『みずうみ(湖畔、インメンゼー)』を原文で読む(第1回)

『ララビアータ(片意地娘)』のテキストを読了したので、テオドール・シュトルム(1817-88)の『みずうみ(湖畔、インメンゼー)』を読むことにします。
テオドール・シュトルムについて
まずは、著者のテオドール・シュトルムについて、『はじめて学ぶドイツ文学史』(ミネルヴァ書房)から引いてみましょう。

シュトルムの生地フーズムは今はドイツ最北部だが、当時はデンマーク支配下にあり、法学を修めた彼はこの港町で弁護士を開業しながら「インメン湖」(„Immensee“, 1850)などを発表する。1852年故郷の独立運動にかかわり職務停止。12年間ドイツに移住し、ベルリンの文学仲間との交際ののち、1864年プロイセンに帰属した郷里に戻り、仕事と創作を続けた。生涯の多くをこの小さな町で過ごした彼の作品には地方色が濃いが、そこには均一化や全体化で抑圧を強める社会と、独自の存在であろうと苦闘する個人という近代の問題が、凝縮して現れている。
シュトルムの作品には、初期には主人公の心理を通して身近な世界をながめる情緒的な傾向が強いが、「水に沈む」(„Aquis submersus“, 1876)では地主貴族や聖職者の横暴がひき起こす恋の悲劇、最晩年の『白馬の騎手』(Der Schimmelreiter, 1876)では共同体との摩擦による堤防監督官の理想主義の破滅など、より大きな社会との関係を扱うようになる。ただし中心になる物語を、回想、古記録、語り伝えなどの間接的な形で語る「枠物語」(Rahmenerzählung)形式への志向は一貫していて、語られる内容を時間的に遠ざけ、過去に沈めようとする姿勢が強くみられる。

これだけでは分かり難いので、岩波文庫版の「解説」を参考に、少し補足します。
フーズムは、北ドイツのシュレースヴィヒ州の西海岸にある小さな町で、シュトルムはここに1817年、弁護士の子として生まれました。
法律を学んだのはキール大学とベルリン大学
そのうち、いわゆるシュレースヴィヒ・ホルシュタイン事件が起こって、この地方に、デンマークの暴政に対する反抗ののろしが上がった時、シュトルムも反デンマーク熱をあおったかどで、勝利を得たデンマーク政府から弁護士の職を剥奪されました。
しかし、やっと知人のあっせんでポツダム裁判所の陪審判事の職に就くことが出来、その後、ザクセンの小さな町ハイリゲンシュタットの地方裁判所判事に転じます。
デンマーク王の死と共に、再び戦端が開かれ、その結果、シュレースヴィヒ・ホルシュタインがドイツに帰属することになった時、彼は迎えられて郷里フーズムの知事となりました。
ところが、この地方がプロイセンの州となるに及んで、知事の職を辞めさせられ、区裁判所の判事に移されます。
しかしながら、1880年、63歳の老判事は思い切ってこの職を辞し、愛するフーズムを去って、ホルシュタインのハーデマルシェンに隠棲しました。
そして、ここで多くの創作の日々を送りましたが、1888年、71歳でついにこの地に永眠します。
遺骸は生地フーズムに運ばれ、そこの聖ユルゲン墓地に葬られました。
シュトルムは生涯の大部分を法務に従事しましたが、一方、若い時から文学や音楽に深い愛情を寄せ、既に30歳の頃には抒情詩人として名を知られるようになりました。
『みずうみ(湖畔、インメンゼー)』について
続いて、『みずうみ(湖畔、インメンゼー)』について、再び『はじめて学ぶドイツ文学史』の「解題」から引用してみましょう。

