーツァルトなど。
助監督として、クロード・ミレール(『なまいきシャルロット』の監督)が参加している。
主演は、ジャン・ヤンヌと、『チェイサー』のミレーユ・ダルク
共演は、『ラストタンゴ・イン・パリ』のジャン=ピエール・レオ、『パッション』のラズロ・サボ、『東風』『万事快調』のアンヌ・ヴィアゼムスキー
これで、ゴダールの廉価版ブルーレイが出ている作品は全て(7本)見たことになる。
毎回文句を言いながら、よく見るよ。
今回も、文句を言いたいことはいっぱいあるが。
カラー、ワイド。
最初に「interdit aux moins de 18ans」という字幕が出る。
フランス語をちょっとかじったから分かるが、要するに「18禁」ということか。
しかし、最後まで見れば分かるが、本作は官能描写よりも残酷描写がヒドイ。
まるでホドロフスキーの映画のようだ。
だが、ホドロフスキーの作品には宗教的なものを感じるが、本作の残酷描写は、ただただ悪趣味。
「宇宙をさまよった映画」「鉄くずから見つかった映画」という字幕。
パリで中流生活を営むロラン(ジャン・ヤンヌ)とコリーヌ(ミレーユ・ダルク)のデュラン夫妻。
この二人はW不倫をしている。
コリーヌは夫の友人と不倫。
ロランは、コリーヌの父親が死んで遺産が手に入ったら、妻を殺そうと考えている。
タイトル『ウイークエンド』は黒地に赤・白・青の文字。
寝室で下着姿のコリーヌの告白。
「分析」。
先週の車の中での不倫相手との情事。
その後、彼の家に言って彼の奥さんも交えて3Pだって。
ただれているなあ。
官能小説のような告白が延々と続く。
ただし、セリフのみ。
前置きが長い。
コリンヌはジタンが嫌いで、アメリカのタバコを好むらしい。
「土曜日午前10時」オープンカーに乗って出掛けようとするデュラン夫妻。
「パリの日常風景」同じアパートの住人の車にぶつけてしまう。
クソガキが騒ぎ、クソガキの母親が怒って飛び出して来る。
ブルジョワのメス豚!」
ロランは住人の車にスプレーを噴射する。
今度は、クソガキの父親らしき男が猟銃を発射しながら飛び出して来る。
「クソったれ! コミュニスト!」
「土曜日、午前11時」渋滞の田舎道。
「ウイークエンド」「13時40分」「14時10分」事故だろうか、ものすごい渋滞の田舎道の脇をすり抜けて行くデュラン夫妻のオープンカー。
この長い道をワンショットで捕えている。
撮影の準備は大変だっただろうが、何か意味があるのか。
ラクションの嵐。
先頭には、衝突事故で血まみれの死体が数人分。
本作では、この後、血、死体、事故車が大量に出て来る。
ようやく田舎道を抜ける。
「日本製の録音機に遺言を。」
コリーヌはこの5年間、毎週土曜日の両親の食事に毒を混ぜて来たらしい。
今度は、田舎町でトラクターとスポーツカーの激突事故。
階級闘争」「ブルジョワの小娘!」と叫ぶ農夫のトラクターを、血まみれの娘が蹴っ飛ばす。
車の中で死んでいる娘の恋人。
デュラン夫妻のオープンカーがトラクターとぶつかるが、気にも留めない。
農夫は、「マルクス曰く、『人類は兄弟だ』」。
しかし、無視して走り去るデュラン夫妻のオープンカー。
「ニセ写真」の字幕。
連中と集合写真に収まるロラン。
コリーヌは「近道して時間を損したわ。」
飛ばすオープンカー。
「土曜日15時」「土曜日16時」「土曜日17時」。
雨が降って来る。
ここで、「plevoir」という単語が聴き取れて嬉しい。
道路上で白塗りの娘が「乗せてくれる?」
デュラン夫妻の車が停まると、道路の傍らの事故車から娘の彼氏らしき男がピストルを持って出て来る。
「反対方向へ行け」と脅迫しながら乗り込んでくる二人。
「皆殺しの天使」男が「俺は神だ」と言う。
又吉イエスか。
コリーヌはしきりに「助けて!」と叫ぶが、無意味。
男が「俺は現代に文法の終わりを告げに来た(特に、映画に)」と言う。
ゴダールの代弁か。
しかし、映画の文法を破壊して、意味不明の映画を量産することが、そんなに偉いのだろうか。
コリーヌはついに男のピストルを奪って発砲。
カップルを追い出す。
何故か画面を羊の大群が横切る。
また走るオープンカー。
太陽(Soleil)が出た。
三重衝突。
「私のエルメスのバッグが!」と叫ぶコリーヌ。
何か、南青山の児童相談所建設に反対している似非ブルジョアを思い出した。
まあ、ゴダールブルジョワを嫌悪しているのは分かる。
フランス革命から現代のウイークエンドへ」野原でナポレオンみたいな男が本を朗読。
その後ろを、ぶらぶら歩くデュラン夫妻。
「日曜日」「月曜物語」「日曜日」電話ボックスの中でシャンソンを歌う男(ジャン=ピエール・レオ)に出会う。
デュラン夫妻は、彼の車を奪おうとして失敗。
また歩く二人。
森の道を向こうから歩いて来るエミリー・ブロンテのコスプレをした娘とオッサン。
ルイス・キャロルの方へ」宇宙の彼方からやって来た小石について語るエミリー・ブロンテ
ロランは「この映画には病人ばかり」と言う。
まったくそうなのだが、それに何の意味があるのか。
ロランはずっと「オワンヴィルはどちらだ?」と繰り返す。
「哀れなBB対映画興行者」コリーヌは、「これは小説じゃない。映画よ、人生よ」と言いながら、エミリー・ブロンテに火をつける。
人間が燃えているのを見るのは、気分が悪い。
百年戦争のある火曜日」畑でミミズをつかむデュラン夫妻。
気持ち悪い。
とにかく、事故車ばかり出て来る。
「親父は死んだな。遅くとも月曜には。」
道路に寝そべり、股を開いて、トラックを停めるコリーヌ。
乗せてもらう二人。
次いで、「アクション・ミュージカル」。
ビートルズストーンズについての言及がある。
リンゴ・スターみたいなドラムを叩く男も出て来る。
戦艦ポチョムキン」についても言及される。
ここまででおよそ半分だが、後半はいよいよ意味不明。
最初は、一応ロード・ムービーのつもりで見ていられたが。
後半は、動物虐待のシーンもある。
衝撃的だが、気分が悪い。
最後は(ネタバレだが)、人肉を食らう。
とにかく、ただただ悪趣味で気分の悪い映画。
そして、意味不明。
ゴダールをありがたがる人達は一体、何なのか。

Weekend - Original French Trailer (Jean-Luc Godard, 1967)

『東風』

この週末は、ブルーレイで『東風』を見た。

東風 Blu-ray

東風 Blu-ray

1969-70年のフランス・西ドイツ・イタリア映画。
監督は、『万事快調』のジガ・ヴェルトフ集団(ジャン・リュック・ゴダール)とジャン=ピエール・ゴラン。
主演は、『夕陽のガンマン』のジャン・マリア・ヴァロンテと、『万事快調』のアンヌ・ヴィアゼムスキー
ゴダールの「政治の時代」と呼ばれる時期の作品らしい。
が、そんな能書きはどうでもいい。
はっきり言って、さっぱり分からないし、面白くもない作品だ。
カラー、スタンダード。
画面は草むらで鎖で結ばれて横たわっている一組の男女。
ナレーションは、鉱山労働者のストライキについて。
そして、戦闘的映画人は何をなすべきか?
画質は、16ミリで撮影されたらしいので、ブルーレイとは到底思えないほど悪い。
ナレーションの音声は、更に輪を掛けて悪い。
昔の小型カセット・テープ・レコーダーのようだ。
革命的映画人として、エイゼンシュテインの名前が挙がる。
作品はもちろん、『戦艦ポチョムキン』。
それに対立するのが、グリフィス。
作品は『イントレランス』。
革命思想の源流について。
まあ、要するに、マルクス主義を信奉しているのだが、革マル派のアジ演説と同レベルで、用語の羅列ばかりで、内容がちっとも頭に入って来ない。
それが延々と(本当に延々と)続く。
画面はメイクしている男女。
画面とナレーションが全く噛み合っていない。
画面で繰り広げられているのは、自主映画の撮影風景だろうか。
1.ストライキ
俳優らしき男(インディアン役らしい)が、「労働条件の改革を」と言う。
階級闘争について。
まあ、この安倍政権下の現代日本において、資本家と労働者はますます乖離しているので、階級闘争の必要性については認めるが。
2.組合代表。
3.極左少数派。
4・集会。
章分けされているが、内容は全く頭に入って来ない。
スターリン毛沢東が一緒に写っているポスター。
「WANTED FOR MURDER」という落書き。
「これは正しい映像ではない。単なる一つの映像だ。」←何のこと?
6.能動的ストライキ
7・警察国家
で、前半の最後に「闘争失敗。最後に滅亡」というナレーション。
第2部は、主に映画論。
ハリウッド批判がメインか(実は、猛烈な睡魔が断続的に訪れ、よく内容を把握出来ていない)。
いつの間にか、映像とナレーションが噛み合って来る。
プルーストの朗読やら、『資本論』やら『共産党宣言』やら。
赤い画面が現われ、フィルムに無数の傷。
もう、何だか訳が分からない。
最後に、「造反有理」を連呼して終わる。
タイトルの「東風」というのは、東側(社会主義陣営)から吹く風のことらしい。
社会主義が最終的には西側(資本主義陣営)に打ち勝つとゴダールは言いたかったのだろうが、現実はそうはならなかった。
僕は学生の頃、映画研究会に所属していたことがあるのだが、その上映会で上映される一連の学生映画を思い出した。
作っている当人達は高尚な芸術作品のつもりなのだろうが、観ている方には全く伝わらない。
壮大なオナニー映画。
本当に革命思想を観客に吹き込みたいのなら、もっと方法があるのではないか。
それこそ、この作品が批判しているハリウッド映画の大衆プロパガンダの方法を見習うべきでは?
(※「ナチスのやり方を見習うべき」と言い放った政治家がいたが、アイツはクズだ!)
昔の某大学の映画研究会には、ゴダールの熱狂的な信者が多数いたらしい。
分からないものをありがたがるのは、裸の王様と同じだ。
よく、映画のレビューなんかで、自分は内容は全く理解出来ていないクセに、ゴダールは映画史上名高い監督だから、きっと何か意図が隠されているのだろう、みたいなことを書いている人がいるが。
そういうのは権威主義である。
素直に、「意味不明で面白くも何ともなかった」と言えばよろしい(一緒に見ていた細君は「拷問だ」と言っていた)。
映画には、(エイゼンシュテインが作った)文法がある。
何かを伝えたければ、文法に則って語らなければならない。
文法を破壊しても、デタラメな言語になるだけである。
まるで、昨今の英語教育みたいだな。
本作を見て唯一良かったのは、最近勉強し始めたフランス語が断片的に(本当に断片的に)理解出来る箇所があったことだ。

