日本の英語教育史における『スケッチ・ブック』
アメリカ文学史の最初に出て来るワシントン・アーヴィングの代表作『スケッチ・ブック』は、全34編からなる短編集です。
中でも有名な「リップ・ヴァン・ウィンクル」や「スリーピー・ホロウの伝説」は、映画化されたこともあるので、ご存知の方も多いでしょう。
『スケッチ・ブック』は、かつて英語教材としても大変よく読まれました。
角川文庫版『スケッチ・ブック』(初版:昭和28年)の「解説」は、次のように始まります。
日本において英語を学ぼうとする人にしてアーヴィング(Washington Irving)の名を知らない者はほとんどあるまい。それほどまでに彼の名がよく知られているゆえは、彼の著『スケッチ・ブック』(The Sketch Book)が英語の教科書として旧中学の四年または五年、遅くも旧高等学校の一年ごろに採用されていたからである。(中略)訳者も旧高等学校の一年において、「スケッチ・ブック」を教科書として用いられたのを覚えている。
旧制中学の4年、5年、旧制高校の1年というのは、ちょうど現在の高校1・2・3年に当たります。
訳者の田部重治(南日恒太郎の弟)が旧制第四高等学校(現・金沢大学)に入学したのは明治35(1902)年ですから、その頃には既に、『スケッチ・ブック』が英語の教科書として一般的に用いられていたということです。
それでは、日本の英語教育において『スケッチ・ブック』がどのように扱われて来たか、順を追って具体的に見て行きましょう。
『そしてワシントン・アーヴィングは伝説になった』(彩流社)には、次のようにあります。
アーヴィング作品が掲載されていた『ニュー・ナショナル・リーダーズ』、『ユニオン・リーダーズ』、『ロングマン』、『スウィントン・リーダーズ』などの英語教科書が日本に輸入されたのは明治十六年頃と言われる(中略)『スウィントン・リーダーズ』には『スケッチ・ブック』の中の「ウェスターミンスター寺院」が収められている。輸入教科書に続いて、明治二十年代初頭には日本国内でも各種の英語教科書や副読本の類が盛んに出版されるようになった。それらの中に収録されたアーヴィング作品は、「リップ・ヴァン・ウィンクル」をはじめとして「航海」、「イギリスの田舎生活」などであり、やはり短編集『スケッチ・ブック』中心の翻訳傾向は失われていない。
明治二十年に小諸義塾創設者の木村熊二は明治女学校で『スケッチ・ブック』を中心としたアーヴィング作品を講読の教材として使用している
また、『ワシントン・アーヴィングとその時代』(本の友社)によると、「明治二十年頃には神田の共立学舎での英語学習に『スケッチ・ブック』が教科書として使用されている」とのことです。
共立学舎は、主に大学予備門(後の第一高等中学校。現・東京大学教養学部)への進学のために英語を教える予備校の一つで、こうした予備校は他に、夏目漱石が学んでいた成立学舎や、斎藤秀三郎が教えていた国民英学会などがありました。
少し時代が前後しますが、「宮崎湖処子とワシントン・アービング」には、「福岡では金子堅太郎(1853―1943)がおり、彼は明治4年(1871)留学生として米国へ渡り、ハーヴァード大学に学び、明治11年(1878)帰国して東京神田の共立学舎で英語を教えた時アーヴィングのスケッチブックを教科書に使用した」とあります。
さらに、『修猷館の英語教育 明治編』(海鳥社)によると、明治24(1891)年に、それまで英語専修学校であった修猷館(現・福岡県立修猷館高校)が尋常中学になり、その第5年級の英語の教科書として、「アーウヰング、スケッチ、ブック」が挙げられているのです。
中学校だけでなく、『近代日本の英語教育史』(東信堂)によると、明治25(1892)年の和歌山県尋常師範学校(現・和歌山大学教育学部)の4学年、明治27(1894)年の千葉県尋常師範学校(現・千葉大学教育学部)などの師範学校でも教科書として用いられていました。
当時の師範学校の入学資格は、高等小学校4年(現在の中学2年)卒業以上、かつ17歳以上です。
師範学校は、年齢は随分違いますが、しばしば同じ県庁所在地の県立中学校と並んで、県下の最高学府でした。
だから、『坊っちゃん』に「中学と師範はどこの県下でも犬と猿の様に仲がわるいそうだ」とあるように、喧嘩が絶えなかったのですね。
しかしながら、週6~7時間の英語の授業時数が割り当てられていた中学校に対し、師範学校の授業時数は週にわずか2~3時間しかありませんでした。
それでも、中学校と同じ教科書を使っていたので、レベルが高く、進度もかなり速かったようです。
当時の和歌山師範学校の卒業生の回想を以下に引きます。
私は中学二年迄行ったが書物が全く読めないのですから殆んど閉口しました。(中略)師範へ入っても実は学課の半数位は何を学んだのか全く別りません。(中略)英語と云へば、一年生でナショナルリーダ第一第二の二巻、二年でスヰントンの万国史、三年でクライブ伝、四年でアーヴィングのスケッチブックと云ふ風に其程度が余りに一足飛で何にも判らない。殊に英文法英作文などは全然教はらない。
ここからも、文法を習得せずに長くて難しい英文を読もうとすることが如何に無謀であるかが分かります。
『英語教師 夏目漱石』(新潮選書)によると、漱石は明治28(1895)年、『坊っちゃん』の舞台になった愛媛県尋常中学校(現・愛媛県立松山東高校)で『スケッチ・ブック』を教科書に使いました。
以下に生徒の回想を引用します。
夏目先生が来て、スケツチブツクを講義し初めると、不思議によくわかつて、英語の面白味が初めて感ぜられるやうになつた。先生は吾々に四五年を通じてスケツチブツクのヴオイエージとロスコーとブロークン・ハートの三章を講義された。
『英語教師 夏目漱石』には、『スケッチ・ブック』について、次のようにあります。
当時の中学校でよく使われ、確かに真鍋が四年次から習っていたゴールドスミスの『ウェイクフィールドの牧師』に比べて文章はやさしい。先に東京専門学校で『ウェイクフィールドの牧師』を教えていた漱石は、その経験を踏まえてより平易な教科書を選んだのであろうが、これは「やさしい教科書を選ぶべし」という漱石の英語教育論と合致している。
