『タクシードライバー』

この週末は、ブルーレイで『タクシードライバー』を見た。

1976年のアメリカ映画。
監督はマーティン・スコセッシ
脚本はポール・シュレイダー
主演はロバート・デ・ニーロ
70年代の雰囲気がぷんぷんと漂って来る傑作である。
60年代は「闘う」時代であったが、70年代は、その闘いに敗れて、諦めが若者たちを支配していた。
この時代の、どうにもならないやり切れなさを見事に表現している。
アメリカン・ニューシネマの最後の作品である。
そして、この映画は青春映画でもある。
日本なら、水谷豊辺りを主演にするところだろう。
思えば、この頃は、日本にもこんな立派な社会派の青春映画はたくさんあった。
ちょっと思い浮かぶだけでも、『裸の十九歳』(新藤兼人監督)、『青春の殺人者』(長谷川和彦監督)、『サード』(東陽一監督)、『十九歳の地図』(柳町光男監督)、『狂った果実』(根岸吉太郎監督)など。
昨今は、ローマの風呂に入ったり、桐島が部活をやめるといったような、どうでもいい映画ばかり作られて、まともに社会と向き合うような映画がなかなかない。
いや、見もしないで批判するなと言われるかも知れないが、何が悲しくて桐島が部活をやめる映画なんぞにわざわざ貴重な金と時間を費やさなくてはならないのか。
人生は短いのだ。
それにしても、デ・ニーロは、マフィアのドンを演じた後に、こんなその辺の若造を演じられるとは、さすがスゴイ役者である。
舞台はニューヨーク。
ベトナム帰りの若者・トラヴィスロバート・デ・ニーロ)は不眠症に悩まされている。
眠れないので、ブラブラして、ポルノ映画を観に行ったりしているが、その時間を使って稼ぎたいと思い、タクシー運転手に応募する。
この時のニヤニヤした表情と、後の狂気の落差がスゴイ。
彼には大した取り柄がない。
頭も悪いし、コミュニケーション能力も欠落している。
こういう奴は、僕が以前勤めていた会社にもいたなあ。
そのくせ、トラヴィスは、若い時にありがちなように、妙に自分に根拠のない自信を持っている。
タクシー運転手なんぞをやりながらも、「これは本来の自分のするべき仕事ではない」などと思っている。
今の日本にも、こんな輩は大量に溢れ返っているではないか。
ニート、フリーターでありながら、2ちゃんねるに勇ましい書き込みをして悦に入っているネトウヨと何ら変わりはない。
若い男が、夜中にやることがなかったら、ネットで無修正映像をダウンロードして見るだろう。
時代は変わっても、若者の本質なんて何にも違いはない。
ラヴィスは、しかし普通の感覚を持った若者である。
大都会ニューヨークの、麻薬や売春や、その他の汚らしいことには心底嫌悪感を抱いている。
世の中の悪を「水洗トイレを流すように」浄化出来たら、と思っている。
しかし、その方法は分からない。
彼は、見た目はそこそこいい男なのが、対人関係がうまくない。
ポルノ映画館で売店のお姉ちゃんに声を掛けて、けんもほろろに扱われる(このお姉ちゃんを演じた女優と、後にデ・ニーロは結婚する)。
そりゃ、ポルノ映画を観に来ている客をまともに相手にするような女の子はいないだろう。
ラヴィスは、大統領選挙の候補者の事務所で働くベッツィー(シビル・シェパード)という美しい女性に目を付ける。
事務所の前に車を止めて、ジーッと彼女の様子を見ている。
典型的なストーカーだ。
だが、彼にとっては運命の出会いである。
彼は無理やりベッツィーに声を掛け、一緒にコーヒーを飲む。
聡明な彼女とは全く話が噛み合わない。
政治のことも、音楽のことも、何も分からないのだ。
それでも、何とか懇意になりたいと考えた彼は、彼女をデートに誘う。
連れて行った先は、何とポルノ映画館であった。
激怒する彼女。
そりゃそうだろう。
デートで映画を観に行くのに、ポルノなんか選ぶかね。
政治のことも何も分からず、でも、キレイな娘に魅かれて選挙事務所に行くというのは、正に、グラビアアイドルに魅かれて維チンの会に投票する現代日本の若造と同じだ。
彼らは一応、世の中に対する怒りだけは持ち合わせている。
正義感はいいのだが、向ける相手を完全に間違っている。
この映画には、人種差別の実態を描いた部分もある。