『パッション』(1982)

この週末は、ブルーレイで『パッション』を見た。

1982年のフランス・スイス合作映画。
監督・脚本は、『勝手にしやがれ』『軽蔑』『気狂いピエロ』『万事快調』の巨匠ジャン・リュック・ゴダール
撮影は、『勝手にしやがれ』『軽蔑』『気狂いピエロ』のラウール・クタール
スチル写真は、『万事快調』のアンヌ・マリー・ミエヴィル。
主演はイザベル・ユペール
共演は、『フレンチ・カンカン』『軽蔑』『トパーズ』の名優ミシェル・ピコリ
本作は、タイトルは知っていたが、見たことはなかった。
如何にもゴダールっぽい、分からない映画。
ウィキペディアによると、シネ・ヴィヴァン六本木のオープニング作品で、フランス映画社配給だとか。
シネ・ヴィヴァン六本木か…。
学生の頃、よく通ったな。
ちょっととんがったラインナップで、シネフィル気取りの勘違い女性が休憩所でタバコをくゆらしているようなイメージの映画館だった。
僕は文化村ル・シネマの方が正統派で好きだったな。
フランス映画社も、僕が学生の頃にミニシアターで観た映画は、ことごとくここの配給だったな。
倒産したらしいが。
何か、懐かしくなった。
学生の頃は、本当に、カネもないのに、『東京ウォーカー』を小脇に抱えて、フランス映画ばっかり観に行っていたな。
今でも印象に残っている映画はあんまりないけど。
まあ、いいや。
話しを『パッション』に戻そう。
カラー、スタンダード・サイズ。
途中で「物語はない」と出て来るように、ストーリーらしきものはない。
飛行機雲の映像から始まる。
不気味な音楽。
なお、ウィキペディアによると、本作の音楽は、ベートーヴェンドヴォルザークモーツァルトなどのクラシックらしい。
スタジオの撮影風景と、工場で働く女性イザベル(イザベル・ユペール)のカットバックが延々と続く。
説明がないので、状況がなかなか把握出来ない。
スタジオでは、ビデオ撮影で、レンブラントなどの絵を再現しようとしているらしい。
しかし、監督のジェルジーが「光がダメだ」と言って、撮影は中止になる。
湖の傍を走る車。
運転しているのはジェルジー
車と一緒にハーモニカを吹きながら走っているイザベルは、「クビにされた。でも、闘う」と言っている。
イザベルはジェルジーに「集会に来て。約束よ」と言うが、ジェルジーは冷淡。
僕は本作の背景を全然つかめなかったが、ウィキペディアによると、ポーランド戒厳令が背景にあるらしい。
で、ジェルジーポーランド人である。
撮影隊の宿泊先のホテルの女経営者ハンナ(ハンナ・シグラ)とイザベルの工場の社長ミシェル(ミシェル・ピコリ)は夫婦。
イザベルの読んでいる本は左翼的で、『労働者階級と夜』なんていうのがある。
撮影中の映画のタイトルは『パッション』。
イザベルが映画に出るという話しもある。
会合では、イザベルが女工達と工場労働の大変さについて話し合っている。
何故か、話している女性の口と、会話の声が合っていない。
こういう状況がしばらく続く。
何の意図だろうか。
で、イザベルは「闘争宣言」をし、「上申書を書こう」と言う。
撮影の続き。
今度はゴヤの絵で、裸の女性が出て来る。
が、ジェルジーは「ダメだ。今日は終わりだ。光がない」と言う。
ハンナの乗っているのは日本車(ホンダ)だ。
ハンナはミシェルとイザベルの仲を疑っているらしく、「イザベルを何とかして」と言う。
こうやって書いていても、話しの方向性はさっぱり見えて来ないが。
ジェルジーはハンナと関係があるらしい。
何故か映画に出るように説得する。
ハンナはドイツ語で返す。
ミシェルの車を実力で停止させようとする女工達。
社長は映画のエキストラを禁止する。
ハンナはジェルジーに「ポーランド語が出来ても話せるかしら」と言う。
ジェルジーポーランド人だからだが。
ジェルジーの撮影する『パッション』は、いよいよ予算がオーバーしていた。
ここまでで半分だが、後半を見ても、何が言いたいのかはよく分からない。
後半、ドラクロワの絵を再現するために、巨大なコンスタンティノープルのミニチュア・セットが出て来る。
それから、天使を再現するためだろうか。
裸の少年が出て来る。
ペニスも無修正である。
現代の日本では、これは児童ポルノに当たる。
天下のゴダールの作品を児童ポルノ扱いして、そりゃ日本はフランスと揉める訳だ。
問題は、カルロス・ゴーンだけじゃない。
それにしても、さっぱり分からん映画だった。
僕は学生の頃、映画研究会に所属していたことがあるが、先輩方はゴダールの作品をありがたがっていたらしい。
しかし、ゴダールには、観客に理解させようとする気はないのではないか。
時々、「ゴダールが分からないヤツは映画を分かっていない」などと真顔で言う人がいるが。
それなら、分かっていなくて結構。
僕は映画を趣味で見ているのである。
人生は短い。
別に、自分の好きでないものに、わざわざ時間と労力を費やすこともなかろう。