『ウェイクフィールドの牧師』は、『英語天才 斎藤秀三郎』(日外アソシエーツ)によると、斎藤主宰の正則英語学校講義録(通信教育)では、受験科の読本として配当されていました。
受験科は、旧制中学5年レベルの上に位置付けられていたので、現在の高校3年に相当します。
『スケッチ・ブック』は、これよりも易しいということですから、やはり旧制中学レベルということでしょう。
参考までに、この講義録では、ラムの『シェイクスピア物語』(と思しき作品)が5年、『フランクリン自伝』(と思しき作品)が受験科に配当されているので、これでおおよそのレベルが推測出来るのではないでしょうか。
僕がかつて在籍していた学部の1986年度のシラバスを見ると、4年生の英文学研究VAという授業で『ウェイクフィールドの牧師』の講読が行われていました。
明治期とのレベルの違いに愕然とします。
ちなみに明治20年代当時、東京専門学校(現・早稲田大学)では、坪内逍遥が『スケッチ・ブック』を教えていました。
「早稲田大学百年史 別巻I」によると、「東京専門学校文学科学科配当表(明治二十五年一月)」に、「ラセラス」(サミュエル・ジョンソン作)や「マーチヤントオブヴェニス(ヴェニスの商人)」と並んで「スケッチ・ブック」の名が見え、担当講師は坪内雄蔵(逍遥)とあります。
明治29(1896)年、文学科に付属していた専修英語科が独立して英語学部となりますが、この時の担当講師と使用された主なテキストは次の通りです。
英語学部は初め、文学士と神学修士の学位をもってアメリカから帰国した片山潜を主任にして発足したが、主任の役は間もなく宗教学者でいて修辞書や英作文を教える岸本能武太に交代した。この学部の担当講師は、片山が英語で社会学を教え、天野がジョン・スチュアート・ミルの経済学、高田は憲法、坪内はアーヴィングの『スケッチ・ブック』やチャールズ・ラムの『シェイクスピア物語』、増田はマコーレーの『ミルトン論』を教えた。
スゴイ時代ですね。
再び、漱石の生徒の回想を引きます。
先生の英語の教授法は、訳ばかりでは不可ない、シンタツクスとグラムマーを解剖して、言葉の排列の末まで精細に検覈しなければならぬと云ふので、一時間に僅に三四行しか行かぬこともあつた。そのため二年間にスケツチブツク三章しか読了しなかつたのである。
なお、漱石は愛媛県尋常中学に1年間しか在籍していないそうなので、「二年間に」というのは誤りです。
ただ、1年間でも、『スケッチ・ブック』の3編しか進まないというのは、驚くほどゆっくりとしたペースでした。
最初の引用の「ヴオイエージ」(The Voyage)は、僕の手元にあるオックスフォード版のペーパーバックで6ページ、「ロスコー」(Roscoe)も同6ページ、「ブロークン・ハート」(The Broken Heart)は同5ページです。
漱石の訳読の授業時間数は不明ですが、仮に週1時間だとしても、1回の授業で教科書の半ページくらいしか消化しなかったことになります。
これは、「一時間に僅に三四行しか行かぬこともあつた」にも合致しますね。
ペーパーバックは1ページ当たり400~500語くらいですので、昨今の「英語は英語で」教えるという高校のリーダーの授業の方が、進度が速いかも知れません。
これだけ進度が遅かった理由は、引用にあるように、「シンタツクスとグラムマー」、つまり、構文と文法に細かく、語順にも十分気を配った上で解釈したからです。
一方、愛媛県尋常中学を去った後に赴いた熊本の第五高等学校(現・熊本大学)では、全く違った教え方をしました。
生徒の回想です。
松山中学時代には非常に綿密な教へ方で逐字的解釈をされたさうであるが、自分等の場合には、それとは反対に寧ろ達意を主とする遣方であつた。先生が唯すら/\音読して行つて、さうして「どうだ、分つたか」、と云つた風であつた。
これは、生徒の学力を考慮したものと考えられます。
漱石は、かつて発表した「中学改良策」の中で、「上級にあつては未だ訳読を済まさゞる場所にても容易なる部分は之を読み翻訳の手数を費やさずして直ちに洋書を理解する力を養ふべし」と述べており、五高では、まさにこれを実践したということですね。
基本的な文法や構文は中学段階で既に身に付いているはずだから、高等学校ではそれを基にして多読しろと。
伊藤和夫(駿台予備学校元英語科主任)先生は、『伊藤和夫の英語学習法』(駿台文庫)の中で、「ゆっくり読んで分かる文章を練習によって速く読めるようにすることはできるが、ゆっくり読んでも分からない文章が速く読んだら分かるということはありえない」と仰っています。
僕が浪人していた頃(1990年代初頭)の駿台には、『英語構文演習』という基幹テキストがあり、関係代名詞やら接続詞やらで複雑に入り組んだ英文を、それこそ1時間に数行ずつくらいのペースで解析していました。
我々の時代には、英語の入試問題は既に長文化していましたが、漱石と伊藤先生は、「基本が大事」という点で、100年近くの時間の隔たりがあっても、全く一致しているのです。
ところが昨今は、「英語は英語で」という方針の下、中学・高校では文法を軽視、あるいは無視した授業が行われています。
文法を日本語で解説することは「悪」であり、英文を日本語に訳して意味の確認をすることもしません。
これで、どうやって正確な読解力を身に付けろと言うのでしょうか。
にも関わらず、先日の大学入試共通テストを見ても分かるように、英語の入試問題の長文化は留まるところを知りません。
これでは、伊藤和夫先生が前掲書で仰っているように、「ゆっくり読んでも分からない文章を速く読んでみたところで誤解と妄想におちいるだけ」です。
さて、漱石は、松山、熊本で教えた後、東京帝国大学(現・東京大学)の講師になります。
ここで、エリート中のエリートであるはずの帝大生の英文読解力の実態を知り、愕然としました。
学生の回想です。
今日からいよいよ夏目講師の『サイラス・マーナー』の訳読が始められた。そして私達は指名されると席を立つて、中学や高校の生徒のやうにリーディングをして、それから訳をつけさせられるのである。リーディングはかたつぱしから直されるので、当つた者は衆人環視の中で大きな恥辱を与へられる事になつた。私達は大学生から逆転して再び中学生に戻されたやうな屈辱を感じた。
