『十戒』

この週末は、ブルーレイで『十戒』を見た。

十戒 [Blu-ray]

十戒 [Blu-ray]

1956年のアメリカ映画。
監督はセシル・B・デミル
僕が小学生の頃は、『十戒』というのは中森明菜の歌のことだと思っていた(今では、そんなことを思い浮かべる人すらいないだろうが)。
そうして、スペクタクル映画大好きな母に笑われたものである。
そんな母は『ベン・ハー』派であって、『十戒』派ではなかったようだ。
僕が中学生くらいの時だろうか、テレビの洋画劇場で『十戒』を放映したので、見た。
解説の水野晴郎さん(だったと思う)が「海が割れる(天童よしみの歌ではない)シーンの特撮は、今見るとそれ程でもありませんが、当時はすごかったんですねえ」と言っていたのを覚えている。
ただ、その時に見て、何を感じたかの記憶はほとんどない。
大人になってから、DVDで見直した。
その時の印象は「宗教映画だな」というものである。
今回見たのは3度目ということになるが、やはりその印象は変わらなかった。
最近読んだ黒田龍之助先生の本の中で、英語教師に必要な聖書の知識は、とりあえず『十戒』と『天地創造』を見ておけば足りると書かれていた。
そんな簡単なものではないだろうが、聖書を基にしているのだから、宗教映画なのは当然だ。
本作は、セシル・B・デミル監督が1923年に撮った『十誡』のセルフ・リメイクである。
カラーで撮ってみたくなったんだろうな。
映像はビスタビジョンテクニカラーなので、今見ても古さは感じさせない。
CG満載でリメイクするような無謀なことは止めて欲しい。
主演はチャールトン・ヘストン
本作や『ベン・ハー』を始め、スペクタクル映画の代名詞のような人ですな。
代表作は多数あり、これまでもさんざん書いて来たので省略。
彼の敵役はユル・ブリンナー
見事な悪役っぷりである。
本作の他にも、『荒野の七人』や『ウエストワールド』が有名。
音楽はエルマー・バーンスタイン
『荒野の七人』や『大脱走』で名高い。
最初はOVERTURE(序曲)から始まる。
本作も『ベン・ハー』のように上映時間が4時間近くあるので、序曲→前編→休憩→後編→終曲という構成である。
冒頭、舞台の幕の中からオッサンが出て来て、解説をする。
誰かと思ったら、監督らしい。
それからオープニング。
本作は旧約聖書が基になっている。
多数のエキストラと巨大なセットがスゴイ。
モーセ誕生のエピソード。
支配者たるエジプトのファラオは、被支配民族たるヘブライ人に救世主が生まれると聞いて、「生まれたばかりの長子を殺せ」という命令を出す。
モーセの母は、生まれたばかりのモーゼをカゴに入れ、川に流して難を逃れさせる。
カゴは、川を流れて、水遊びをしている娘達の元へ。
ファラオの娘ベシアに拾われ、王子として育てられる。
モーセチャールトン・ヘストン)は成人し、エチオピアの遠征から見事な戦果を挙げて帰って来る。
ファラオの実の息子で、兄のラメセス(ユル・ブリンナー)は、モーセのことが面白くない。
しかし、王女のネフレテリ(アン・バクスター)もモーセのことを気に入っている。
このネフレテリというのが、浜崎あゆみみたいなヘビ女だ。
モーセ、今度はラメセスが担当しても遅々として進まない都市の建設を任される。
モーセは、救い主を待望する奴隷達に受け入れられ、工事が進み始める。
巨大な石塔を立てるシーンは、大変な迫力である。
最初は、モーセのやり方を認めなかった王も、工事が進展するに連れて、彼を誉めるようになる。
万事順調なように見えたが、ネフレテリは召使いからモーセの出生の秘密を聞かされる。
彼は、実はヘブライ人奴隷の子だと。
ネフレテリは、大変なショックを受け、この召使いを殺してしまう。
まあ、人類の歴史上、こんなことは多々あったんだろうな。
万世一系なんてウソだ。
モーセは実の母を訪ねて、問い質す。
ついに正体がバレる。
モーセは、自分の出自を受け入れることにする。
で、色々あって、ついにラメセスにもモーセの正体がバレてしまう。
ファラオは、ラメセスよりもモーセのことを気に入っていたのだが、泣く泣く後継にはラメセスを指名する。
モーセは、本来ならば処刑されるところだが、苦しめるために生かされる。
追放され、砂漠の真ん中に置き去りにされた。