『ウンベルト・D』

この週末は、ブルーレイで『ウンベルト・D』を見た。

ウンベルトD ヴィットーリオ・デ・シーカ Blu-ray

ウンベルトD ヴィットーリオ・デ・シーカ Blu-ray

1952年のイタリア映画。
監督は、ネオレアリズモの巨匠ヴィットリオ・デ・シーカ
脚本は、デ・シーカと多くの作品で組んだチェーザレ・ザヴァッティーニ
音楽は、イタリアの巨匠アレッサンドロ・チコニーニ
主演は、カルロ・バティスティ。
共演は、マリア・ピア・カジリオ、リーナ・ジェンナーリ。
ヴィットリオ・デ・シーカと言えば、『靴みがき』『自転車泥棒』だ。
靴みがき』は、大昔に見たので、残念ながら記憶が曖昧だが、『自転車泥棒』は、これまでに3回見て、3回とも号泣した。
僕の人生で、こんなに泣いた映画は他にない。
敗戦後のイタリアの過酷な生活の状況が、もう気の毒で気の毒で。
ハリウッドを風刺した、ロバート・アルトマン監督の傑作『ザ・プレイヤー』の中でも、ティム・ロビンス演じるヤリ手映画プロデューサーが名画座に『自転車泥棒』を観に行くシーンがある。
彼は「いい映画だけどね」と言う。
『ザ・プレイヤー』が製作された90年代前半のハリウッドは、既に続編とリメイクの嵐で、スター俳優の組み合わせを変えて、似たような企画に押し込んでいるような状況で、『自転車泥棒』のような正統派の映画に客が入る余地はなかった。
『ザ・プレイヤー』はそんな有り様を痛烈に皮肉っていたが、今のハリウッドは、当時よりも遥かにヒドイ事態に陥っていて最早、収拾不能だ。
それはさておき、マルチェロ・マストロヤンニソフィア・ローレン主演の『ひまわり』も名作であった。
戦争で引き裂かれた男女の運命は、本当に身につまされる。
ニーノ・ロータのテーマ曲も涙を誘う。
ウンベルト・D』は、ヴィットリオ・デ・シーカの作品の中で現在、唯一廉価版のblu-rayで入手可能である。
余談だが、このblu-rayを出しているIVCのラインナップには、他にも素晴らしい作品が並んでいる。
脚本、音楽は『自転車泥棒』と同じ。
役者も、『自転車泥棒』と同様、演技経験のない素人を起用している。
そのことが作品に独特のリアリティを与えている。
実は、恥ずかしながら、僕は『ウンベルト・D』のタイトルは知っていたが、内容はよく知らなかった。
しかし、素晴らしい映画であった。
モノクロ、スタンダード・サイズ。
画質は良い(音は良くない)。
鐘の音。
悲愴なテーマ曲から始まる。
「この作品を父にささげる ヴィットリオ・デ・シーカ」という字幕。
「年金額を上げろ」とデモ行進をしている老人達。
これは、少子高齢化の日本の、近い将来の姿でもある。
どこかの宗教政党の大臣が「100年安心だ」などと言っていたが。
現在の日本の年金制度は、100年不安だ。
僕は団塊ジュニア世代だが、我々の時代には、絶対に年金制度は破綻している。
いや、そんな先まで到底持たないだろう。
ふざけるな。
で、デモ隊は警察ともみ合いになる。
「許可のない集会は認められん」と、警察のジープが来て散り散りになる。
しかし、デモの許可なんて、そもそも下りない。
安保闘争もそうだが、国家権力は常に民衆を弾圧する。
絶対に許せない。
愛犬フライクを連れた老人ウンベルト(マリア・ピア・カジリオ)は元公務員で、年金が少なくて家賃も払えない。
年金1万8000リラに対して、家賃が1万リラである。
しかし、デモに参加した老人の内部にも格差があるようで、ウンベルトほど困窮している者はなかなかいない。
デモに対しても、温度差がある。
切実でない者は、ただ誘われたからデモに参加しただけだ。
それにしても、現在の日本では、安倍政権の横暴に対して、どうして暴動の一つも起きないのだろう。
集まるのは、せいぜいハロウィンで仮装した若者(=バカ者)くらいだ。
日本人は、何と従順なのか。
パリの民衆も立ち上がったというのに。
で、身寄りのないウンベルトは、フライクを大変可愛がっている。
孤独な老人というのも、日本の将来(いや、現在でも)の姿だ。
これだけ生涯未婚率が上がっていたらなあ。
まあ、我が家も子供がいないので、僕か細君のどちらかが死んだら、同じことになるが。
で、ウンベルトは、施設に行って、食事をするが、こっそりとフライクを連れて入り、自分の分を分けてやる。
いや、ほとんど自分の分は食べていないと言ってもいい。
バレたら追い出されるのだが。
このワンコが実によく言うことを聞いて、可愛い。
と言うより、大変な演技派だ。
ワンコにここまで演技をさせるのは大変だっただろうが。
本作は、犬好きにはたまらんだろう。
動物と子供が出て来る映画にハズレはないと言うが。
自転車泥棒』の子供が、本作ではワンコに当たるだろう。
と言っても、そんなあざとい映画ではない。
魂に訴えかける。
ウンベルトは、身に着けている懐中時計を売ろうとするが、売れない。
本当は4000リラで売りたいのだが、何とか3000リラで買い手が付いた。
しかし、売った相手は、道行く人々に「お恵みを」と言っている。
今の日本では、さすがにこんな光景はあまり見掛けない。
3000リラというのは、現在の日本では幾ら位なのだろうか?
随分とたくさんのしわだらけの札だったが。
インフレなのだろう。
年金が1万8000に家賃が1万というから、今の日本円だと、年金が9万円に家賃が5万円位か。
ということは、3000リラの時計は、1万5000円位か。
まあ、今や皆、携帯を時計代わりにしているから、時計を持つ人も少数派だろうが。
で、ウンベルトがアパートの部屋に帰ると、何故か若いカップルがイチャついている。
女主人(リーナ・ジェンナーリ)が、1時間1000リラでラブホテル代わりに貸しているのであった。
ここに20年も住んだウンベルトは、家賃滞納を理由に、アパートを追い出されようとしていた。
ウンベルトには熱があった。
お手伝いのマリア(マリア・ピア・カジリオ)はウンベルトを気遣ってくれるが、彼女は「妊娠した」と言う。
女主人には言えない。
言うと追い出されるから。
恋人が二人いて、どちらの子なのか分からない。
これも、典型的な貧困の構図だ。
僕の知り合いのライターが、貧困のため性風俗で働く女性のドキュメントを書いているが、彼の本にもこんな話しばかり出て来る。
で、女主人はウンベルトに対し、「月末には荷物を放り出すよ」と告げる。
このアパートは、古くてボロくて、アリがいっぱいいる。
ウンベルトは、体調が悪くて、ノドの奥に白いブツブツがある。
彼は、マリアに家賃として3000ドルを託す。
「領収書をもらってくれ」と頼んだが、女主人には「1万5000リラ全額払え」と断られる。
ウンベルトはフライクを連れて散歩に出掛け、古本屋に想い出の本を売って、2000リラ作る。
マリアに5000リラを渡し、「残りは年金が出たら払う」と。
無学なマリアは、勉強する時間もない。
集団就職の少年が定時制に通うが、挫折するのを思い出した。
まあ、働いていたら、なかなか疲れて勉強なんて出来ない。
僕も夜学だったから、痛いほど分かる。
ウンベルトは公務員だったから、そこそこの学はあるのだろう。
マリアのことを気遣ってこう言う。
「不幸は無知に付け込む。文法を学んでおけ。」
正に、現在の日本でも、低学歴は貧困を生んでいる。
社会に出る前に、対処法を見に付けていないと、貧困から抜け出せない。
もっとも、現在の日本では、高学歴だからと言って高収入だとは、最早言えなくなっているが。
ウンベルトは、年金から家賃を払うと、食費も残らない。
しかし、意地の悪い女主人は、「耳を揃えて払わなければ立ち退いてもらう」としか言わない。
青木雄二の『ナニワ金融道』にもこんな話しがあったな。
青木雄二マルクス主義者だったが。
しかしながら、こういうどうにもならない貧困に対して、保守政権は何をしてくれるというのか。
僕は共産主義者ではないが、弱者に冷たい現在の保守政権は到底支持出来ない。
と言うより、ニート・フリーターが多数派の若者は、どうして軒並み自民党支持なのか。
連中は原発やらオリンピックやら万博やらの利権で儲けることしか考えていないぞ。
何万人もの労働者のクビを斬った経営者が、何十億もの報酬を受け取るなんて、どう考えても狂っている(逮捕が妥当かどうかは、また別問題だが)。
いかん、映画の話しなのに、今日はどんどん話しが逸れる。
それだけ本作のテーマが現実に寄り添っているということなのだが。
で、ウンベルトには38度以上も熱がある。
しかし、有閑マダムが仲間を呼んで、オペラか何かの練習をしているから、うるさくて眠れやしない。
おまけに、目覚まし時計が壊れて音が止まらない。
ウンベルトはとうとう、教会が運営する病院に電話をした。
救急隊がやって来たが、フライクは一緒に連れて行けない。
救急隊員に「フライクと遊んでやってくれ。遊んでいるスキに出て行く」と頼む。
このフライクは、実によくウンベルトになついているんだな。
そして、マリアにフライクのことを託す。
「すぐ戻るので」と言いながら、ウンベルトはタンカで運ばれて行く。
貧乏人は皆、病院に入院していた。
医者はウンベルトに対して、「明日には帰っても良い。若ければ扁桃腺を切るが、その歳で手術してもな」と告げる。
しかし、病院にいると食費が浮くのだ。
年金が出る月末までの1週間、ここに居れば助かるのだ。
ここには、そんな考えの貧乏人の常習者が仮病を使って大量に入院していた。
これも、近い将来の日本の姿ではないか。
マリアがバナナ1本をお見舞いに持って、病院にやって来る。
フライクは病棟には入れられないから、中庭に待っているという。
ウンベルトは、フライクのことが気になって仕方がない。
窓を開けてフライクを大声で呼んでみるが、気付かない。
マリアの話しによると、女主人は近々、恋人である映画館の支配人と結婚するから、ウンベルトのことを追い出したいのだという。
このまま行くと、ウンベルトは救貧施設に入るしかない。
だが、彼は「救貧施設にだけは入りたくない」と言う。
僕の実家も貧乏だったが、母は口癖のように「生活保護だけは受けたくない」と言っていた。
もちろん、自力で育ててくれた両親には感謝しているが。
生活保護は重要な命綱だろう。
昨今の日本では、ネトウヨを中心に、生活保護受給者を貶めるような連中がいるのがガマンならない。
で、ようやくウンベルトは退院した。
アパートに戻ると、ウンベルトの部屋は工事中であった。
おまけに、マリアもいないし、フライクもいない。
探しに行くと、マリアはいた。
フライクのことを尋ねると、「奥さんがドアを開けて、飛び出した」と言う。
ウンベルトは急いで保健所へ向かう。
保健所には、犬の引き取り手が多数来ていたが、450リラ払えないと、処分されるという。
それを払えないがために、愛犬を泣く泣く処分されてしまう人も。
ウンベルトは必死で保護された犬の中にフライトを探すが、見付からない。
さあ、これからどうする?
もうね、余りにもどうにもならない話しだから、涙ナシには見られません。
こういう魂を震わせるような名作が、昨今は余り省みられないのは残念だ。
老人と動物という点では、『ハリーとトント』(あちらはネコが登場)を思い出すが、こちらの方が悲愴だ(もちろん、『ハリーとトント』も名作だが)。
僕は、実家でニャンコを飼っていたので、どちらかと言うと猫派だが、そんなことは関係ない。
後半、フライクに帽子をくわえさせて物乞いをさせるシーンは、痛ましくて痛ましくて…。

『さらばバルデス』

この週末は、ブルーレイで『さらばバルデス』を見た。

さらばバルデス [Blu-ray]

さらばバルデス [Blu-ray]