「みずうみ」の邦題で知られるこの作品は、シュトルムの名を一気に高めた初期の成功作というだけでなく、彼の全作品、さらには19世紀ドイツの短編小説のなかでも最もよく読まれたものの一つである。
ある日の夕方、老人が帰宅して奥まった部屋の椅子に座り、休んでいるうちに、古い小さな肖像画に窓から月光が射す。その瞬間から彼の少年時代に時間が戻って、一人の少女との物語が始まる。
少年ラインハルトは五つ下のエリーザベトと幼なじみで、子供らしい愛情を抱くだけでなく、ひそかに彼女の保護者という自負も抱いていた。少女は彼にお話をせがむが、彼は社会的な現実とはそりが合わない芸術家タイプでありながら、非現実的な空想にもなじめない、まさにリアリズム詩人的存在で、抒情詩ばかりを書きつづっている。大学生になった彼は、彼女から二年間待つ約束をとりつけて旅立ち、都会の誘惑にも打ち勝って成果を挙げようとするが、彼女には頼まれた物語どころか、手紙さえも送ってやらない。一方故郷では、工場主の息子エーリヒが時々彼女の家を訪れていて、安定した生活を望む彼女の母は、エーリヒの方が気に入ったらしい。そして約束の期限が来る直前、エリーザベトがエーリヒの求婚に応じたという知らせが、ラインハルトのもとに届く。
数年後、インメン湖畔の屋敷にエーリヒが彼を招き、彼はエリーザベトと二人だけで遠出の散歩をするが、ついに彼女に心を開く機会を持たない。そして(中略)湖の水蓮に近づく試みもついえた後、翌朝早く、彼女にだけ永遠の別れを告げて屋敷から旅立つ……。
最終章、我に帰った老人は机の本を引き寄せ研究に没頭する。

岩波文庫の「解説」によると、『みずうみ』は、シュトルム自身、「この作品はドイツ文学の真珠であり、自分以後なお長く、老いたる者若き者の心を、詩と青春の魅力とをもってとらえるであろう」と言い、「これは純粋な愛の物語である。愛の香りと雰囲気とに作の隅々までも滲透されている」と書き記しているほどで、一般にドイツ文学中の珠玉の篇と見られているだけでなく、彼自身も深くこれを愛していたと言われています。
第三書房版対訳の「解説」によると、作者はこの作品に異常な愛着を感じ、幾度も読み返しては改作の筆を加えたそう。
僕がこの作品を選んだのは、『ドイツ語のすすめ』(講談社現代新書)という本で紹介されていたからです。
初級文法を終えて中級に進む際に「どんな読み物を選ぶか」という項で、「ハイゼの『片意地娘』や、シュトルムの『みずうみ』は、一度は読まなければならないものと思います」と書かれています。
これらの作品は、かつて旧制高校のドイツ語の授業では、必読の書でした。
僕の手元にはないので、ネットからの孫引きになりますが、三修社版『ララビアータ』の対訳本には、次のようにあるとのことです。

パウル・ハイゼの短編小説「ララビアータ」に渕田一雄氏が注と訳を付けた参考書(1983年三修社刊)があります。最初にこの小説についての説明を読みますと、こう書いてあります。「戦前、旧制高校でドイツ語を学ぶ学生が中級で必ず一度は読むことになっていたものにゲーテのウェルテル、シュトルムの湖畔、それからこのハイゼのララビアータの3つがあります」と。

中級で必ず読むということは、ラテン語で言えば、『ガリア戦記』に当たる作品だということですね。
旧制高校では、現在の大学とは比較にならないほどドイツ語教育が盛んでしたが、『立身出世主義』(世界思想社)によると、ドイツ語を第2外国語として学ぶ文科甲類では、授業は週4コマ(一コマ50分)でした。
つまり、現在の大学の第2外国語の授業時間数と、そんなに変わらなかったのです。
実際、戦後の新制大学でも、当初は旧制高校の先生が引き続きドイツ語を教えていたので、授業内容も戦前と同じでした。
郁文堂版の『湖畔(インメンゼー)』のカバー袖には、「この『郁文堂 独和対訳叢書』は大学一・二年向き」と書かれています。
この郁文堂のシリーズには、本作の他に、『グリム童話』や、ハイゼの『ララビアータ(片意地娘)』といった、ドイツ文学史上の名作が並んでいて、昔は、こんなものを普通の大学生が1、2年生で読んだとは、到底信じられません。
現在では、独文科の学生でも難しいのでしょうか。
インターネットで、「みずうみ(湖畔、インメンゼー) 講読」で検索しても、ほとんど引っ掛かりません。
唯一、京都外国語大学ドイツ語学科の専攻語研究科目「ドイツ文学作品研究I」という3・4年生向けの授業の中で、本作の講読が行なわれているということが分かりました。
かつては、1・2年生が一般教養で読んだ作品が、今では、外大のドイツ語学科の3・4年生にしか読まれないということですね。
旧制高校のドイツ語の授業では、本作は盛んに読まれたようです。
そして、全国から選りすぐりのエリートが集められたため、現在では信じられないほど、ハードな語学教育が行なわれていました。
旧制第一高等学校(現・東大教養学部)に昭和13年(1938年)に入学された方の回想です。