漱石は、正確な発音や解釈が出来ることは英文学を学ぶ前提であり、まして、英文科の学生は大学卒業後に教師になるのが普通なのですから、こうした英語力は必須のものだと考えていました。
ところが、初めて大学で教えてみると、自分の時代よりも学生の英語力がかなり低下しています。
そこで、帝大と同時に教えていた第一高等学校(現・東京大学教養学部)では、一転して、語源を重視し、一語一語にこだわった、中学のような指導法に戻したのです。
翻って、明治時代の国家的エリートであった大学生とは比べるべくもない現代の大衆化した大学生が、こんなに英語の基礎を疎かにしていて、いいのでしょうか。
昨今の大学では、英文学どころか、学生に英文法の補習をしたり、中には、アルファベットから教え直したりしていることもあると聞きます。
英語力を身に付けるために、もちろん多読は大事でしょう。
しかし、それは、一文一文の意味を正確に把握出来る語彙や文法の基礎があってこそのものです。
このままでは、日本の英語教育は悲惨なことになります。
話しを『スケッチ・ブック』に戻しましょう。
「ハイブリディティとしての近代――ワシントン・アーヴィングと「日本近代文学」の成立」によると、明治30(1897)年には、開成尋常中学校(現・開成高校)5年級や、正則尋常中学校(現・正則高校)5年級でも、『スケッチ・ブック』が英語読本として使われていたという記録が残っています。
『スケッチ・ブック』を教えた文豪は、漱石だけではありません。
『そしてワシントン・アーヴィングは伝説になった』によると、芥川龍之介は大正5(1916)年に東京帝国大学を卒業した後、漱石らの推薦で横須賀の海軍機関学校の英語教師になりましたが、ここでアーヴィングの「リップ・ヴァン・ウィンクル」を好んで教材として使用したそうです。
旧制高校でも、『スケッチ・ブック』は英語教材としてよく使われました。
「大正後期における旧制高校の英語教科書について」によると、大正10(1921)年度の松本高等学校(現・信州大学)の1年級、山口高等学校(現・山口大学)の1年級、佐賀高等学校(現・佐賀大学)の2年級で、『スケッチ・ブック』が教科書に指定されています。
軍学校でも『スケッチ・ブック』は英語教材として使われていたようです。
『近代日本の英語教育史』によると、昭和12(1937)年の陸軍士官学校本科用の教科書『英語教程 巻一』には、『スケッチ・ブック』から「The Voyage」が収められています。
日米開戦が近付き、英語が適性語扱いされるようになった時代でも、『スケッチ・ブック』は読まれました。
同じく『近代日本の英語教育史』には、昭和14(1939)年に三重県師範学校(現・三重大学教育学部)の専攻科に入学した学生が、『スケッチ・ブック』の原書を独習したことが紹介されています。
戦後も、『スケッチ・ブック』は大学受験参考書や副読本の中で生き残り続けました。
朱牟田夏雄先生の名著として名高い、昭和34(1959)年初版発行の『英文をいかに読むか』(文建書房)には、様々な英文学作品から演習問題が選ばれていますが、その中に、『スケッチ・ブック』から「The Voyage」の一節もあります。
今では、この本が受験参考書とは到底信じられませんが、元になったのは「Student Times」の連載とのことですので、当時は高校生向けだったということです。
それから同じ年、あの旺文社が「英文学習ライブラリー」という英文学の対訳本のシリーズを出しましたが、その第1巻が『スケッチ・ブック』でした。
「はしがき」には、次のようにあります。
アーヴィングは、アメリカ文学史の最初にあらわれる作家である。イギリスで得た名声がそのままアメリカに伝わって、生前すでに古典だった。文章は上品だし、長くもないから、教室で教えるには一ばんふさわしい教材だった。ことに「スケッチ・ブック」は、多くの教師に愛用された。これはヨーロッパ大陸でも、同じである。「スケッチ・ブック」を教科書ふうに編んだものも数はおびただしい。
明治以来、この本はずいぶん読まれた。アメリカ帰りの人々が、この小品集を新しい日本文学のモデルにせよと説いた。(中略)
そのころは日本人で英語を学ぶ者は、必ずこの書物を手にしたといわれる。
僕は、この本をアマゾンの中古で買いましたが、巻末の余白に「兵庫県立豊岡高校」という書き込みがあるので、やはり高校の副読本として使われていたということですね。
戦後も1970年代までは、高校の教科書も大学入試問題も、英文学が非常に重視されていました。
それでは、戦前の旧制中学生から戦後の新制高校生まで英語教材として読んだ『スケッチ・ブック』の英文のレベルは、どの程度のものなのでしょうか。
『ワシントン・アーヴィングの世界』(名著普及会)には、「殆ど一世紀にわたつて、「スケッチ・ブック」は世界中の英語を学ぶ者にとつての、最初の読本として使用された」とあります。
「最初の読本」ということは、原書講読の入門書ということですね。
ドイツ語で言えば『グリム童話』、ラテン語で言えば『ガリア戦記』に当たるということでしょうか。
斎藤兆史先生の『英語達人列伝』(中公新書)によると、新渡戸稲造は明治6(1873)年、発足したばかりの東京外国語学校に入学しますが、この頃の彼の英語力は文学作品を鑑賞するには十分でなく、ミルトンの『失楽園』を買って、余りにも手に余る難物であることを知り、アーヴィングの『スケッチ・ブック』の方を買えば良かったと後悔したとのことです。
『スケッチ・ブック(改訂版)』(研究社新訳注双書)の篠田錦策氏は、「はしがき」に、「この訳注の筆者が学生として教科書の中で初めてRip Van Winkleの原文を読むことになった時には、(中略)文章も平明で楽しく読めるから教室でのろのろと少しずつ読むのはもどかしく、自宅で辞書をたよりにまがりなりにもぐんぐん読んだ」と書いています。
しかし、この本の初版発行は昭和26(1951)年ですから、篠田氏は間違いなく、旧制の教育を受けているはずです。
かつて豊富なラインナップを誇った対訳本シリーズ「学生文庫」の1冊『スリーピー・ホロウの伝説』(南雲堂)の「はしがき」には、「ひどく洗練された流麗な文体をもち、かつ非常に語彙が豊富であるから、よく味読すれば、語学の習得にも資するところが多大であると思われる」とあります。