1973年のイタリア映画。
監督は、『荒野の七人』『大脱走』『シノーラ』『マックQ』の巨匠ジョン・スタージェス
製作は、『天地創造』『バーバレラ』『バラキ』『キングコング(1976)』の大プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティス
主演は、『荒野の七人』『大脱走』『ウエスタン』『バラキ』の大スター、チャールズ・ブロンソン
共演は、『バラキ』のジル・アイアランド。
巨匠と大スターがタッグを組んだ作品だが、僕は恥ずかしながら知らなかった。
まあ、ジョン・スタージェスと言えば、『荒野の七人』と『大脱走』かな(『OK牧場の決斗』も、恥ずかしながら未見)。
カラー、スタンダード。
画質は、最近のブルーレイにしてはやや粗い。
牧歌的なテーマ曲。
荒れ地を馬に乗って進む少年ジェイミー(ヴィンセント・ヴァン・パタン)。
ふもとに一軒家を発見する。
訪ねると、中からインディアンと白人のハーフであるチノ・バルデスチャールズ・ブロンソン)が出て来る。
「入れ。飯を食わせてやる」とチノ。
怖い人ではなさそうと、ジェイミーは中へ。
チノは焼いた牛肉を食わせてくれた。
彼は野生馬を捕まえて飼い馴らす仕事をしていた。
ジェイミーは仕事を探している。
翌朝、チノは馬を慣らしている。
ジェイミーは目覚めて、自ら部屋の掃除などを始める。
それを見たチノは、「お前の馬は休ませてやれ。別の馬を貸してやる」と。
バックという名の荒馬は、ジェイミーとは相性が良かった。
ものすごいスピードで駆けるバック。
今日は、町へ馬を売りに行く日であった。
ジェイミーも着いて行く。
馬が10頭くらい、町の方へ向かって走って行く。
これは壮観な光景だが、撮影は大変だっただろう。
馬は200ドルで売れた。
しかし、カウボーイ野郎に「汚らしいインディアンめ!」と罵られたチノは、そいつを殴る。
そいつは銃を構えたが、駅馬車から降り立った男が止めに入る。
チノは、今日は町に泊まることにし、ジェイミーに小遣いを渡す。
しかし、保安官はジェイミーに「チノと一緒にいろ。面倒は掛けるな」と告げる。
チノがバーへ行くと、店主は「改装したばかりだから、よそへ行ってくれ」と言う。
チノは厄介者扱いだった。
いきなり他の男達が入って来て、ケンカになる。
その場へ駆け付けた保安官は、「すぐに町を出ろ!」と命じる。
チノとジェイミーは牧場へ帰った。
ジェイミーはチノに認められ、彼の手伝いをすることになった。
とにかく、野生の馬がいっぱいいる。
これを放牧しているのだ。
母馬が出産し、子馬は無事だったが、母馬はヒドイ怪我をしている。
可哀想だが、チノは母馬を銃殺した。
競馬で脚を折った馬みたいなもんだな。
子馬を家へ連れて帰り、ミルクを飲ませる。
地主のマラルが設置した鉄条網に、馬の肉と毛が付着しているのをチノが発見する。
先の母馬は、これで怪我をしたのだろう。
チノはマラルの家に乗り込む。
応対したのは妹のキャサリン(ジル・アイアランド)。
チノはマラルに抗議するが、「俺の土地だ。文句を言うな」と言われてしまう。
キャサリンはチノに興味を持ったようで、「あなたの馬を見せて」と頼む。
チノは「見に来ればいい」と。
しかし、チノは「俺の馬に婦人用の鞍は着けさせん」と言う。
要するに、女性はスカートをはいているから、横向きに座る鞍を着けるんだな。
チノは「服は自分で何とかしろ」と告げる。
ジェイミーはキャサリンのことを「気取った女だ」と言うが、チノは「女のことも知らんクセに」。
荒れる馬を手なずけていると、チノは肩をやられた。
心配するジェイミーに、チノは「昔、インディアンに馬を襲われ、取り戻しに行ったら馬に踏まれた」と、背中に傷跡を見せる。
キャサリンが馬を引き取りに来た。
彼女は何と、ズボンをはいて来たのであった。
しかし、チノは「その乗り方は女じゃ無理だ」と言い放つ。
キャサリンは、「バルデスさん、失礼な人ね!」と怒って去る。
チノはジェイミーに「ここにいろよ」と告げる。
喜ぶジェイミー。
ある日、チノの入浴中に訪ねて来るキャサリン
慌てるチノに、「あなたは馬よ!」
気の強い女だ。
キャサリンは、「コーヒーくらい飲ませて」と言う。
チノは、彼女のことを「馬乗りが上達する見込みがある」と言う。
それを聞いたキャサリンは喜ぶ。
自分の思いを素直に言葉に出来ない無骨なチノの性格が、非常によく描かれている。
チノとキャサリンは、二人で馬に乗って散歩する。
余談だが、この二人(チャールズ・ブロンソンとジル・アイアランド)は、実生活でも夫婦だったらしい。
野生馬の大群を誇らしげにキャサリンに見せるチノ。
今なら、全部CGだろう。
もう、こういう映画は撮れない。
本作は、馬の演技も素晴らしい。
人間と違うから、これだけたくさんの馬に言うことを聞かせるには、相当な準備期間と訓練が必要だったはずだ。
昔の映画というのは、それだけの手間をフィルムに記録したところに価値があったと思う。
今の映画は、デジタル技術だからな。
全く別物だ。
で、馬が交尾をしているその前で、キスをするチノとキャサリン
ところが、二人が魅かれ合っているのを知ったマラルはチノの家にやって来て、「妹に手を出したら殺す!」と告げる。
さあ、これからどうなる?
後半には、インディアンの暮らしも出て来る。
こういうのも、今では撮れないんじゃないか。
そして、結末は、まあタイトル通りなんだが。
ジェイミーの目線から見れば、少年の成長を描いた映画とも言える。

『いとこ同志』

この週末は、ブルーレイで『いとこ同志』を見た。

いとこ同志 クロード・シャブロル Blu-ray

いとこ同志 クロード・シャブロル Blu-ray

1959年のフランス映画。
製作・監督・脚本は、『美しきセルジュ』の巨匠クロード・シャブロル
撮影は、『美しきセルジュ』のアンリ・ドカエ
主演は、『美しきセルジュ』のジェラール・ブランとジャン・クロード・ブリアリ。
ヌーヴェルヴァーグを代表する作品と言えば、ゴダールの『勝手にしやがれ』、トリュフォーの『大人は判ってくれない』、そして、この『いとこ同志』である。
怪獣で例えれば(普通は例えないが)、ゴジラモスララドンに当たるだろう。
僕は、本作を10年位前に一度、DVDで見たのだが、その時はワインを飲みながらだったので、途中で寝てしまった。
終わってから、細君が「スゴイ話しだったよ」と言ったのだが、レンタルだったので、そのまま返してしまったのだ。
残念なことをした。
という訳で、今回はシラフで見た。
本作では、主演のジェラール・ブランとジャン・クロード・ブリアリの演じる役柄が、『美しきセルジュ』とは全く逆になっている。
しかも、全く違和感がなく、見事にその役になり切っている。
これを見ると、本当に「役者やのう」と思う。
モノクロ、スタンダード。
画質は良い。
ヌーヴェルヴァーグの代表作が、こんな高画質で見られるとは、いい時代になったものだ。
駅を降り立つ青年シャルル(ジェラール・ブラン)。
田舎からパリへ上京して来たのだ。
タクシーに乗る。
穏やかなテーマ曲。
タクシー到着。
いとこのポール(ジャン・クロード・ブリアリ)の部屋へ。
ポールは怪しい口ひげを残して、如何にも遊び人風である。
純朴そうなシャルルとは対照的(これが本作の基軸なのだが)。
部屋にはポールの仲間のクロヴィス(こいつがまた、とんだ一杯食わせ物)がいる。
彼は無職だが、どうやって食っているかは「今に分かる」という。
クロヴィスが格好を付けて英語を話したりすると、ポールは「外国語ならドイツ語を使え!」と叫ぶ。
ポールの伯父は愛人とニューヨーク〜マイアミ間を飛行中。
ポールの上京の目的は大学入学。
大学の手続きは済ませた。
ポールにジュヌヴィエーヴから電話が来る。
ポールがもう捨てた女だ。
何故か分からないが、クロヴィスが荒れている。
ポールはドイツかぶれらしく、何かにつけてドイツ語(の詩か何か)を唱えている。
ややマザコンの気があるシャルルは、部屋で母親に近況報告の手紙を書く。
まあ、僕が上京したばかりの時も、さびしくて、よく実家に電話をしたりしていたから、この気持ちは分かる。
この時代のフランス映画は、登場人物全員がタバコをスパスパ吸っている。
今の日本では考えられない光景だ。
ジュヌヴィエーヴがポールを尋ねて来る。
どうやら彼女は妊娠しているらしい。
ポールはクロヴィスに堕胎費用を渡す。
もう、このただれた雰囲気が、根岸吉太郎監督の映画『狂った果実』(1981年)みたいだ。
僕は、この映画が大好きなのだが。
なお、中平康監督の『狂った果実』(1956年)は、実際にヌーヴェルヴァーグに影響を与えたらしい(ウィキペディアにも書いてある)。
確かに、遊び人の兄(石原裕次郎)と純真な弟(津川雅彦)というのが、本作の設定と似ている。
まあ、どちらも映画史上の重要な作品だが。
で、翌朝、ベッドで寝ていたシャルルは、ポールに起こされ、車でぱり見物に出掛ける。
凱旋門なんかの辺りをドライヴする二人。
二人はカルチェ・ラタンのクラブへ。
チャラ男のポールは、道行く女の子にも片っ端から声を掛ける。
クロヴィスはポールに「女の件は片付けた」と耳打ち。
反吐が出るね。
このクラブの地下を、ポールは「売春窟」と呼んでいた。
人前でイチャついている男女が何組も。
連中の中に、不器用なフィリップがいる。
ポールはマルティーヌに声を掛ける。
マルティーヌはこれから、「講義に出る」という。
シャルルはブリッジ(カード)に誘われる。
連中から「ポールと従兄弟なのに似ていない」と言われる。
シャルルはフローランスという娘が気になり、ポールに紹介してもらう。
シャルルは、出て行った彼女を追って、カード・ゲームはそっちのけで外へ。
しかし、見失う。
傍にあった古本屋へ入るシャルル。
バルザックを探し、『ゴリオ爺さん』を見付ける。
店主との会話で、「僕は読書ばかりだ」と打ち明けるシャルル。
シャルルを気に入った店主は、彼にタダでバルザックを与える。
この店主が、『大人は判ってくれない』の担任の教師ではないかと思うのだが。
で、シャルルが店を出るとポールがいて、「カードを抜け出したので、連中が怒っている」と告げる。
シャルルが母親に手紙。
「驚いたことに、大学では皆、ノートを取らずに、講義録をコピーしています」と。
日本の大学生は勉強しないなどとよく言われるが、大学生が勉強しないのは古今東西共通ということだろう。
ポールが自宅で友人とパーティーを開く。
フィリップはシャルルに、「僕はみんなに嫌われている。君もそうなる」と告げる。
モーツァルトのレコードを掛けるポール。
遊び人だが、金持ちのボンなので、ドイツ語を話したり、クラシックを好んだりするのだろう。
フィリップの元恋人フランソワーズ(ステファーヌ・オードラン)は別の男とやって来る。
シャルルは田舎者なので、明らかに場の雰囲気に馴染めない。
そこへフローランスがやって来る。
緊張するシャルル。
彼女に声を掛け、「本気なんだ」と告げる。
フィレンツェからやって来たアルカンジェロ伯爵が、黒人の青年を追い出す。
貴族だか何だか知らないが、人種差別はイカンよ。
そこへ、ジュヌヴィエーヴもやって来る。
モーツァルトを止めて、今度はワーグナーを掛けるポール。
地獄の黙示録』かと思った。
電気を消して、ロウソクを持ち、ドイツ語の詩を暗唱するポール。
シャルルはフローランスにキスをする。
電気が点くと、フィリップが女性を巡ってケンカを始める。
飛び出すフィリップ。
シャルルとフローランスも外へ。
キスをする二人。
彼女は「あなたが世界一好きよ」と言うが、純情なシャルルは「好きだ」と口に出して言えない。
ウジウジと心情を吐露する。
おまけにマザコン
どう見ても、恋愛にはマイナス。
彼女は詰まらなそう。
「ドライヴしよう」とシャルル。
彼が車のカギを取りに部屋へ戻ると、乱痴気騒ぎが繰り広げられている。
伯爵が酔っ払って、「女を寄越せ」などと悪態を吐いている。
おまけに、空のピストルを振り回している(これが、ラストへの重要な伏線)。
クロヴィスは瓶を割りまくる。
シャルルが「カギを貸してくれ」と言うと、ポールは「みんなでドライヴへ行こう!」と。
全員ヘベレケである。
皆で外へ。
フローランスは一人、待ちぼうけ。
彼女は、ポールの車に乗せられる。
ポールは「180キロ出すぞ!」と叫ぶ。
究極の飲酒運転である。
当時は、車の量が少なかったから、大丈夫だったのか。
フローランスは怒った表情。
車はどんどん出発する。
朝、シャルルとポールは車で帰宅。
部屋に戻ると、兵どもが夢の跡。
眠っているユダヤ人の青年を、「ゲシュタポだ!」とドイツ語で脅すポール。
飛び起きる青年。
何て悪趣味なんだろう。
まだ戦後十数年しか経っていないから、当時の記憶も生々しいだろうに。
恋愛慣れしていないシャルルは、フローランスの電話番号を聞き忘れた。
しかし、彼女から電話が掛かって来る。
「一緒に授業に行こう」と約束する。
しかし、何故か彼女は時間を間違える。
ポールの部屋に来たフローランス。
シャルルはいない。
ポールは彼女に色々と吹き込む。
クロヴィスも参戦。
要するに、彼女は、実はこれまでも男関係が色々あり、純情なシャルルとは絶対にうまく行かないと。
で、あろうことか、とうとうポールとキスしてしまう。
もう、この後は悲劇でしかないのだが。
僕もシャルルみたいに不器用だったから、彼には感情移入してしまう。
まあ、もう少し大人になれば、必ずしも遊び人が成功する訳ではないと分かるのだが。
もう、スゴイ力でグイグイと最後まで見せる。
ロシアン・ルーレットを最初に効果的に使った映画は『ディア・ハンター』だと思っていたが、本作だね。
ラストは、絶望的に救いがない。
ベルリン国際映画祭金熊賞受賞。