教科の中心は語学ですが、徹底した読書力中心で会話は全くと言っていいほど行われませんでした。読書もまた原書主義で、原書をオリジナルな語(ドイツ語専攻の文科乙類ではドイツ語)で読むことが中心でした。
文法は一、二か月で概略を済ませ、夏休みにはヘルマン・ヘッセの『車輪の下で(„Unterm Rad“)』や『インメンゼー(„Immen See“)』などを読みました。

初学者に対して、文法を1、2ヵ月で済ませ、すぐに原書講読とは、滅茶苦茶なスパルタ教育ですね。
1945年春に旧制水戸高等学校文科(現・茨城大学人文社会学部)に入学した方も、「なんの知識もない生徒たちに、1学期のうちはドイツ語の基礎文法を教えてくれたが、2学期に入るといきなりテキストの講読である」と仰っています。
この方の回想を引用しましょう。

さて、ドイツ語のテキストはなんだったか。
いまでも覚えているのは二つで、ひとつはシュトルム(Teodor Strom、テオドール シュトルム 1817〜1877)のImmense(インメン湖、日本語訳本では「みずうみ」)で、エリーザベートをめぐる恋愛小説であった。これはわりに易しかったし、なによりも既に岩波文庫で訳本がでていた。訳者は関泰祐さんで、なんと関さんはそのとき水戸高校の校長をしておられた。
私のような怠け学生は、岩波本をあっという間に読んでしまい。話の流れを理解してしまったのである。

上の方の引用にもあるように、本作のドイツ語は比較的、易しいようです。
第三書房版の対訳本の「あとがき」には、「この小説は文章も簡単で、文法を一通り終ったものには楽に読める程度であると思う(※漢字・仮名遣いを改めました)」とあります。
更に、同学社の対訳本の「はじめに」にも、「初級のドイツ語学力からの脱皮のためにもうってつけの教材である」とありますね。
とは言え、ドイツ文学史に残る作品の原文ですから、簡単ではありません。
少し読んでみましたが、のっけから合成語やら関係代名詞やらの多さに手こずらされます。
従って、辞書も当然、初級用の独和辞典だけでは足りません。
文学作品を読み進めるには、中型または大型の独和辞典が必要になります。
テキストについて
テキストは、現在新刊で入手可能な対訳本が3種類(第三書房版、郁文堂版、同学社版)あります。
第三書房版

インメンゼー (ドイツ名作対訳双書)

インメンゼー (ドイツ名作対訳双書)

奥付けに初版発行年月日の記載がありませんが、ウィキペディアによると、1947年とのこと。
古いので、旧漢字・旧仮名遣いです。
訳注は星野慎一氏。
「あとがき」によると、訳注書なので、ところどころ直訳に近い訳し方をし、また、註は比較的初学者に焦点を合わせるようにしたとのことですが、大学進学率が10パーセント位の時代の「初学者」ですからねえ。
註はほんの少ししかありません。
郁文堂版
湖畔 (独和対訳叢書 (22))

湖畔 (独和対訳叢書 (22))

初版は1954年。
訳注は三浦靱郎氏。
カバー袖には、「註は懇切丁寧を旨としています」とありますが、上の第三書房版と同じく、発行が古いので、今の基準とは違います。
同学社版
みずうみ (対訳シリーズ)

みずうみ (対訳シリーズ)

初版は昭和63(1988)年と、本作の対訳本の中では最も新しいです。
編者は中込忠三氏(中央大学名誉教授)、佐藤正樹氏(広島大学教授)。
新しいだけあって、注釈の量が多いです。
「はじめに」には、次のようにあります。

この本の目的は、ドイツ語の初歩を一通り学んだあと、さらに語学力を向上させたいと考えておられる方の手助けをすることです。そのために私たちは、日頃授業などで接している受講生の皆さんのことを絶えず念頭において、懇切丁寧な説明をと心掛けました。ですから、すでに相当力のついている読者にはあらずもがなの注もあるかもしれませんが、反面、そういう読者にも有益な、高級文法に属する知識やドイツの風物習慣に関する記事、あるいはこの小説の理解に資する注釈などが、ふんだんに盛り込まれているはずです。