こちらも、「訳注者略歴」によると、訳注の田代三千稔氏は「大正13年東京大学英文科卒業」とあるので、旧制です。
同じく田代氏の訳注による『対訳アーヴィング』(南雲堂)の「はしがき」にも、「どの作品も洗練された流麗な文体をもち、かつ極めて詞藻に富み、語彙が豊かであるから、たんに文学作品としての鑑賞ばかりでなく、語学習得の書として、一度は必ず味読すべきものである」と、ほとんど同じことが書かれています。
この本の初版は昭和27(1952)年です。
それから、昭和41(1966)年に新版が出た、伝説の英語教師として名高い田中菊雄氏の『英語研究者のために』には、次のようにあります。
最初から難解なものに突き進むのも一つの勉強法であるが、とかく挫折のおそれがある。やはり飛躍せずに土台を堅めつつ徐々に進むのが最善の道である。何といっても最初はリーダーがよい。リーダーをつまらぬなどという考えを持たずに熱心に読むことが必要である。中学校・高等学校のリーダー数巻をりっぱに征服したならばもうたいていのものは読めるはずであるが、それでも前に述べた程度の書物に入るにはまだ力が足りない。ちょうどこの中間のボーダーライン(国境地帯)として読むべき書物としておすすめしたいのは、平易な小説・物語と、処世訓的論文である。前者にはコナン・ドイルの探偵小説、グリム、アンデルセンなどのおとぎばなし、『クオレ物語』、ラムの『沙翁物語』、キングズリの『希臘の英雄』、ハーンの『妖怪談』、アーヴィングの『スケッチ・ブック』などがよいと思う。後者にはマーデンの『プッシング・ツー・ザ・フロント』、スマイルズの『自助論』、ロード・エイヴバリー(Lord Avebury)の『ユース・オブ・ライフ』などがよろしい。この辺を越せば、もうどんな書物に立ち向かっても心配はないと思う。
田中氏は明治26(1893)年生まれ。
小学校を卒業後、独学で国立大学の教授にまで登り詰めた立志伝中の人です。
上に挙げられた作品は、いずれも戦前の中学・高校で英語教材としてよく読まれました。
学校のリーダーから本格的な文学作品の原書に移行する過程に読むべき「平易な」小説・物語の一つとして、『スケッチ・ブック』も挙げられています。
もっとも、田中氏が実際に修業時代に読んだのは、アメリカから直輸入の『ナショナル・リーダー』ですから、現在の中学・高校の英語のリーダーとは、大分レベルが違うでしょうが。
戦後教育を受けた者の目から見れば、どうでしょうか。
『そしてワシントン・アーヴィングは伝説になった』には、「英語の模範」であり、「平明典雅な文体」とあります。
著者の齊藤昇氏は昭和30(1955)年生まれですから、戦後ですね。
本当に、「平明」なのでしょうか。
では、『リップ・ヴァン・ウィンクル(ニュー・メソッド 英文対訳シリーズ36)』(評論社)の〈作品および作者紹介〉を見てみましょう。
Irvingの文体はかなりこったところもあり、単語にも相当むずかしいものが出てくるが、Rip Van Winkleはその中では最も読みやすいものの一つであるから、高校3年ぐらいの学力があれば容易に読破できよう。
*また余談ではあるが、The Sketch Book1冊を読めば、未知の単語を5,000ぐらいは覚えられると言われている。単語の力をつけたい人はぜひこれを1冊通読されるようおすすめしたい。
この本の初版発行は昭和38(1963)年ですから、今の高校生とは大分学力レベルが違うと考えられます。
『The Sketch Book』はオックスフォード版のペーパーバックで約350ページもありますから、5000語の単語を覚えるために、これを読破するような英語力のある高校生は、受験勉強なんか止めて、とっとと世界に羽ばたいた方が良いでしょう。
一方、英検3・4級レベルの読解教材である『リップ・バン・ウィンクル(やさしい英語で楽しむ世界名作シリーズ3)』(日本英語教育教会)の「『リップ・バン・ウィンクル』について」には、「原作の英文は“formal”(形式ばった)ものなので、読みにくいものである」とあります。
この本の初版発行は昭和59(1984)年です。
平成20(2008)年発行の『日本人は英語をどう学んできたか』(研究社)では、明治期の英語教育について、次のように書いています。
こうして旧制中学校の上級や高等学校では、さらに難解な作品を読むようになる。なかでもSamuel JohnsonのRasselas、MacaulayのLord Clive、SoutheyのThe Life of Nelsonなどの英雄伝記ものや、IrvingのThe Sketch Book、CarlyleやEmersonの論文集などが好まれた。今日の大学院レベルの英文を読んでいたのである。
『スケッチ・ブック』の英文は、「大学院レベル」なのだそうです。
文法無視の英語教育のせいで、英文科でも原書講読の授業が成立せず、英会話の練習やTOEIC対策に明け暮れているような現状では、無理もありませんね。
なお、僕が調べた限りでは、高知大学の文化学科の「アメリカ文学講読」という授業で、『スケッチ・ブック』の講読が行われていました。
年度は判りませんが、担当の山口義成氏は現在、金沢大学の教授で、職歴を見ると、2003~2018年まで高知女子大学・高地県立大学に勤務していたようなので、この間のどこかでしょう。
シラバスには、次のようにあります。
Washington Irving, "The Legend of Sleepy Hollow" (1820)を克明に読む。一つひとつの語義に注意を払うだけでなく、内容や時代背景に関わるような注釈をつけながら読み進める。最終的には、一冊の注釈本に仕上げることを目的とする。
スゴイですね。
現在では珍しい、極めて硬派な授業です。
履修年次は1~4年とあります。
と言う訳で、『スケッチ・ブック』の英文の難易度について、余りにも意見に幅があり過ぎるので、本当のところはどうなのかを知るために、自分で読んでみることにしました。
作者について