『ハムレット』を原書で読む(第1回)

僕には、これまでの半生における大きな心残りがあります。
それは、せっかく入学した某私立大学の英文科を卒業できなかったことです。
学生時代の僕は、「卒業よりも中退の方がハクがつく」と思っていたフシがあります。
また、授業に出ないで映画ばかり観ていたとか、バイトに夢中だったというのも事実です。
若き日の怠惰な自分を今さら責めても仕方がないでしょう。
しかしながら、単なる後悔を、もっと前向きに昇華することはできないものかと僕は考えました。
英文科を卒業できなかったことが、なぜ心残りなのでしょうか。
僕は英文科に在籍していたにも関わらず、原書を一冊も読破したことがありませんでした。
ちゃんと授業に出ていれば、幾らでも読む機会はあったのでしょうが。
一番大きな心残りは、そのことだったのです。
ならば、話は簡単ですね。
原書を読めばいいだけです。
後悔を打ち消すには、自分が納得できるようなレベルのものに取り組むしかありません。
そこで、英文学の最高峰と言えば、もちろんシェイクスピア
シェイクスピアの最高傑作と言えば、やはり「文学のモナリザ」とも称される『ハムレット』でしょう。
これを読まずして、英文学は語れません。
よし、決まった。
ハムレット』を原書で読破しよう。
このように決意したのは、もう10年も前のことでした。
実のところ、僕は中学時代、英検4級の試験を、落ちるのが怖くて、当日になってから受験をキャンセルしたほど英語が苦手です。
高校時代の英語の成績も、ずっとクラスでビリから2番目でした。
定期試験は全て、日本語訳の丸暗記で乗り切っていたからです。
もちろん、社会人になってからは、ほとんど英語の勉強などしていませんでした。
従って、英語力は落ちてこそいても、上がっているはずはないでしょう。
正に、「英検5級レベルからのシェイクスピア原書読破挑戦」でした。
そして、毎日、仕事が終わった後に、会社の近くの喫茶店に行き、辞書を何万回も引きながら単語ノートを作り、ついに『ハムレット』の原書を読破したのです。
涙が出そうなほど感激しました。
原書を読むことには、翻訳からは決して得られない喜びがあります。
僕が初めて読んだペーパーバックは『ハムレット』です。
英文科中退のコンプレックスも、いつの間にか消えていました。
英文科の学生が全員、『ハムレット』を原書で読破しているとは限りません。
いや、むしろ、卒論のテーマにでも選ばない限り、ほぼ全員が「読破していない」と思います。
授業で一文一文解説して読むには長過ぎて、到底最後までは終わらないからです。
それに、普通の学生なら、自分が当てられた箇所か、試験に出る箇所しか読まないでしょう。
多くの大学の英文科では、シェイクスピアの原書講読は必修です(もっとも、昨今は「英語コミュニケーション学科」などという陳腐な名称に変えられて、そんな高級なカリキュラムはない大学も多いようですが)。
僕がかつて在籍した大学の英文科にも、必修で「シェイクスピア研究」というクラスが二つあり、どちらも『ハムレット』を読むことになっていました。
何故、「なっていました」などという言い回しをするかというと、情けないことに、僕はその授業に、たったの1回しか出席しなかったからです。
僕が出席した日は、ちょうどローレンス・オリヴィエの『ハムレット』をビデオで鑑賞していて、高校の教室の半分位の小さなクラスは、満席でした。
シェイクスピアは、さすがに英文学を代表する作家だけあって、大学での原書講読の歴史も古く、『英語教師 夏目漱石』(新潮選書)によると、漱石東京帝国大学の講師時代に『ハムレット』等の講義を行なっています。
ヤフー知恵袋」によると、シェイクスピアの原文の中で、『ハムレット』は最も難しいものの一つだそうです(もう一つは『リア王』)。
僕は、『ハムレット』と『ヴェニスの商人』を原書で読みましたが、確かに、『ハムレット』の方が圧倒的に読み難かったと思います。
しかし、『ハムレット』は名セリフの宝庫です。
生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」というハムレットの独白など、英文学のセリフの中で最も人口に膾炙していると言っても過言ではないでしょう。
それどころか、「To be, or not to be―that is the question」という原文すら、多くの人が知っているのではないでしょうか。
これほど有名で、しかも「英文学の最高峰」とされている作品ですから、たとえハードルが高くとも、挑戦する価値はあると思います。
シェイクスピアについて
ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare, 1564-1616)は、言うまでもなく、イギリスを代表する文学者です。
それでは、『はじめて学ぶイギリス文学史』(ミネルヴァ書房)から、彼の略歴を引いてみましょう。

劇作家、詩人。ストラットフォード・アポン・エイヴォンに生まれる。18歳のときに、8歳年上の豪農の娘と結婚するが、数年後に妻子を残してロンドンへ出て劇団に加わる。舞台に立つかたわら、既存の脚本に手を加えているうちに、創作をはじめたと推定されるが、20代の後半で、早くも先輩作家のねたみを買うまでに名をなした。20余年間に、37編の劇と3冊の詩集を書き、50歳足らずで引退した後は故郷に帰り、悠々自適の余生を送った。

また、彼の作品については、次のようにあります。

シェイクスピア劇は、史劇からロマンス劇にいたるまで多様である。構成には、複数の筋があり、悲劇的局面と喜劇的局面、日常性と非日常性など相反するものが巧みに混入され、融合されている。また登場人物は、あらゆる階層に及び、その性格描写には追随を許さぬものがある。語彙の広いこと、複数の意味をひきだす掛け言葉や隠喩、暗喩が豊富なことでも知られている。