彼は、アラビアのロレンスのように砂漠をさまよう。
どうでも良いが、本作は合成のシーンが多い。
技術的な限界で、合成の粗さが見えてしまうのだが、これは仕方あるまい。
それでも、スペクタクル・シーンの見事さが減じることはないが。
さて、モーセは聖者としての試練を受ける。
ついに砂漠の真ん中で力尽きて倒れる。
が、そこに神の救いが。
羊飼いの若い娘達に発見されたのだ。
モーセは羊飼いに認められ、長女のセフォラを妻にする。
一方、ファラオはモーセの名を呼んで死ぬ。
ラメセスにとっては屈辱である。
彼の悔しさが、演技からも演出からも、よく表現されている。
あと、浜崎あゆみみたいなヘビ女・ネフレテリが、二人の男の間で妖気を振りまきつつ立ち回る様も。
モーセは羊に囲まれながら、幸せに暮らしていた。
本当に羊がいっぱいいる。
よく眠れそうである。
そこへ、ヘブライ人の仲間がモーセのことを探して訪ねて来る。
ラメセスの圧制で同胞が苦しめられているというのだ。
モーセシナイ山に登り、神のお告げを聞く。
彼は、神から同胞を救うためにエジプトに行くように言われたのだ。
髪もヒゲも伸びて、聖人のような面をして(聖人だが)戻って来る。
余談だが、都合の良い所で何度も「ヒーロー登場!」となるのは、如何に映画とは言え、ブルース・ウィリスのようで興醒めである。
ここでINTERMISSION(休憩)。
後半は、モーセがラメセスに神の言葉を伝えに来るところから始まる。
「我が民を去らせよ」と。
ラメセスは「奴隷は私のものだ」と言う。
モーセは、持っていた神の杖がヘビに変わるという奇跡を行う。
このシーンは明らかにアニメーションだな。
ラメセスは「安っぽい手品だ」と一蹴する。
モーセは、ラメセスを説得するどころか、かえって怒りを買ってしまい、「藁を入れずにレンガを作れ」などと無茶な命令をされてしまう。
ヘブライの民はモーセに対して怒った。
一般大衆というのは、いつも気紛れなものだ。
ネフレテリはモーセを連れて来て、「神を取るか、私を取るか」と迫る。
まるで、「仕事と私、どっちが大事なの」と駄々をこねる女の子のようだ。
当然、モーセは神を取る。
後半のモーセは、余りにも超然としていて、ドラマの登場人物としては面白くない。
その部分は、ラメセスとネフレテリがカバーしているのだろう。
モーセは「神に逆らうと、7日の間、川の水を血に変えるぞ」と脅すが、ラメセスは従わない。
更に、空から雹が降って来て、地上で燃え上がる。
太陽が出ているのに暗闇等、神の奇跡(呪い?)が起こされる。
それでも、ラメセスは動じない。
それどころか、「ヘブライ人の全ての長子を殺せ」と命令する。
これがヘブライの神の逆鱗に触れたらしい。
真夜中に神の呪いがエジプトを襲い、神を信じる者以外の長男の命を奪う。
それにしても、奇跡とか呪いとかの好きな神だ。
こんなオドロオドロしい神、僕はどうしても信じる気にはなれないが。
しかも、聖書の側から描かれた宗教映画だから当然だが、エジプトの神は、この事態に対して全く無力である。
日本人の目から見れば理不尽なことも、キリスト教徒やユダヤ教徒にとっては、溜飲が下がるのかも知れない。
とにかく、この呪いのせいで、エジプト側の長男がバタバタと死ぬ。
そして、ラメセスの一人息子も。
ラメセスはとうとうモーセに負けを認める。
翌朝、ヘブライの民がエジプトを去る。
世界史の教科書にも載っている「出エジプト」である。
ここの大群衆シーンは壮観だ。
人も動物も荷物も、とにかくスゴイ数と量である。
撮影は大変だったに違いない。
こうして、ヘブライ人は解放されたが、彼らの行き先は決まっておらず、まだまだ幾多の苦難が彼らを襲うのであった。
見たことはないけれど、幸福の科学の映画って、多分こんな感じなんだろうな。
奇跡の行われる時のアニメーションの映像が、ちょっとディズニーっぽい。
だが、「人を殺すな」と戒める神自身が、エジプト人を大量に殺しているのである。
エジプト人は人ではないのだろうか。
まあ、当時は信じる神が違うと、最早同じ人間ではないんだろうな。
現代とは、かなり感覚が違う。
文句を言いたいことは色々あるが、一つ一つの画面の構図は、まるで宗教画のように美しい。
アカデミー賞特殊効果賞受賞。
1958年の洋画興行収入1位。