それでは、『スケッチ・ブック』の作者であるワシントン・アーヴィングについて、その生涯の概略を、少し長くなりますが、よくまとまっている開拓社の大学用テキスト『Rip Van Winkle』の「はしがき」から引用します。
なお、全くの余談ですが、彼の誕生日は僕と同じです(もちろん、生まれた年は違いますが)。
ワシントン・アーヴィング(Washington Irving)は、日本でいえば、徳川時代末期ごろの人である。1783年の4月3日にニューヨークで生まれている。アメリカ合衆国という国家が生まれかかっていたころのことであり、ワシントンという名前はのちに大統領となったワシントン将軍の名にちなんだものであった。父親はスコットランド人で、母親はイギリス人、その間に生まれた11人の子供の末子がワシントン・アーヴィングである。
そのころのアメリカ合衆国は、いわば、幼児期であり、オランダ色濃かったニューヨークの人口は3万に満たないほどのものであった。子供のアーヴィングは波止場で遊んだり、ハドソン河をさかのぼったりしながら、街燈はまだ石油ランプというような町で育った。この早熟多感な子供は体が弱く、教育はあまり受けなかった。16歳のときには法律事務所にはいったが、あまり気にそまず、19歳のころになると、兄の経営していた新聞(Morning Chronicle)に寄稿したりしている。筆名をJonathan Oldstyleといい、AddisonやSteeleを気どっていたものである。21歳になると、ヨーロッパへ渡っている。航海や転地によって健康を回復しようとしたのであった。1年半ばかりの間、フランスやイタリアなどで過ごし、ニューヨークへ帰ってから弁護士の免状を得た。が、けっきょく彼の興味は文筆に向かい、1807年には兄と友人と自分の3人でSalmagundiという雑誌を出している。AddisonのSpectatorをまねたもので、相当に好評をはくしたらしい。しかし、彼がいわば知名の人になったのはDiedrich Knickerbockerという仮名で出版したHistory of New York(1809)によってである。ニューヨークがまだNew Amsterdamの名で呼ばれていたころのオランダ移民に関するおもしろおかしい物語という種類のものであった。
1815年アーヴィングはイギリスへ渡り、兄の事業を手伝うことになった。そのときからけっきょく17年も在外生活がつづくことになるのであるが、事業は経営困難となり、彼自身は文筆に専念することとなった。
1817年、34歳のときには、Walter Scottを訪ねている。そして、1819年、36歳のころ、一連の随筆・紀行・物語を発表しはじめた。これがThe Sketch Book(1819-1820)である。アメリカにおいては7回にわたって分割出版(最後のものが1820年)され、イギリスではScottの世話で1820年The Sketch Book of Geoffrey Crayon, Gent. と題して出版された。ロンドンにおいても、ニューヨークにおいてもたいへんな成功で、英国の文人にも多くの知己をえた。外国では、まだ、アメリカ人が認められていなかったころのことである。
つづく数年の間を、彼はフランスやドイツで過ごし、Bracebridge Hall(1822)という英国の地方生活に関するもの、The Tales of a Traveller(1824)という物語集を発表している。1826年にはマドリッドを訪れ、米国公使館員として3年を過ごした。古いスペインに対する興味を覚えA History of the Life and the Voyages of Columbus(1828)、The Conquest of Granada(1829)、Voyages of the Companions of Columbus(1831)、The Alhambra(1832)などが出版されるに至っている。2年間(1829-1831)をさらに公使館員としてロンドンで送ってから、1832年、49歳のとき、17年ぶりで、ニューヨークへ帰った。すでにアメリカ文学界の大立物であった。居をハドソン河畔のTarrytownに構え、みずからSunnysideと名づけ、このはれやかな閑居で、都会のざわめきをよそに静かな余生を送ることとなった。
しかし、この静かな生活も、1842年には破られることになった。彼はスペイン公使に任命され、ふたたびマドリッドにおもむかなければならなかったからである。彼がアメリカへ帰ってきたのは1846年であり、63歳になっていた。晩年はLife of General Washington(1855-1859)という彼最大のそして最も長い作品の執筆に、主として、費やされた。彼は1859年11月28日“Sunnyside”の自宅で亡くなった。
作品について
続いて、『スケッチ・ブック』という作品について、『はじめて学ぶアメリカ文学史』(ミネルヴァ書房)に、極めて簡潔にまとめられているので、下に引いておきます。
彼の代表作は、「リップ・ヴァン・ウィンクル」(“Rip Van Winkle”)や「スリーピー・ホロウの伝説」(“The Legend of Sleepy Hollow”)を含む『スケッチ・ブック』(The Sketch Book, 1819-20)である。ハドソン川上流のキャッツキル山中で20年間も「冬眠」した男の話「リップ・ヴァン・ウィンクル」の中では、粗野なリップの妻が戯画的に誇張されており、またリップの20年間の不在の間に独立したアメリカの状況が、リップに違和感をもたらすように描かれている。
また、首のない騎士のかぼちゃのお化けに、全ての目論見をぶち壊される青年、イカボッド・クレーンの登場する「スリーピー・ホロウの伝説」には、民話を題材としながらも、アメリカ人の性急な「成功」への野心を皮肉るアーヴィングの心情が読みとれる。
これらの作品は、ユーモアに包まれてはいても、アメリカの現実に満足感を抱かず、古き良き時代をノスタルジックに追い求めるアーヴィングの心情を投影したものといえる。それゆえ、同時代のイギリスの批評家からは、「アメリカ生まれの最良のイギリス作家」と評されている。
