『マイ・フェア・レディ』

この連休は、ブルーレイで『マイ・フェア・レディ』を見た。

1964年のアメリカ映画。
監督はジョージ・キューカー
音楽は、『ジーザス・クライスト・スーパースター』のアンドレ・プレヴィン
撮影は、『イースター・パレード』のハリー・ストラドリング。
主演は、『麗しのサブリナ』『戦争と平和(1956)』『パリの恋人』『ティファニーで朝食を』『シャレード』のオードリー・ヘプバーン、『幽霊と未亡人』『クレオパトラ(1963)』のレックス・ハリソン。
共演は、『ハムレット(1948)』のスタンリー・ホロウェイ、『第三の男』のウィルフリッド・ハイド・ホワイト、『レベッカ』のグラディス・クーパー、『戦争と平和(1956)』のジェレミー・ブレット、『眼下の敵』のセオドア・ビケル。
原作は、ジョージ・バーナード・ショーの『ピグマリオン』。
この作品は、英語学の教科書でよく言及される。
主人公のイライザは、ロンドンの下町訛りであるコックニーを話す。
コックニーは、留学中の夏目漱石も聴き取れなくて悩まされた。
イギリスでは、英語のアクセント(訛り)が、単に出身地だけではなく、出身階級と密接に結び付いている。
コックニーは、ロンドンの下層階級の言葉で、中流・上流階級は絶対にこのような話し方をしない。
従って、言葉遣いを変えるということは、つまり自分の所属している階級を変えるのと同じことなのだが。
その前提が分かっていないと、単にみすぼらしい娘が上品に変身するシンデレラ・ストーリーとしかとらえられない。
日本のように、訛りが出身階級ではなく、単に出身地を表わすだけの国で本作を見ると、地方出身者が上京して標準語を喋るような、つまり、方言を蔑む様な作品と思ってしまいかねない。
そして、言葉遣いを変えただけで、果たして所属階級も変えられるのか。
この素朴な疑問は、やはり本作の後半で、大きな問題として提起される。
まあ、難しいことはとりあえず置いておいて、本作の内容に入ろう。
ワーナー・ブラザース
スーパーパナビジョン70(70ミリ)、テクニカラー
穏やかなテーマ曲。
タイトル・バックは、色とりどりの花。
コヴェント・ガーデンではオペラ『ファウスト』が上演されている。
劇場に上流階級が集まって来る。
雨が降って来た。
花売り娘イライザ(オードリー・ヘプバーン)が上流階級の青年フレディ(ジェレミー・ブレット)にぶつかる。
花売り娘は、言葉遣いが汚い。
まあ、コックニーを日本語の字幕に移し替えるのは至難の業だろうが。
何と言うか、語彙の差もあるだろうが、発音(発声)が違うんだろうな。
そこへ、ヒギンズ教授(レックス・ハリソン)が登場。
イライザの言葉をノートに書き取っている。
彼はアクセントでその人の出身地が分かる。
音声学の教授である。
ヒギンズ教授曰く、コックニーは「シェイクスピアの国の言葉を汚している」という。
「フランス人の誇りは言葉」「正しい英語を学べ」と。
フランス人は、英語にコンプレックスを持っていない唯一の国民ではないか。
かつてはイギリスを征服していたのだから、彼らにとっては、英語なんて「植民地の言葉」なのだろう。
フランス語から英語に流入した語も大量にあるしね。
それから、日本でも、よく「正しい日本語を」と唱える人がいるが、僕自身はやや懐疑的だ。
「つ〜か、マジやばくね?」みたいな言葉が、『源氏物語』の国の言葉を汚していると言えなくもないが。
そんなこと言ったって、『源氏物語』と村上春樹だって、全然違うじゃないか。
いや、夏目漱石村上春樹だって全然違う。
言葉は変化するものだ。
「正しい日本語を学べ」と言って、標準語を押し付けるのが正しいのか。
これは、明治政府の国策ではないのか。
方言は「正しい日本語」ではないのか。
関西人は、東京にいても関西弁を直そうとしない。
これは「関西弁に誇りを持っている」からではないのか。
言葉の問題は難しい。
ただ、イギリスの場合は、言葉遣いが階級と結び付いている所が厄介だ。
上流階級はコックニーなど絶対に話さない。
まあ、日本でも、上流階級は「つ〜か、マジやばくね?」みたいな言葉は話さないと信じたいが。
で、ヒギンズ教授は「私が仕込めば、半年で社交界に出せる」と言う。
つまり、言葉が階級を表すのを逆手に取って、下層階級の言葉を上流階級の言葉に矯正すれば、階級移動が出来ると言うんだな。
これは、我々日本人にとっては、無邪気な発想に思えるけれども。
果たして、イギリスではファンタジーではないのか。
それほど、階級と言葉が密接に結び付いているのか。
この辺の背景がよく分かっていないと、この物語が、単に貧乏な娘が金持ちの教授に引き上げてもらう話しにしかならない。