また、改訂の際に、脚注については、本文からの引用相当部分を除き、新正書法に基づく綴り方を採用したとあります。
訳文は、高橋義孝氏の「名訳」を利用したとのこと。
僕は以前、『若きウェルテルの悩み』の原書を読む時、新潮文庫版の高橋氏の訳を参照しましたが、余りにも名訳過ぎて、原文の意味がよくつかめませんでした。
そういった事情も鑑みてか、本書の「はじめに」には、「ただし私たちの責任において、語学学習書として都合のいいように手が加えてあります」とあります。
アマゾンでは品切れになっていますが、僕はジュンク堂で買いました。
語学書は日々進化しているので、なるべく新しい物を選んだ方が良いです。
従って、僕はこの同学社版を使うことにしました。
昨今はドイツ文学の対訳本を読む人など、ほとんどいないでしょうから、新刊もなかなか出せないでしょう。
本書の「はじめに」には、「困難な出版事情にもかかわらず、わが国のドイツ語教育への熱意からあえてこの種の本を企画推進され、私たちを終始励まされた同学社社長 近藤久寿治氏に感謝と敬意を捧げます」とあります。
ドイツ語はかつて、戦前の旧制高校や、戦後の新制大学では、第二外国語の王者でした。
しかしながら、昨今の大学進学率の急上昇により、第二外国語が必修ではない大学が増え(必修の大学は2割に満たない模様)、また、オシャレなフランス語や、身近な中国語、韓国語にお株を奪われ、履修者が極端に減っています。
仮に履修したとしても、実用会話が重視され、文学作品の講読などは風前の灯です。
でも、こんな時代だからこそ、敢えてドイツ文学を原文で読んでみるのもいいのではないでしょうか。
翻訳について
翻訳については、対訳本には日本語訳が付いているので、特に必要ないとは思います。
が、先の水戸高校出身の方が仰るように、先に翻訳を最後まで読んでおくと、話しの流れが理解出来るでしょう。
原書講読というのは、どうしても辞書を引きながら細切れに読んで行くことになるので、全体の流れを見失ってしまいがちです。
本作の翻訳は、岩波文庫から出ています。

みずうみ 他四篇 (岩波文庫)

みずうみ 他四篇 (岩波文庫)

表題作の他、著者の初期の作品4篇を収録。
初版は1953年。
訳者は、何と、先の水戸高校の方の文に出て来た関泰祐氏です。
本書の「解説」には、次のようにあります。

本書は、昭和十一年このかた本文庫中に収められてきたものの改訳である。訳者の、いわば処女訳ともいうべき旧版は、こんにちいろいろの点で意にみたぬふしも多いので、書店の好意ある同意が得られたのを幸い、思いきって改訳をほどこしたのである。

この「解説」が書かれたのが昭和27年春。
その後、2回版を改められていますが、それはおそらく、本文の活字を組み替えただけでしょうから、訳文自体は、昭和27年当時のままだと思われます。
こういう教養主義の香りがする作品は、昨今ではなかなか顧みられないでしょうから、新訳も出せないのでしょうね。
話しは、老人の回想から始まります。
短編なので、物語はとんとんと進み、最後に、再び老人の回想で締めくくり。
叙情的で、郷愁を誘うような作りになっています。
これは、すぐれた青春小説です。
誰でも、若い頃には自分の気持ちをうまく伝えられず、苦い思いをした経験があるでしょう。
主人公ラインハルトの、そんな思い出が、切なく、美しく綴られています。
訳文は、やや古風です。
が、そのために、かえって懐かしい雰囲気が出ているかも知れません。
原書について
『みずうみ(Immensee)』の原書(ペーパーバック)としては、下のものがあります。

Der Schimmelreiter/Immensee

Der Schimmelreiter/Immensee

初版は2008年。
版元はFischer Taschenbuch Verlag GmbH
「Der Schimmelreiter」との併録です。
僕の近所の調布市立図書館にもあり、また、アマゾンでも簡単に注文出来ます。
しかしながら、ドイツ語の初学者が、何の注釈も解説もない原書をいきなり読むことが出来るでしょうか。
ここは、対訳本を使った方が無難です。
CDについて
本作を含む、テオドール・シュトルムの朗読CDもあります。
Drei ausgewaehlte Novellen - Klassiker to go: Immensee / Der Schimmelreiter / Viola Tricolor

Drei ausgewaehlte Novellen - Klassiker to go: Immensee / Der Schimmelreiter / Viola Tricolor