また、『新版 アメリカ文学史』(ミネルヴァ書房)には、別の切り口で書かれているので、こちらも引用しておきます。
ワシントン・アーヴィングは、代表作『ジェフリ・クレイヨン氏のスケッチブック』(The Sketch Book of Geoffrey Crayon, Gent., 1819-20)で、9千ドルを得たといわれる。当時としては、アメリカはもちろんのこと、イギリスでもスコットを除けば、これほど人気のあった作家はいなかったのであり、文字通り文壇の大御所的存在であった。
なぜアーヴィングがこれほどに読まれたのだろうか。その原因の一つに、当時のアメリカ人のイギリスに対する意識の変化がある。『スケッチブック』の語り手クレイヨンにとって、イギリスは「子ども時代に聞かされて以来、長年ずっと思い描いてきたあらゆるものに満ちた約束の地」だったという。「約束の地」(創世記12:7)とは、アメリカ大陸をはじめて目にしたピューリタンたちが、この新世界を呼んだ言葉であったはずだが、それがいま、彼らが拒否し捨ててきた国イギリスに向かって使われているのである。あれから200年、ようやくアメリカ人がイギリスに対して抱くようになった郷愁にも似た親密感を、この作品は表わしていた。
もう一つの理由として、『スケッチブック』が当時のアメリカ社会が与える不安や抑圧から読者を解放してくれたことをあげねばならない。いうまでもなく1820年代のアメリカは、イギリスとの戦争もすんで、工業化、商業化へと走りだし、大きな変化の途上にあった。現実世界に生きる人々にはクレイヨンのいう「朽ち果てた古城のまわりを散策し、倒れかかった尖塔をみつめる」余裕などなかった。ロマンチックなイギリスの点描のみならず、口やかましい妻からのがれ、ひとりキャツキル山に遊ぶ気楽なリップ(“Rip Van Winkle”)、失敗こそすれ安逸な生活を目論んで金持ち娘を手に入れようとしたクレインの話(“The Legend of Sleepy Hollow”)は、禁欲的労働を説くピューリタン倫理からのしばしの解放を読者に味わわせてくれたに違いない。
(中略)しかし、こうした特徴は同時に、現代の読者にはもはや通用せず、かえって物足りなさを感じさせる。政治の大変革がおこったのもリップが山で寝ている間であったように、アーヴィングの世界では、結婚、死その他人間の生にかかわる重大事が正面切って扱われることはない。クレイヨンはそれらに巻き込まれることを避け、あくまでも「他人の幸不幸の傍観者にすぎない」気楽な独身者を通そうとする。アーヴィングが当時の大衆と深いところでつながっていた点を評価するにしても、同時代の他の作家たちと比べて見劣りがしてしまうのは、彼のこうした逃避的姿勢が作品に限界を与えるからである。
『スケッチ・ブック』のうち、「リップ・ヴァン・ウィンクル」については、『たのしく読めるアメリカ文学』(ミネルヴァ書房)にあらすじがまとめられているので、以下に引用します。
ニューヨークからハドソン川を上流へ遡ると、西岸に美しいキャッツキル山脈が見えてくる。まだイギリスの植民地だった頃、その麓の村にリップ・ヴァン・ウィンクルという恐妻家で、人の好い男が住んでいた。畑仕事や儲かる仕事は好きではなかったが、けっして怠け者というわけではなく、たとえ報いは少なくとも、釣りや猟や頼まれ仕事ならば喜んでするという男だった。だがおかげで女房にはどやされっ放しだった。
口うるさい女房から逃れるため、彼はしょっちゅう鉄砲を肩に森へ出かけていたが、ある秋の日のこと、リスを追いかけて森をさまよっているうちに、リップはキャッツキル山脈の奥深く入り込んでいた。日暮れが迫り、女房に叱られると思い、帰途に就こうとしたときだ。どこからか、「リップ・ヴァン・ウィンクル」と呼ぶ声が聞こえた。昔のオランダふうの身なりをした見知らぬ老人だった。酒樽を運ぶ手伝いをして欲しいという老人の依頼に、人の好いリップは怪訝に思いつつもついて行った。山間の窪地に着くと、同じような服装の一団がおり、運んできた樽の酒を飲み初めた。リップも勧められるままに飲み、やがて眠り込んだ。
目を覚ますと、そこは老人と出会った最初の場所だった。持っていた鉄砲は古錆び、連れてきた犬も見当たらない。鉄砲も犬もあの山中の一団に盗まれたと思い、その場所に引き返したが、何もなく、仕方なく村に戻ることにした。だがおかしなことに、戻った村は様子が一変し、見知らぬ人間ばかりだった。女房にどやされると思いつつ自分の家に行ってみたが、誰もおらず家は壊れかけていた。自分が一体誰なのかさえ分からなくなったとき、いまは母親となった自分の娘に出会い、女房も友人たちもすでに亡く、リップが失踪してからじつに20年の歳月が流れていたことを知らされたのだった。その間にアメリカは独立し、選挙だの民主主義だの、リップにはわけの分からぬ世界に変わっていた。だが徐々に新しい世界にも馴れ、村の長老として、独立戦争以前の昔を知る語り部としてリップはその余生を送ったのであった。
テキストについて
Oxford World's Classics版
初版は1996年。
アメリカ文学に分類される『スケッチ・ブック』ですが、イギリスでも、ほぼ同時期に出版されました。
岩波文庫版『スケッチ・ブック(下)』の「解説」によると、1819年に、まずアメリカで分冊の形で刊行され、翌年、それらをまとめた単行本がイギリスで出版されたのです。
僕は恥ずかしながら、アメリカで古典文学を出しているメジャーな版元を知りません。
そこで、このオックスフォード版を選びました。
アマゾンの本体では品切れになっているので、イギリスの出品業者からの取り寄せになります。
僕の場合は、2週間くらいで到着しました。
本文は約320ページで、『スケッチ・ブック』の全作品(34作)が収録されています。
他に、「Introduction」「Note on the Text」「Select Bibliography」「A Chronology of Washington Irving」「Appendix: Prospectus and Advertisement」「Irving's Notes」「Editor's Notes」を収録。
イギリスの版元なのでイギリス英語かと思いきや、neighbour(イギリス綴り)ではなくneighborと綴られているので、アメリカ英語ですね。