ハムレット』について
シェイクスピアの創作年代は通常、第1期(1590-95)の「修業時代」、第2期(1595-1600)の「喜劇時代」、第3期(1600-08)の「悲劇時代」、第4期(1608-11)の「ロマンス劇時代」の四つに分けられますが、『ハムレット』(Hamlet, 1600-01)は「悲劇時代」に書かれた作品です。
直線的な『マクベス』、人間の嫉妬を見事に描いた『オセロー』、現代にも通用する『リア王』と比べて、『ハムレット』のテーマは複雑でつかみどころがなく、僕は初めて翻訳で読んだ時(大学受験の浪人中でした)、正直なところ、どこが面白いのかよく分かりませんでした。
上演するには長過ぎますし(ノーカットだと4時間は掛かります)、作品の完成度としては、必ずしも完璧とは言えません。
しかし、多様な解釈を許す奥深さが、現在まで英文学の頂点として残っている理由なのでしょう。
『はじめて学ぶイギリス文学史』には、次のようにあります。

ハムレット』(Hamlet, 1600-1)には、主人公が復讐を決意するまでの複雑な心の動きが見事に描かれている。父の亡霊から命じられた復讐に対する疑問に加えて、淫らな母への反感、自己の存在への厭悪、腐敗した社会に対する厭世観などが、独白や対話の形で、巧みに言い表わされている。

テキストについて
一口にテキストと言っても、様々な版が出ていますが、僕が選んだのは下のペンギン版です。

Hamlet

Hamlet

初版は2015年。
編者はT. J. B. Spencer氏。
一般的には、演劇関係者はペンギン版、大学関係者はアーデン版やオックスフォード版を選ぶと言われています。
確かに、僕が学生の時の「シェイクスピア研究」という講義でも、教科書はオックスフォード版でした。
では今回、僕はなぜペンギン版を選んだのでしょうか。
それは、この版が大型書店の洋書コーナーなどで普通に売られていて、最も入手しやすいからです。
近所の調布市立中央図書館に置いてあるのも、このペンギン版でした。
ペンギン版は価格も手頃です。
学術関係では、どうしてペンギン版が使われないのかは、よく分かりません。
おそらく、他の版では注釈がページの下半分にあるのに対し、ペンギン版では巻末にまとめらているため、本文と対照しづらいからではないかと想像しています。
逆に、役者の場合は、細かな注など不要だから、ペンギン版でいいのでしょうか。
他にも、校訂の問題などがあるのかも知れません。
版によって、単語の綴りや句読点の打ち方なども微妙に違います。
しかし、僕は別に学術的な目的で『ハムレット』を読む訳ではないので、その辺りの研究は学者にお任せしましょう。
なお、『ハムレット』の主な底本には、Q1(第一・四折本)、Q2(第二・四折本)、F1(第一・二折本)の3種類があり、この内、善本とされているのはQ2とF1(Q1は粗悪な海賊版とされています)ですが、本書は、Q2とF1で異なる箇所は、基本的にQ2に依拠しているようです。
翻訳について
現在、日本では、廉価な文庫や新書版だけでも、7種類もの翻訳版が入手可能です。
それらを以下に紹介します。
新潮文庫
ハムレット (新潮文庫)

ハムレット (新潮文庫)

初版は昭和42(1967)年。
翻訳は、英文学・演劇に関して非常に高名な福田恒存氏。
この翻訳は現在、出版されている中では、最も権威があるとされているのではないでしょうか。
僕が二十数年前、浪人時代に読んだのも、この福田氏の翻訳でした。
訳文は格調高いものです。
そのため、初めて読んだ時は、多少「古めかしいな」とも思いました。
しかし、20年ぶりに再読してみると、一つ一つのセリフが、役者の声に乗って聞こえてくるような気がします。
それは、巻末の「解題」にもあるように、福田氏が「上演に不適当な翻訳はシェイクスピアの翻訳ではない」という信念を持っていたからでしょう。
ちなみに、僕が以前観に行った、劇団四季の『ヴェニスの商人』も、福田氏の訳です。
2幕2場のピラスの下りは文語体になっています。
3幕2場の劇中劇は口語体ですが。
有名な3幕1場におけるハムレットの「To be, or not to be, that is the question」という独白は、「生か、死か、それが疑問だ」と訳されています(この部分は訳者によって全く解釈が異なります)。
本書には、最近の懇切丁寧な版のような注釈の類は一切ありませんが、巻末の資料はそれなりの充実度です。
「解題」では、『ハムレット』のテキスト及び材源について(福田氏)。
続く「解説」では、「悲劇時代のシェイクスピア」と『ハムレット』について、あらましが述べられています(中村保男氏)。
さらに、「シェイクスピア劇の演出」では、福田氏がどのような考えの下、シェイクスピアを翻訳・演出していたのかがうかがえて、大変興味深いです。
特に、翻訳に際して、原文の美しさの90パーセントは消えてしまっているということ。
また、シェイクスピアを演じるには、「早く喋れる」ということがいかに重要かが強調されています。
本場のシェイクスピアは大変早口で、『ハムレット』のような長いものでも3時間くらいで上演するそうです。
それに対して、日本語では、大幅にカットしてもそれ以上の時間が掛かると。
最後に、「シェイクスピア劇の執筆年代」、「年譜(中村保男編)」が載っています。
福田氏が翻訳の原本として用いたのは、ドーヴァ・ウィルソンによる新シェイクスピア全集です。
ウィルソンは定説とは逆に、Q2こそ最も信頼すべき定本と見なしています。
それは、Q2がシェイクスピアの肉筆原稿そのものを印刷に附したと考えられるからです。
もちろん、F1やQ1も必要に応じて参照しています。
この翻訳のト書きが他版と比べてやたら詳しいと感じるのは、原本がト書きの豊富なQ1も参照して編纂されているからでしょうか。
それにしても、ト書きが多いですね。
白水Uブックス
ハムレット (白水Uブックス (23))

ハムレット (白水Uブックス (23))

初版は1983年。
判型は新書サイズ。
翻訳は小田島雄志氏(東京大学名誉教授)。
小田島氏も、シェイクスピアに関しては大変な権威です。
何しろ、日本で二人しかいない(もう一人は坪内逍遥シェイクスピアの37作品を全て翻訳した人なのですから。
本文は、韻文の形式に合わせて行分けがされています。
訳文は非常にこなれたもので、口語調なので分かりやすく、スラスラと読めるでしょう。
2幕2場のピラスの下りだけは文語体になっていますが、3幕2場の劇中劇は口語体です。
原文の洒落を巧みに日本語に移しています。
ただ、中には苦しいものもあるのはご愛敬です。
3幕1場の独白の冒頭は「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」と訳されています。
巻末の解説は村上淑郎氏(法政大学教授)。
ハムレット』の概略が簡潔にまとめられています。
新潮文庫版と同様、注釈はありません。
訳者自身による解説は一切ないので、翻訳の底本などは不明です。
ちくま文庫
シェイクスピア全集 (1) ハムレット (ちくま文庫)

シェイクスピア全集 (1) ハムレット (ちくま文庫)

初版は1996年。
翻訳は、目下シェイクスピア作品を精力的に訳し続けている松岡和子氏。
この調子で行くと、坪内逍遥小田島雄志に続き、日本で3人目のシェイクスピア全訳者になるかも知れません。
松岡氏の訳文は、やわらかい文体で、非常に読みやすいです。
本文は、他の多くの翻訳と同じように、韻文の箇所が行分けされています。
注釈も充実しており、本文の下にあるため参照しやすく、また、元の英文を掲載してくれていて、親切ですね。
この注釈は、英米の権威あるテキストから採用しているとのことなので、信頼出来ます。
2幕2場のピラスの下りは文語体です。
3幕2場の劇中劇は、王の最初のセリフと、ルシアーナスは文語体で、それ以外はやや文語調の口語体で訳されています。
原文の擬古文的な雰囲気を出すためでしょう。
全体に、分かりやすくするために意訳した箇所が散見されます(もちろん、注で触れられています)。
色々と工夫はされていますが、やはりシェイクスピアは、洒落を訳すのが難しいようです。
3幕1場冒頭の訳は「生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ」。
一つ気になったのは、ハムレットの一人称を「僕」と訳している部分があることです。
ハムレットは、「僕」と言いそうな感じはあまりしませんが。
全てのセリフではなくて、「俺」と言っている所もあります。
thouとyouの訳し分けにこだわる松岡氏のことですから、何か意味があるのでしょうか。
ちなみに、福田訳は基本的に「おれ」、小田島訳では「おれ」と「私」を使い分けています。
「訳者あとがき」によると、翻訳にあたり主に使用したテキストはアーデン版とニュー・ケンブリッジ版だそうです。
「万の顔を持つハムレット」という題の解説は河合祥一郎氏。
巻末の「戦後日本の主な『ハムレット』上演年表」は資料として大変価値のあるものだと思います。
集英社文庫
ハムレット (集英社文庫)

ハムレット (集英社文庫)

初版は1998年。
翻訳は永川玲二氏。
はっきり言って、この版はマイナーです。
あまり売れていないようで、書店でもなかなか見かけません。
集英社文庫の古典文学作品は、なるべく若い読者をつかもうとしているのか、親切な(言い方を変えると、読者に媚びた)作りになっています。
冒頭の口絵は、シェイクスピア時代の文化が伺えて良いのですが、本文に入る前に10ページに渡って「あらすじと鑑賞のヒント」(岩崎徹氏)を付けているのは、読者に余計な先入観を与えてしまうのではないでしょうか。
ご丁寧に、登場人物の人間関係まで図示してあるのです。
訳文は、やや古風で、クセがあります。
例えば、「功徳」というのは仏教用語ではないでしょうか。
また、「字引き」などという、現在ではあまり使われない言葉も出て来ます。
訳者による後書きのようなものはありませんが、この訳自体は、1969年の発表なので、そんなに新しいものではないでしょう。
さらに、ハムレットが自分のことを「ぼく」、亡霊のことを「お父さん」、ガートルードのことを「お母さん」と呼んでいます。
クローディアスの一人称は「おれ」「わし」「わたし」の3種類ありますし、彼がハムレットを「きみ」と呼ぶのにも、個人的には違和感を覚えました。
ト書きは、新潮文庫版と同じくらい詳細です。
本文の下に注釈があり、原文を示しているものがあったり、シェイクスピアの他の作品にもよく言及しているので、知識が増えて良いでしょう。
2幕2場のピュロス(ピラス)の下りは文語体、3幕2場の劇中劇は口語体です。
3幕1場冒頭は「生きるのか、生きないのか、問題はそこだ」と訳されています。
「解説―シェイクスピアの生涯とその作品」は岩崎徹氏。
「鑑賞―永遠の青年」は如月小春氏。
巻末の「シェイクスピア年譜」は平井正穂氏によるものですが、「○○(西暦)年『○○(作品名)』執筆はこの年か翌年、初演もこの年か翌年らしい。『○○』についてもほぼ同じ」というフレーズを延々と繰り返しているだけなのは、あまり意味がないと思います。
まあ、シェイクスピア本人について、作品以外に判っていることはほとんどないので、仕方がないのでしょうが。
岩波文庫
ハムレット (岩波文庫)