マーティン・スコセッシ自らがタクシーの客として出演し、「妻を寝取った黒人を殺してやりたい」ととうとうと語る。
これも、ニューヨークの暗部の一部だろう。
ラヴィスは、ある日、裏ルートから銃を仕入れる。
これも、度々問題になるアメリカの闇だ。
銃は合法だが、彼は許可証を持っていない。
でも、彼は、銃を手に入れた日から、何とも言えない万能感を覚える。
まるで、『フルメタル・ジャケット』のゴーマー・パイル二等兵のような目付きだ。
身体を鍛え、いつでも銃を取り出せるような装置を自作し、部屋で一人、訓練する。
鏡に向かって、上半身裸で、「You talkin' to me?」と話しかけながら銃を向ける彼の姿は、滑稽でもあり、恐ろしくもある。
現代の日本にも、こんな風な孤独な若者は数多くいるだろう。
ラヴィスはある日、近所の食料品店で強盗に出くわす。
そして、犯人を思わず射殺してしまう。
日頃の訓練の成果が、こんなところで発揮されてしまった。
ラヴィスを襲う高揚感。
銃社会の恐ろしい側面だ。
倒れた黒人の強盗をこん棒で何度も殴ってとどめを差す店主からは、黒人に対する反感が溢れている。
それに、こんな事件は日常茶飯(彼は強盗に入られるのは今年5回目だと明言している)だというから、あまり味わいたくない慣れも伺える。
今度は、トラヴィスはたまたまタクシーに乗り込んだ12歳の娼婦(ジョディー・フォスター)と知り合う。
12歳の娼婦だよ!
どんな世の中だ!
彼女を客の元に送って搾取しているヒモ野郎(ハーヴェイ・カイテル)は最低だ。
彼は、まるでダイヤモンド・ユカイのような見た目。
それはさておき、こんな狂った状況にも、当の娼婦自身は悪びれる様子もない。
何の疑問も感じていない。
いや、むしろ満足すらしている。
家にも戻りたくないし、学校にも行きたくないという。
無邪気に星占いに興じたりなんかしている。
感覚が麻痺するというのは恐ろしいね。
今の日本でも、若い娘がお気軽にAVや風俗に走って社会問題になっているが、これも受容と供給が一致しているからだろう。
さらに、批判する側も、裏では恩恵を受けていたりする。
親は泣くだろうな。
ラヴィスは、何とかして彼女を救いたいと思う。
この感覚はまともだ。
そして、当然、甘い汁を吸っているヒモ野郎に敵意を抱く。
ラヴィスは、ついにモヒカンになる。
この映画のシンボルとして有名だ。
で、先の大統領候補の街頭演説会場に現れる。
とたんにSPからマークされ、追い掛けられる。
そりゃ、大物政治家の演説会場にモヒカンの男がいたら、怪しまれるに決まっている。
分からないのが、なぜ彼は大統領候補を狙ったのかということ。
例えば、今の日本で、職がなく、格差に苦しむ若者が、こんな社会を作った元凶として小泉、安倍、橋下を憎み、処刑したいと願うというのなら、全く良く理解出来るのだが(現実には、若者はこんな悪徳政治家どもを憎むどころか、尻尾を振って崇拝しているではないか!)。
この点については、あまり説明はない。
本作には、特にストーリーらしきものはない。
普通の若者の日常の中で出会う世の中の矛盾、それに対して病んで行く精神を淡々と描いている。
最後の撃ち合いのシーンは壮絶だ。
ここは、カット割りと編集の勝利で、見事なリズムが生み出されている。
全編を通して流れる、バーナード・ハーマンによるムーディーな音楽も素晴らしい。
しかしながら、こんな問題提起も、この後のアメリカ映画ではさっぱり行われなくなる。
この年、『タクシードライバー』は、アカデミー賞に4部門でノミネートされるも、無冠に終わる。
作品賞を獲得したのは『ロッキー』だ。
ベトナム戦争の影を引きずった社会派のニューシネマの時代は終わり、この後は「アメリカン・ドリーム」がもてはやされる。
けれども、幾ら明るい映画を乱発したところで、社会の暗部はちっとも変わらない。
もちろん、日本も同じだ。
こういう映画が作られなくなってしまったのは、極めて残念である。
超低予算でも、こんな見事な映画は作れるのだ。
ちなみに、デ・ニーロのモヒカンは、高名なメイクアップ・アーティストのディック・スミス(知らない人はモグリ)が作ったらしい。
カンヌ国際映画祭グランプリ受賞。