しかしながら、molderはmoulder(イギリス綴り)と綴られており、一方、travelerはtraveller(イギリス綴り)ではなく、また、humorもhumour(イギリス綴り)ではありません。
アメリカ独立から日が浅いので、現在のように、アメリカ綴りとイギリス綴りが明確に分離していなかったのでしょう。
なお、洋書を選ぶ時、アマゾンでタイトルを検索すると、膨大な件数がヒットします。
そこで、池袋のジュンク堂さんの9階へ行くと良いでしょう。
同じ作品でも、色々な出版社から出ている版が揃っているので、実際に手に取って比較が出来ます。
ちなみに、ペンギン・クラシックスからは『The Legend of Sleepy Hollow and Other Stories』というタイトルで発行されていますが、中身は『スケッチ・ブック』です。
こちらも、全34作が収録されています。
パフィン・クラシックス(ペンギンの児童向けレーベル)からは『Rip Van Winkle and Other Stories』というタイトルで出ていますが、こちらは、「Rip Van Winkle」「The Legend of Sleepy Hollow」を含む5作品しか載っていません。
翻訳について
岩波文庫版
【上巻】
初版は2014年。
翻訳は齊藤昇氏。
上巻に収録されているのは、「著者自身を語る」「船旅」「ロスコウ氏をめぐって」「妻」「リップ・ヴァン・ウィンクル」「イギリス人文筆家のアメリカ観」「イギリスの田園生活」「ブロークン・ハート」「書物の作り方」「王室の詩人」「田舎の教会」「寡婦とその息子」「ロンドンの日曜日」「イーストチープの居酒屋ボアーズヘッド」「文学の変転」「田舎の葬式」「旅籠の厨房」「幽霊花婿」「ウェストミンスター寺院」の19編。
巻末には、「訳注」があります。
挿絵も豊富です。
現在、新刊で入手出来る唯一の翻訳です。
かつては、角川文庫、新潮文庫などからも翻訳が出ていましたが、いずれも絶版になっています。
また、これまでの翻訳はほとんどが抄訳でしたが、本版は全訳です。
新しい訳なので、非常に読み易くなっています。
古典文学、特に、シェイクスピアと聖書からの引用が多いです。
現在では考えられませんが、当時のアメリカは「辺境の地」でした。
本作は、よく「イギリスへの郷愁」と表現されますが、僕は、植民地アメリカの出身であるアーヴィングはイギリス本国にコンプレックスを抱いていたのではないかと思います。
「辺境のアメリカで認められても仕方がない、何としても本国で認められるぞ」と。
そのようなアーヴィングの思いが、行間からひしひしと伝わって来ます。
当時のアメリカには、未だまともな文学は存在していませんから、文学作品を読むにはイギリスから取り寄せるしかなかったというような時代です。
当然ながら、アメリカには文壇のようなものはなく、アーヴィングはイギリスに渡り、イギリスの文壇の仲間入りを果たそうとしました。
当時のイギリスは、ウォルター・スコットを始めとして、文学者の宝庫ですから。
ですから、アーヴィングを「最初のアメリカ文学」と言いますが、実態はイギリス文学なのではないでしょうか。
さて、実際に読んでみると、特にドラマチックな展開などはなく、何となく「いい話し」が集められています。
チャールズ・ラムの『エリア随筆』などもそうですが、当時は、こういうのが受けたのでしょう。
【下巻】
初版は2015年。
下巻に収録されているのは、「クリスマス」「駅馬車」「クリスマス・イヴ」「クリスマス・デイ」「クリスマス・ディナー」「アンティークのあるロンドンの風景」「リトル・ブリテン」「ストラットフォード・アポン・エイボン」「アメリカ・インディアンの特徴について」「ポカノケットのフィリップ」「ジョン・ブル」「わが村の誇り」「釣り師」「スリーピー・ホローの伝説」「あとがき」の15編。
巻末には、「訳注」と「解説」があります。
「解説」は概ね、訳者のアーヴィング関連の著書の内容をまとめたものです。
「本書の訳出に際しては原著の文意をできるだけ損なうことがないように、それぞれの場面や文脈にふさわしい最も適切な訳語を当てることに努めたのは当然のことながら、文章の読みやすさを考慮し、原文の意味に沿って適宜言葉を補うなどの配慮を心がけた次第である」とあるように、本書の訳文はかなり「意訳」されています。
原文と対照する際には注意が必要です。
注釈書について
『スケッチ・ブック』の注釈書で現在、日本で新刊として流通しているものはないようです。
数年前には、研究社小英文叢書の『リップ・ヴァン・ウィンクル』が普通に大型書店で入手出来ましたが、現在では、アマゾンでも品切れになっています。
やはり、最近はあまり読まれなくなっているのでしょうか。
参考文献について
『そしてワシントン・アーヴィングは伝説になった』
初版は2017年。
著者は、日本におけるアーヴィング研究の第一人者である齊藤昇氏(立正大学文学部・大学院文学研究科教授)。
現在、新刊で入手出来る唯一のアーヴィング研究書です。
アーヴィングの生涯を、作品の解説を織り交ぜながら、コンパクトに綴っています。
ウォルター・スコットを始め、同時代のイギリス本国の文学者と幅広く交流を持ち、そのおかげで、『スケッチ・ブック』で一躍名声を手に入れたのです。
しかし、その後のアーヴィングは、名士との交流を保つために借金を重ね、その穴埋めのために必死で作品を仕上げますが、ついに『スケッチ・ブック』を超えるものは現われませんでした。
彼は、アメリカの文学者ですが、その視線は常にイギリス本国を始めとするヨーロッパを向いていました。
その辺りの概略は、本書を読めば、よく分かります。
それから、最後の「アーヴィングと日本」の章が非常に興味深いです。
明治期から、アーヴィングはどのように日本で受け入れられて来たのかを詳細に綴っています。
映画化作品について
『スリーピー・ホロウ』
現在、『スケッチ・ブック』の映画化作品で、廉価版のブルーレイで入手可能な唯一のものです。
1999年の
アメリカ映画。
監督は
ティム・バートン。
製作総指揮は、『