で、ヒギンズ教授は、同じく言語学に通じている(サンスクリット語の本を書いたらしい!)ピカリング大佐(ウィルフレッド・ハイド・ホワイト)と出会い、大量の銀貨をイライザのカゴに入れて、去る。
本作は、ほとんどがセットで撮影されたらしいが、実に壮大で素晴らしい出来栄えだ。
朝、イライザの父で文無しのドゥーリトル(スタンリー・ホロウェイ)が、娘に無心するために花市場へやって来る。
このオッサンが、実にいい味を出しているのだが。
ドゥーリトルはイライザを見付け、「銀貨1枚恵んでくれ」と頼む。
そして、安酒場でビールを飲む。
イギリスでは、階級によって、飲む酒も決まっている。
そりゃ、日本でも、ブラック・ニッカとオールド・パーを飲む層は、そもそも収入が違うのだろうが。
で、イライザはヒギンズ教授を訪ねる。
教授にとっては、このみすぼらしい娘は単なる「研究材料」でしかない。
本作は、全編を通して、実に差別的である。
ヒギンズ教授が差別主義者というだけではない。
作品自体が差別的なのだ。
イライザはヒギンズに「先生のレッスンを受けたい」と頼む。
ピカリング大佐は失敗に賭ける。
ただし、「もし成功したら、授業料は私が出そう」と提案。
ヒギンズは「目標は公爵夫人だ」と。
しかし、本当にイライザのことは人間扱いしていない。
怒った彼女は帰ろうとする。
そこを、ヒギンズはチョコで釣る。
こんな高そうなチョコを、イライザは見たこともないのだろう。
ヒギンズは、住み込み、食事、小遣い付きという条件を出す。
もちろん、言語実験のためだ。
で、薄汚れたイライザは、おそらく相当臭うのだろう。
「まず風呂に入れ」と命じる。
ヒギンズは、イライザが英語の訓練をサボったら、台所でゴキブリと寝かせるとまで言う。
これは、重大な人権侵害である。
ロビンソン・クルーソーが、フライデイに英語を教えたのと同じだ。
ただ、本作では、階級移動の手段として、イライザ自身が自分の言葉を矯正することを望んだことにはなっているが。
言語には、力関係がある。
今の世の中では、言うまでもなく、英語が一番強い。
だが、言葉を学ぶ者にとっては常識だが、この力関係は、言語の優劣を表すものではない。
中世までは、西欧ではラテン語が一番力を持っていた。
英語は、辺境の島国の方言に過ぎなかった。
それが現在、力を持つようになったのは、イギリスとアメリカが政治・経済的に実権を握っていたからに過ぎない。
で、イライザはどうやら風呂に入ったことがないようだ。
まるで、ネコを風呂に入れる時のようにギャアギャアとわめく。
僕の実家でも、昔、飼っていたネコを風呂に入れる時は、大騒ぎして大変だった。
もっとも、実際に風呂に入れていたのは、僕ではなくて母だが。
ヒギンズ教授の家には、実に立派な本棚がある。
教授は独身で、女嫌いだそうだ。
一方、ドゥーリトルは、タダ酒で飲み屋を追い出される。
彼は働かない。
娘の部屋を訪ねると、「引っ越した」と聞かされ、驚く。
引っ越し先が教授の家と知り、玉の輿に乗ったと勘違い。
その頃、イライザは機械に向かって、延々とABCの発音をさせられている。
ドゥーリトルがヒギンズを訪ねて来る。
「娘を返せ」と。
ヒギンズは「ゆすりに来たのか? 警察を呼ぶぞ」と言う。
ドゥーリトルは「5ポンドで手を引く。」
まあ、結局、ゆすりに来たのだが。
本作では、イギリスの通貨単位が色々と登場するが、解説がないので、それが現在の日本円で幾ら位なのかが、さっぱり分からない。
室内で、ドゥーリトルはイライザとすれ違うが、キレイな格好をしているので、最初、娘だと気付かない。
「見違えたな。」
イライザは、もう三日間も発音練習ばかりで、ウンザリしていた。
そんな彼女に、ヒギンズは「今日中に母音を言えるようにしろ! それまでは食事抜きだ!」と言い放つ。
日本人は、ネイティヴ崇拝が強くて、すぐ「ネイティヴのような発音で英語を話せるようになりたい」などと簡単に言うが、それが如何に困難であるかは、本作を見れば分かる。
何しろ、コックニーとは言え、イライザにとって、英語は母国語なのである。
母国語の発音ですら、こんなに難しい。
ましてや、日本人にとって、英語は外国語である。
英語と日本語は発音が全く違う。
そんなものが、週3時間位の英語の授業や、スピード何ちゃらを聞き流すだけで身に付くはずがない。
僕は関西人だが、ドラマや映画で、関西出身ではない俳優が関西弁のセリフを話せば、すぐに分かる。
同じ日本語ですら、発音を矯正するのはそれ程、難しいのである。
どんなに日本語の流暢な外国人だって、我々が聞けば、日本人ではないとすぐに分かってしまう。
ペラペラと得意気に英語を喋る帰国子女だって、日本人には流暢な英語に聞こえるが、ネイティヴにはどう聞こえているか、推して知るべしである。