発売は2011年3月。
版元はSteinbach Sprechende Bücher。
シュトルムの「Der Schimmelreiter」、「Immensee(みずうみ)」、「Viola Tricolor」の3作品が収録されています。
CDは6枚組みで、5枚目が「Immensee」です。
「Immensee」の朗読はHeinz Kilian氏。
ナチュラル・スピードで朗読されているので、ドイツ語初学者には、聴き取りはおろか、テキストを目で追うだけでも大変です。
しかし、文学作品を「耳で味わう」という訓練も必要だと思うので、こういった教材には価値があります。
未だ全部は聴いていませんが、アマゾンのレビューによると、全文が収録されているとのことです。
辞書・文法書など
文学作品の原文を読むに際して、辞書は最大の伴侶です。
上で書いたように、初級用の辞書だけでは足りません。
しかし、未だ未だドイツ語力が身に付いていない初学者にとって、メインで使うべき辞書は、やはり懇切丁寧な学習独和辞典です。
アポロン独和辞典』(同学社)
僕は、『アポロン独和辞典』を愛用しています。
アポロン独和辞典

アポロン独和辞典

1972年刊行の『新修ドイツ語辞典』をルーツとする、日本で最も歴史のある学習用独和辞典です(『アポロン』の初版は1994年)。
ポピュラーな初学者用辞典には、他に『アクセス独和辞典』(三修社)と『クラウン独和辞典』(三省堂)がありますが、何でも一番伝統のあるものを選んでおけば、間違いはありません。
辞書は、改訂を重ねる度に改良されるものなので、歴史のある辞書は、それだけ最初のものより改善されていると考えられます。
刊行当時、『新修ドイツ語辞典』は、初学者のための配慮と工夫をこらした先駆的な学習辞典として、広く学習者に迎えられたそうです。
例えば、カタカナでも発音表記や、活用・変化形を見出し語として扱うなど。
もっとも、教養主義がまだ残っていた70年代の大学では、この辞書を使っているとバカにされたという話もありますが。
その頃の学生は、「木村・相良」や「シンチンゲル」といった上級者向けの辞書を、無理して使っていたようです。
それはさておき、『アポロン独和辞典』の見出し語は約5万。
これは、『アクセス』の約7万3500語、『クラウン』の約6万語と比べて少ないですが、そもそも初学者用の辞書にそんなにたくさんの語数は必要ないと思います。
原文を読んでいて、この辞書に載っていない単語があれば、もっと大型の辞書に当たればいいだけのことです。
初学者用の独和辞典は、英語で言えば、中学生用(『初級クラウン』『ニューホライズン』など)と高校生用(『クラウン』『アンカー』『ライトハウス』など)の辞書を合わせたようなものだと思っていいでしょう。
それに対して、中級・上級用の辞書としては、次のようなものがあります。
『新コンサイス独和辞典』(三省堂
新コンサイス独和辞典

新コンサイス独和辞典

初版は1936年と、現在流通している独和辞典の中では、最も歴史があります。
収録語数は9万5千語。
英語の『コンサイス』と同じで、小型辞書に出来るだけ多くの語を詰め込んでいるので、基本語の解説や例文などは少ないです。
かつての『コンサイス』は、文学作品に出て来る語も充実していたそうですが、この版はそうでもありません。
「まえがき」には、「内容の現代化を図りつつ、一方では19世紀の文学書講読に不便を感じないほどの水準を維持するように心掛けた」とありますが、これでは全然足りないでしょう。
あくまで、学習用辞典の語彙の不足を補う程度です。
『新現代独和辞典』(三修社
新現代独和辞典

新現代独和辞典

本書の前身である『現代独和辞典』の初版は1972年。
見出し語数は11万で、後述の『郁文堂独和辞典』と並んで「中辞典」とされています。
英語で言えば、『新英和中辞典』(研究社)、『プログレッシブ英和中辞典』(小学館)、『ジーニアス英和辞典』(大修館)に当たるクラスです。
本書の編者がロベルト・シンチンゲル氏(元学習院名誉教授)なので、かつては「シンチンゲル」と呼ばれ、後述の「木村・相良」と並ぶ、代表的な独和辞典でした。
しかし、伝統に寄り掛かっているためか(あまり改訂がなされていないのか)、内容は不親切さが目立ちます。
解説では学習辞典に、語数では大辞典にかなわず、中途半端な位置付けの辞書です。
『郁文堂独和辞典』(郁文堂)
郁文堂独和辞典

郁文堂独和辞典

初版は1987年。
見出し語数は11万。
数字上は『新現代独和辞典』と同じですが、僕の経験では、文学作品を読んでいて分からない語に出会った時、こちらの方がヒットする率が高いと思います。
『新現代』よりも新しい分、色々と工夫がなされているのではないでしょうか。
『木村・相良独和辞典』(博友社)
木村・相良 独和辞典 (新訂)