アメリカン・グラフィティ』の巨匠
フランシス・フォード・コッポラ。
主演は、『
プラトーン』の
ジョニー・デップと、
クリスティーナ・リッチ。
共演は、『
ディア・ハンター』の
クリストファー・ウォーケン、『
アマデウス』のジェフリー・ジョーンズ、『
クリスマス・キャロル(
1984)』『
愛と哀しみの果て』のマイケル・ガフ、『1941』の
クリストファー・リー、『
炎のランナー』『
ガンジー』の
リチャード・グリフィス。
ティム・バートン監督、
ジョニー・デップ主演と言えば、『
シザーハンズ』ですね。
確か、浪人中に映画館で観ました。
『
スリーピー・ホロウ』については、公開時に話題になっていたことは覚えています。
TVCMを何度も見たような。
結論から言うと、原作は
ワシントン・アーヴィングの「スリーピー・ホローの伝説」ということになっていますが、原作とは全く違う話しになっています。
設定すら違い、ほとんど登場人物の名前を借りただけです。
原作では、主人公
イカボッド・クレインは教師ですが、映画では刑事。
原作では、
イカボッドは教師として村人達から様々な恩恵を受け、それから、のどかなスリーピー・ホローの村の自然描写が続きます。
そして、
イカボッドと村一番の
豪農ヴァン・タッセル家の娘カトリナとの淡い恋。
村の青年ブロム・ボーンズとの恋の鞘当て。
首なし騎士の伝説はありますが、当の騎士はクライマックスにやっと出て来るだけです。
しかし、映画では、首なし騎士がのっけから首切り殺人を連発し、刑事である
イカボッドが事件の捜査をします。
首切り描写がジャンジャン出て来て、完全にホラーとして作られており、従って、原作とは全くの別物です。
原作を読む際の参考にと思って見ると、痛い目に遭うでしょう。
本作は、作られた時代と題材から、やたらとCGが使われています。
ただ、メイキング映像を見ると、意外と実物大セットもきちんと作って撮影されている大作だということが判りましたが。
主人公の
イカボッドは当初、
無神論者ということになっていますが、実際に首なし騎士を目の当たりにしてからは、すっかり迷信を信じるようになります。
ここが、どうにも納得が行きません。
だったら、別に彼が
無神論者である必要はないではありませんか。
彼が迷信を科学的に解明する話しだと思っていたら、ここから急に方向転換します。
それから、刑事なのに、失神ばかりして、頼りない主人公です。
後半、話しは二転三転します。
目まぐるしいですが、面白くはありません。
最後に、種明かしがあります。
これも、別に面白くはありません。
はっきり言って、原作を何故こういう映画に仕立てる必要があったのか疑問です。
だったら、最初からオリジナル・ストーリーでも良かったでしょう。
まあ、原作は
アメリカ人なら誰でも知っている話しらしいですから、タイトルだけ頂戴したのだと思います。
企画が貧困な近年の映画にありがちな話しです。
『ベオウルフ』や『
クリスマス・キャロル』もそうでしたが、昨今の古典の映画化はヒドイですね。
アカデミー賞美術賞受賞。
それでは、次回以降は、例によって、僕の単語ノートを公開します。
【参考文献】
『スケッチ・ブック』田部重治・訳(角川文庫)
http://www.lib.pref.toyama.jp/attach/EDIT/000/000021.pdf
『そしてワシントン・アーヴィングは伝説になった: 〈アメリカ・ロマン派〉の栄光 (フィギュール彩)』齊藤昇・著(彩流社)
『ワシントン・アーヴィングとその時代』齊藤昇・著(本の友社)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeigakushi1969/1971/3/1971_3_162/_pdf/-char/ja
『修猷館の英語教育 明治編』安部規子・著(海鳥社)
『近代日本の英語科教育史―職業系諸学校による英語教育の大衆化過程』江利川春雄・著(東信堂)
『坊っちゃん (岩波文庫)』夏目漱石・著
『英語教師 夏目漱石 (新潮選書)』川島幸希・著(新潮選書)
『英語天才 斎藤秀三郎: 英語教育再生のために、今あらためて業績を辿る』竹下和男・著(日外アソシエーツ)
1986年度 二文.pdf - Google ドライブ
別巻Ⅰ/第一編 第三章
『伊藤和夫の英語学習法―大学入試 (駿台レクチャーシリーズ)』伊藤和夫・著(駿台文庫)
https://www.wul.waseda.ac.jp/gakui/honbun/3636/22_chapter18.pdf
「大正後期における旧制高校の英語教科書について」井田好治・著
『英文をいかに読むか』朱牟田夏雄・著(文建書房)
『スケッチ・ブック(旺文社英文学習ライブラリー①)』島田謹二・訳注(旺文社)
『ワシントン・アーヴィングの世界』ヴァン・ウィック・ブルックス・著、石川欣一・訳(名著普及会)
『英語達人列伝―あっぱれ、日本人の英語 (中公新書)』斎藤兆史・著
『スケッチ・ブック (研究社新訳注双書 (7))』篠田錦策・訳注(研究社)
『スリーピー・ホロウの伝説(英和対訳・学生文庫24)』田代三千稔・訳注(南雲堂)
『対訳アーヴィング(現代作家シリーズ52)』田代三千稔・訳注(南雲堂)
『英語研究者のために (講談社学術文庫)』田中菊雄・著
『リップ・ヴァン・ウィンクル―「スケッチ・ブック」より (ニュー・メソッド英文対訳シリーズ (C-15))』龍口直太郎・著(評論社)
『リップ・バン・ウィンクル(やさしい英語で楽しむ世界名作シリーズ3)』中内正夫・訳注(日本英語教育教会)
『日本人は英語をどう学んできたか 英語教育の社会文化史』江利川春雄・著(研究社)
アメリカ文学講読
山口 善成 - 金沢大学研究者情報
『Rip Van Winkle』安井稔・編注(開拓社)
『はじめて学ぶアメリカ文学史 (シリーズ・はじめて学ぶ文学史 2)』板橋好枝、高田賢一・編著(ミネルヴァ書房)
『新版アメリカ文学史―コロニアルからポストコロニアルまで』別府恵子、渡辺和子・編著(ミネルヴァ書房)
『たのしく読めるアメリカ文学―作品ガイド150 (シリーズ・文学ガイド)』高田賢一、野田研一、笹田直人・編著(ミネルヴァ書房)