ハムレット (岩波文庫)

初版は2002年。
翻訳は野島秀勝氏。
この版は何よりも解説と注が詳しいです。
そのため、他社の文庫よりもかなり分厚く、400ページ以上もあります。
また、翻訳の底本がドーヴァ・ウィルソンのケンブリッジ版のためか、新潮版と同様、ト書きがやたら詳しいです。
あまりに詳細な部分は、注に回してありますが。
注も詳しく、補注まであります。
原文を載せている注も多いです。
また、本場のテキストから引用した注もたくさんあり、非常に勉強になります。
あまりにも詳し過ぎて、本文を読む流れが妨げられてしまうかも知れませんが。
野島氏は、Q2を「作者真筆の完全原稿に依って」印刷された、最も信用出来るテキストとみなしているようです。
F1は、概して、長くて面倒なセリフの省略が目立ちます。
F1は、上演用にQ2を短縮し、必要な変更を加えた改訂版です。
本版の翻訳は、「読者」を念頭にしたとのこと。
そのため、訳が説明的になってしまったり、リズムが良くない箇所もあります。
気になったのは、「必ずや絶対に」という表現です。
さらに、セリフに( )があるというのは、いかがでしょうか。
文体は、やや古風。
ハムレットの一人称は「ぼく」と「おれ」を使い分けています。
クローディアスは「わし」。
亡霊の「〜じゃ」という言い方は、老人のようで、違和感があります。
123ページの「chopine」の「現代この国の娘たちの間ではやっている厚底靴を思えばいいようだ」という解説は、時代を感じさせますね。
2幕2場のピュルロス(ピラス)の下りは文語体。
3幕2場、劇中劇の王の最初のセリフは文語体で、その後は、文語調の口語体です。
3幕1場冒頭の訳は「生きるか、死ぬか、それが問題だ」。
全体的に、訳の中に仏教用語や、日本独自の言葉が散見されるのが、少し引っ掛かりました。
例えば、2幕2場の「八百万の神々」は、日本の神々を指すのではないでしょうか。
3幕1場には「功徳」、3幕4場には「御陀仏」、5幕1場「恐れ入谷の鬼子母神」というのも出て来ます。
野島氏は、国文学の素養もかなりあるようで、注でも度々引き合いに出されているのは面白いのですが、英文学に戻って欲しい所です。
シャレの訳が不可能な箇所は、無理をせず、注で触れているのは、懸命だと思います。
巻末の野島氏による50ページ以上に及ぶ解説は、「『ハムレット』のテクストについて」「『ハムレット』の執筆年代」「ハムレット物語と復讐劇」のほか、「『ハムレット』、この謎めいたもの」と題した批評もあり、興味深いです。
角川文庫版
新訳 ハムレット (角川文庫)

新訳 ハムレット (角川文庫)

初版は平成15(2003)年。
翻訳は河合祥一郎氏(東京大学教育学部准教授)。
河合氏は、今や日本を代表するシェイクスピア学者の一人です。
この版は、野村萬斎氏より委託され、彼が主演する公演のために訳し下したものなのだそうです。
実際に舞台で演じられることを意識し、セリフのリズムと響きに徹底的にこだわって訳されています。
河合氏が翻訳した原稿を、萬斎氏が一行一行声に出して読み上げ、何度もダメ出しをしながら完成させました。
そのため、文体が非常に滑らかであり、役者の声がそのまま聞こえて来そうなリズミカルな訳です。
また、本書は日本で初めてフォリオ版(シェイクスピアの死後に刊行された最初の全集)を底本にした翻訳だと言います。
それは、最近の研究では、シェイクスピアの劇団で実際に上演されていたのがF(フォリオ版)であり、草稿レベルのQ(クォート)をシェイクスピア自身が改訂したのが上演用のFであるという見方が強まって来たからだそうです。
さらに、有名な3幕1場冒頭の訳において、最も人口に膾炙した「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」を採用した本邦初の版だということも特筆すべき点ですね。
注釈も、比較的詳しく付けてあります。
クォート版(Q2)にあってフォリオ版(F1)にないセリフは、注でフォロー。
活字が小さく、行間が詰まっているので、読みにくいというのが欠点でしょうか。
それでは、具体的に見てみましょう。
1幕1場に出て来る「供養」という言葉は、仏教用語ではないでしょうか。
1幕2場の「小童(こわっぱ)」「ガタが来ている」などのように、全体的に非常に味のある言葉が散りばめられています。
それでいて、古臭くなく、分かりやすい訳です。
ただ、オフィーリアの言葉づかいは、まるで昭和の娘が話しているかのように古めかしい(今風でない)ですが。
洒落の部分を見事な日本語に移し替えるのは大変難しいですが、かなり工夫されていて、凝った訳になっています。
一般的に、新しい翻訳の方が分かりやすく、また、先行訳を参照しているので、内容も深まっていると言えるでしょう。
2幕2場のピュロス(ピラス)の下りは文語体です。
3幕2場の劇中劇は文語調。
4幕4場の後半や、5幕2場のオズリックとのやり取りは、フォリオ版(F1)ではカットされていますが、長いので、注ではなく、本文中に組み込まれています。
F1を底本にしているのに、結局、Q2のセリフも入れなくてはならないのは、はたして意味があるのでしょうか。
5幕2場の王妃の「He's fat」というセリフは、度々議論になる箇所ですが、本版では「まあ、あの子ったら、太ったのかしら」と、河合氏らしい大胆な訳ですね。
巻末の「訳者あとがき」に、歴代の「To be, or not to be」訳の一覧が載っています。
これは資料的価値があるでしょう。
「後口上 日本演劇への翻訳」と題した後書きは野村萬斎氏。
彼のシェイクスピアに対するこだわりと、学者としての河合氏への称賛の気持ちがうかがえます。
光文社古典新訳文庫
ハムレットQ1 (光文社古典新訳文庫)

ハムレットQ1 (光文社古典新訳文庫)

初版は2010年。
訳者は、英文学・演劇の世界で名高い安西徹雄氏(元・上智大学名誉教授)。
ハムレット』の最古のテキスト「Q1」の唯一の翻訳です。
ただし、オリジナルでは「コランビス」となっているオフィーリアの父の名を、現行諸版と同様の「ポローニアス」に直したり、意味の通りやすい箇所などを多少、手直ししたと、巻頭の「訳者解説――『ハムレットQ1』について」の中で断られています。
これまでは「粗悪な海賊版」とされて来た「Q1」を、あえて世に問う理由は何なのでしょうか。
安西氏は「上演用台本として魅力的だからだ」と言います。
実際に、安西氏は翻訳した「Q1」を使って上演したことがあるそうです。
なぜ、上演に向いているかと言えば、短いからです。
ハムレット』は、シェイクスピアの作品の中でも際立って長く、もし一般に出回っている翻訳をノーカットで上演すれば、5時間くらい掛かってしまいます。
だから、通常は一部(あるいは相当の部分)をカットせざるを得ません。
それが「Q1」なら、カットしなくても2時間半くらいに収まるのです。
そして、単に短いだけではなく、『ハムレット』の元になった『原ハムレット』の形を留めていると考えられます。
訳文は分かりやすく、上演を意識しているだけあって、リズムが軽妙で、引っ掛かるところもなく、スラスラと読めます。
行分けはされていません。
注はあまりなく、ある時には左ページの端に載っています。
それでは、具体的に、どのような内容なのでしょうか。
まず、場割りが大きく異なります(1幕7場と2幕10場のみ)。
個々のセリフも、全体的に短縮されているので、スムースに進行します。
例えば、1幕2場、冒頭の王の宣言がありません。
余計な修飾語句がそぎ落とされて、すっきりとした印象です。
大きく展開が異なるのは、1幕7場。
ハムレットの気が狂った原因が分かったとポローニアスが国王夫妻に報告して、すぐハムレットが登場し、「生か死か、問題はそれだ」の独白。
この独白も、かなり短くなっています。
それから、そのまま「尼寺の場」。
さらに、「魚屋の場」へと続き、役者登場となります。
1幕7場のピュロス(ピラス)の下りは文語体です。
2幕2場の劇中劇は、やや堅めの口語体。
2幕4場では、ハムレットがクローディアスによる前王殺害のことを母に告白します。
彼女は「神様に誓って知らなかった」といい、ハムレットの復讐に協力することを約束するのです。
2幕7場では、ホレイショーが王妃に対してハムレットからの手紙の中味を報告し、王によるハムレット殺害の企みを打ち明けたりもします。
最後の場面では、ハムレットによるフォーティンブラスへの後継指名はありません。
少し違和感があるのは、ハムレットが時々「私」という一人称を使うことです。
翻訳の底本はケンブリッジ版の『The First Quarto of Hamlet』。
本文の後の「解題」は小林章夫氏(上智大学教授)。
シェイクスピア略年譜」も付いています。
巻末の解説は河合祥一郎氏(東京大学准教授)。
翻訳者の安西氏はもちろん、小林氏も河合氏も、「Q1」を積極的に評価する立場に立っています。
注釈書・対訳などについて
シェイクスピアの原文は難しいですが、さすが英文学史上最も有名な作家だけあって、注釈書の類いが非常に充実しています。
その分だけ、他の作家よりも与し易いと言えるかも知れません。
ハムレット』については、現在流通している主なものだけで、下の3種類があります。
研究社小英文叢書
ハムレット (研究社小英文叢書 (173))