木村・相良 独和辞典 (新訂)

初版(旧版)は、何と1940年。
本書は、長年に渡り、独和辞典の代名詞でした。
コンパクトなサイズに、細かい活字でぎっしりと語義が詰まっており、見出し語数は15万。
実際、他の辞書には載っていなくても、本書を引くと発見出来る語も少なくありません。
「古典を読むには必須」という定評もあります。
ただ、いかんせん古過ぎるんですね。
新訂版の発行が1963年。
それから、半世紀以上も改訂されていないのです。
その点を踏まえた上でなら、未だ役に立つ場面もあるでしょう。
『大独和辞典』(博友社)
大独和辞典

大独和辞典

初版は1958年。
かつては、本書が独和辞典の権威でした。
英語で言うところの、研究社の『新英和大辞典』のようなものです。
見出し語数は20万と、数字上は、現在日本で出版されている独和辞典の中で一番多いと言えます。
しかし、実際に使ってみると、『木村・相良』の活字を大きくしただけというような印象もないではありません。
また、初版以来、一度も改訂されていないという点も、『木村・相良』と同じく、最早「過去の遺物」扱いされてしまう要因です。
ただ、多くの独和辞典を引き比べると、まるで先祖からの言い伝えのように、全く同じ語義や用例が載っていることが多々あります。
それらの原点が、本書や『木村・相良』であるという意味では、今もって敬意を表されるべき辞書ではあるでしょう。
『独和大辞典』(小学館
独和大辞典コンパクト版 〔第2版〕

独和大辞典コンパクト版 〔第2版〕

初版は1985年。
総見出し語数は16万。
文字通り、現時点で日本を代表する独和辞典です。
博友社の『大独和辞典』よりも新しい分、先行辞典をよく研究されて作られており、内容的にも、使い易さの点でも、申し分ありません。
古典から現代語まで幅広く対応出来ます。
しかも、コンパクト。
英語で言えば、『リーダーズ英和辞典』(研究社)のサイズに、『新英和大辞典』(研究社)の中味を詰め込んだようなものです。
この辞書に載っていなければ諦めるという意味で、最後の砦と言えるでしょう。
文法事項の参照用としては、次の本に定評があります。
『必携ドイツ文法総まとめ』(白水社
必携ドイツ文法総まとめ

必携ドイツ文法総まとめ

初版は1985年(改訂版は2003年)。
著者は、中島悠爾氏、平尾浩三氏、朝倉巧氏。
ドイツ文学を原文で読もうとする人は、当然ながら、初級文法は一通り終えていると思います。
しかしながら、文法事項に疑問が生じた時に、検索したくなることが多々あるでしょう。
そのような時に大変便利なのが、この本です。
コンパクトなサイズに、初級からかなり高度な文法知識までが網羅されています。
しかも、2色刷りのため、非常に見易いです。
僕はこれまで、多少はドイツ文学を原文で読みましたが、本書1冊でほとんどの疑問が解消されました。
今後の予定
と言う訳で、かつてのドイツ語学習者に少しでも近付くために、僕も本作を読んでみたいと思います。
同学社版のテキストは、154ページあります。
解説や訳でかなりのスペースを取られているので、本文は全体の3分の1として、約50ページ。
大学の授業で、一コマ(90分)に2ページずつ進んだとして、ちょうど1年で終わる位の分量です。
現在の大学では、授業は年間30週と決められていますが、昔の早稲田は休講が多く、最初の授業は「ガイダンス」と称してテキストには入らず、また、前・後期の試験で2回は授業が潰れますから。
ですから、この本1冊で2単位分ということですね。
どれくらい時間が掛かるか、分かりませんが、挫折しないように頑張るつもりです。
例によって、僕の単語ノートを、このブログで公開します。
【参考文献】
はじめて学ぶドイツ文学史 (シリーズ・はじめて学ぶ文学史)柴田翔・編著(ミネルヴァ書房
ドイツ語のすすめ (講談社現代新書 26)藤田五郎・著
立身出世主義―近代日本のロマンと欲望竹内洋・著(世界思想社
冬ソナと文法(否定疑問文への答え方) - マキペディア(発行人・牧野紀之)
京都外国語大学・京都外国語短期大学 -シラバス-
旧制高校で学んだ教養は人生で役立ったのか【一考・教養主義】 - Web[はるか★プラス] - ぎょうせい
http://www1.odn.ne.jp/kminami/sub29.htm「暗号 ― 兄の思い出 ―」
星野慎一 - Wikipedia