従って、発音にこだわり過ぎるのは、語学の習得において、完全に無駄な努力である。
初歩の段階で、「こういう音がある」ということを知識として覚え、なるべくその音を出す努力をするだけで良い。
いや、カタカナ発音でも一向に構わないと思う。
だって、我々は日本人なんだから。
間違っても、ネイティヴとそっくりな音を出そうなどと思わないことだ。
それから、ネイティヴだからと言って、正しい英語を使っているとは限らない。
僕は仕事柄、本の校正をさせられることがあるが、プロのライターでも、メチャクチャな日本語を使っていることがよくある。
いわんや一般の人をやだ。
英語の場合でも同じだと思う。
知的水準の低いアメリカ人が皆、正しい英語を使っているとは限らない。
過度のネイティヴ信仰は危険だということである。
話しを続けよう。
イライザは、科学的に器械を使って発音練習をしている。
紙に火が付いても気付かないほど、熱中している。
英語に対する誇りが、少しずつ彼女に伝わったようだ。
猛練習の末、「スペインの雨は主に平野に降る(The rain in Spain falls mainly on the plain.)。」がついに言えるようになった。
要するに、彼女はそれまで、「エイ」という音をうまく出せなかったんだな。
翌日、アスコット競馬場にヒギンズ教授と、彼の母親であるヒギンズ夫人(グラディス・クーパー)がいる。
ヒギンズは母親に、「舞踏会の予行練習を手伝って」と頼む。
イライザは、ものすごく立派なドレスで出て来る。
ここには、冒頭の青年フレディも来ている。
それにしても、オードリー・ヘプバーンって、どうしてこうもコスプレ作品ばかりなのだろうか。
まあ、崇拝している人がいるので、余り言いたくないが、僕は彼女のことは全然好きではないし、いい女優だと思ったこともない。
出演作も、映画史上有名なのは確かだが、名作は余りない(もちろん、全作を見た訳ではないが)。
で、イライザは何とか覚えたばかりのフレーズと発音でその場を乗り切ろうとするが、ボロが出まくって大失敗。
レース中、上流階級の中で走る馬に向かって大声で叫ぶ。
それを聞いて、卒倒する人も。
ヒギンズの母親は「お話しになりません」と言う。
要するに、育ちの悪さまでは、発音だけでは隠し切れないということだ。
それにしても、日本の競馬好きの人は「競馬は紳士のスポーツ」なんてよく言うけれど、イギリスの競馬と日本の競馬は大分違う。
で、ヒギンズは「こんなやり甲斐のある実験はなかった」と言うが、イライザは「生きた人間をオモチャにして!」と、落ち込んでいる。
フレディがイライザに会うべく、花束を持ってヒギンズの家を訪ねるが、「誰にも会う気はない」と追い返される。
それでも、フレディは「待ちます」と。
舞踏会まで6週間、ピカリング大佐は「これ以上続けるのは酷だ。賭けはおりる」と告げる。
しかし、舞踏会当日を迎え、ヒギンズは「これは階級と階級、心と心の溝を埋める仕事だ」と、何やら善人めいたことを言う。
彼のこれまでの言動からは、そんなことを思っているとは、全く感じられなかったが。
もし、本気で階級の溝を埋めたければ、コックニーを話す相手を、矯正するのではなく、そのまま理解しようとしなければならないのではないか。
で、フランス製のドレスを着て登場するイライザ。
ここでも単なるコスプレ。
そして、ここで「Intermission」。
後半、イライザは舞踏会で王子と踊る。
表面上は大成功である。
ヒギンズの元教え子で、詮索好きなカーパシー(セオドア・ビケル)は、彼女を「ハンガリー王女だ」とまで言う。
だが、これから彼女の苦悩は始まる。
彼女は、幾ら話し言葉を変えても、所詮は下層階級の出身である。
しかも、言葉が違い、衣装も違うと、もう昔の居場所にも戻れない。
ヒギンズは鼻持ちならないエリートである。
おまけに、ものすごい男尊女卑の思想を持っている。
最後は、ご都合な結末だ。
正直言って、ミュージカルにする必然性も余り感じないし、こんな重いテーマを、ラブ・ロマンスに仕立ててしまうのには、無理がある。
階級闘争なら、大島渚にはかなわない。
ただ、語学を学ぶ者にとっては、色々と考えさせられる作品であるのは間違いないだろう。
アカデミー賞作品賞、監督賞、主演男優賞(レックス・ハリソン)、編曲賞、録音賞、撮影賞(カラー映画部門)、美術賞(カラー映画部門)、衣装デザイン賞(カラー映画部門)受賞。
1964年洋画興行収入2位(1位は『クレオパトラ』。邦画1位は『東京オリンピック』)。
1965年洋画興行収入2位(1位は『007/ゴールドフィンガー』。邦画1位は『赤ひげ』)。