ハムレット (研究社小英文叢書 (173))

初版は1965年。
注釈は小津次郎氏。
新書サイズのコンパクトなテキストです。
しかし、コンパクトなのが仇となって、注釈の分量はかなり少ないと思います。
「簡潔だ」と言えないこともありませんが。
日本で出ているシェイクスピアの注釈書は、概ね、海外の研究者が付けた注釈を、編纂者の好みで取捨選択して載せています。
そのため、他のテキストと同じ注釈もたくさんあるのですが、これは仕方のないことです。
著者は、前書きで「本書は教室で使用されることが多いだろうが、そうでない場合のことも考えて、かなり詳しく注釈を付けておいた」と語っているが、これには疑問符が付きます。
どう考えても、初学者にはこの注釈だけでは足りません。
分からない点がいっぱい出て来ます。
先生に解説してもらいながら読むのなら良いのでしょうが、自分で読もうとするのなら、もっと注釈の充実した他の本に当たる方が良いでしょう。
やはり、本書はあくまで教科書として、教室で先生が重要な部分や難解な箇所を解説しながら読むためのものだと思います。
注釈は、半分以上が英語によるものです。
ややペダンチックな印象を受けますが、それほど難しくはないので、これから本書を使おうとしている方も、安心して下さい。
それにしても、この「はしがき」にある次の文句は、現在と比べると隔世の感があります。
「最近の英文学人口の激増をまのあたりにして」。
本書の初版は1965年。
大学紛争の前です。
大学進学率は20パーセント程度でしたが、それでも、新制大学発足当初から比べると2倍以上に増えています。
「大学進学率の上昇」がそのまま「英文学人口の激増」に結び付いていたとは。
幸福な時代ですね。
大修館シェイクスピア双書
ハムレット (大修館シェイクスピア双書)

ハムレット (大修館シェイクスピア双書)

この本は、「大修館シェイクスピア双書」という全12巻のシリーズのうちの1冊です。
初版は2001年なので、比較的新しいですね。
編注者の高橋康也氏は、元国際シェイクスピア学会の副会長という、正にシェイクスピアの権威です(2002年逝去)。
高橋氏は本書執筆中に体調を崩し、河合祥一郎氏(東京大学大学院教授)が残りの仕事を引き継ぎました。
河合先生は、現在日本で最も活躍されているシェイクスピア学者の一人で、他にも多くの著書があります(角川文庫版『ハムレット』の翻訳も手がけていらっしゃいます)。
以上のような方々の手になる本なので、内容は信頼できると思います。
(※本シリーズは、他の巻も、日本のシェイクスピア学者としては相当著名な方ばかりが執筆しています。)
最近は、大学の英文科などでシェイクスピア作品を講読する際にも、このシリーズをテキストにすることが多いようです。
さて、本書は、右ページに原文、左ページに解説という見開き構成になっています。
原文は、底本が違うので、後述の研究社の対訳本と微妙に違う部分があるのが難しいところですね。
解説は、日本語訳がない分、ギッシリと詰まっており、かなり詳細です。
これまた、上述の対訳本の解説とは食い違う箇所がありますが、止むを得ません。
対訳・注解 研究社シェイクスピア選集
ハムレット (対訳・注解 研究社シェイクスピア選集8)

ハムレット (対訳・注解 研究社シェイクスピア選集8)

初版は2004年。
著者の大場建治氏は明治学院大学の元学長。
現在の日本においてシェイクスピア研究で著名な学者は何人もいますが、彼も間違いなく、その一人でしょう。
この本を読み進めてゆくにあたって必要なものは、とりあえず辞書(必要に応じて文法書)だけです。
本文は1623年発行の全集(ファースト・フォリオ)に基づいていますが、異本(セカンド・クォートなど)と違う箇所がある場合は、きちんと解説されているので、他の版を読んでいる人でも使えます。
(※現在出回っている『ハムレット』の原書は、おおむねセカンド・クォートとファースト・フォリオの折衷版です。)
著者は前書きで「高校卒業程度の英語力があれば、後は辞書を引くだけで読み進める」ように配慮した旨のことを書いており、確かに注釈は詳しいと思います。
ただ、本文を素直に読み進める上では、あまり役に立たないような、専門的な注釈が多くて参りました。
解説がペダンティックに過ぎるのです。
例えば、ある単語の意味を注で別の語に言い換えているのですが、その単語が中辞典には載っていない、ということが頻繁にありました。
また、訳文が気取った調子なので、原文のどの部分に訳が対応しているのかを把握するのに大変苦労します。
研究者だけではなく一般読者も対象にしている本なのですから、もう少し直訳調で、分かり易くしても良かったのではないでしょうか。
もちろん昔は、このような便利な対訳本はなかったのですから、こういった本で読書ができるのは、ありがたいことですが。
辞書・文法書などについて
辞書には色々ありますが、英文学を原書で読むには、最低でも大学生・社会人用の中辞典が必要になります。
本当は、シェイクスピアを読むには『OED(Oxford English Dictionary)』が必要なのだそうですが、全20巻もあり、アマゾンの中古でも20万円位するので、一般の人が所有するのはまず不可能です。
我が家でも、財務大臣に一蹴されました。
従って、中辞典から大辞典までを手元に置き、それらに載っていないものは諦めるしかありません。
ただ、辞書に載っていない様なことは、大抵、前述の注釈書に書かれていますが。
新英和中辞典
さて、中辞典の中で最も伝統があるのは、研究社の『新英和中辞典』(初版1967年)です。
新英和中辞典 [第7版] 並装

新英和中辞典 [第7版] 並装

歴史のある辞書の方が、改訂される度に内容が良くなっている可能性が高いと思います。
『新英和中辞典』の収録語数は約10万語。
僕も高校生の頃から愛用しています。
リーダーズ英和辞典
英文学を原書で読んでいると、時には、中辞典には載っていない単語も出て来ますが、そういう場合には、プロの翻訳家にも愛用されている『リーダーズ英和辞典』(研究社)の登場です。
リーダーズ英和辞典 <第3版> [並装]

リーダーズ英和辞典 <第3版> [並装]

初版は1984年。
収録項目数は28万(見出し語、派生語、準見出し、イディオムを含む)。
リーダーズ・プラス
更に、『リーダーズ英和辞典』には、『リーダーズ・プラス』(研究社)という補遺版があります。
リーダーズ・プラス

リーダーズ・プラス

  • 作者: 松田徳一郎,高橋作太郎,佐々木肇,東信行,木村建夫,豊田昌倫
  • 出版社/メーカー: 研究社
  • 発売日: 2000/03/01
  • メディア: 単行本
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初版は1994年。
収録語数は19万語。
文学作品のタイトルや登場人物名等も詳細に載っているので、とても便利です。
新英和大辞典
2冊の『リーダーズ』があれば、かなりの範囲をカバー出来ますが、それでも載っていない語については、『新英和大辞典』(研究社)を引いてみましょう。
新英和大辞典 第六版 ― 並装

新英和大辞典 第六版 ― 並装

これは、日本で最も伝統と権威のある英和辞典です(初版1927年)。
収録項目数は26万ですが、さすが「ITからシェイクスピアまで」を歌い文句にしているだけあって、これまで挙げた辞書には載っていない語でも見付かることがあります。
語彙については、洋書で『A Shakespeare Glossary』または『Shakespeare-Lexicon』というものもありますね。
僕が学生の頃に受講した「シェイクスピア研究」という授業のガイダンスで、先生が「辞書に載っていない単語は、この2冊を引けば載っていますね」と、こともなげに仰いましたが。
当たり前ですが、語義は全部英語で書かれています。
ただでさえ難解なシェイクスピアの英文を読むだけでも大変なのに、その上、辞書まで読解しなくてはならないとなると、挫折の可能性が極めて高くなります。
学生がひけらかしのためにカバンに入れておくのは自由ですが、時間も英語力もない一般社会人は手を出さない方が無難でしょう。
英文法解説
文法書については、有名な『英文法解説』(金子書房)等は、あくまで現代英語の参考書です。
英文法解説

英文法解説

シェイクスピアの英語は初期近代英語で、もちろん、現代英語とそんなに大きく変わらない部分も多いのですが、これだけでは足りません。
かつては、大塚高信氏の『シェイクスピアの文法』(研究社)、あるいは、荒木一雄氏と中尾祐治氏の共著『シェイクスピアの発音と文法』(荒竹出版)という定評のある参考書があったのですが、これらは残念ながら絶版になっています。
従って、図書館を利用するか、中古で買うかしかありません。
ただ、大抵のことは、上の注釈書と大辞典で解決すると思います。
これから、どれくらい時間が掛かるか分かりませんが、頑張って『ハムレット』を原書で再読したいと思います。
次回以降は、例によって、僕の単語ノートを公開しましょう。
【参考文献】
1995年度 二文.pdf - Google ドライブ
英語教師 夏目漱石 (新潮選書)川島幸希・著
シェイクスピアを英語で読んでみようと思うのですが、内容的&文章的に読み... - Yahoo!知恵袋シェイクスピアを英語で読んでみようと思うの…」(Yahoo!知恵袋
はじめて学ぶイギリス文学史神山妙子・編著(ミネルヴァ書房