『幸福な生活について』を原文で読む(第1回)

先日、『ガリア戦記』に続いて、『スキーピオーの夢』のテキストも読了しました。
TOEIC0点という、全世界で最低レベルの語学力しかない僕が、ラテン語の読解テキストを2冊も読み終えたのは、我ながら奇跡的です。
思い起こせば、僕の在籍していた学部には、初級から始まって、中級、上級とラテン語の講座がありました。
初級のクラスですら、数十人が選択しても単位を取得出来るのは数人だったそうですから、果たして上級までたどり着く学生がいたのでしょうか。
シラバスに載っているだけで、実は開講されていなかったのではないかなどと邪推していますが。
もちろん、選択しなかった僕には分かりません。
僕が在籍していた95年度のシラバスによると、プリニウスの『博物誌』やカトゥルスの詩を読んだようです。
それはさておき、自分で読もうとする場合、現在の日本で流通しているラテン語の読解テキストは、前述の『ガリア戦記』と『スキーピオーの夢』のほかには、大学書林から出ている2冊しかありません。
そのうち、僕はセネカの『幸福な生活について』を選びました。
語学は、少しでも触れていないと、忘れてしまうので。
セネカについて
セネカは、高校世界史の教科書にも出て来るので、名前くらいは知っている人も多いのではないかと思います。
ちなみに、『詳説世界史』には、次のように書かれています。

哲学の分野ではとくにストア派哲学の影響が強く、その代表者であるセネカエピクテトスの説く道徳哲学は上流階層に広まった。

では、セネカとはどのような人物だったのでしょうか。
『世界史用語集』(山川出版社)には、次のようにあります。

セネカ Seneca⑤前4頃~後65 ストア派哲学者で詩人。ネロの師となり、ネロ即位後は政治に関与。65年に自殺を強いられた。多数の悲劇作品や道徳書簡を残した。

これだけではよく分からないので、『はじめて学ぶラテン文学史』(ミネルヴァ書房)を引いてみましょう。

ルーキウス・アンナエウス・セネカ(Lucius Annaeus Seneca. 前4頃-後65)
セネカ。スペイン、コルドゥバ出身。騎士階級の生まれで、ネロー帝の家庭教師を務め、帝即位後は絶大な権力と財を手にするが、最後はそのネローの命令により自殺を強いられた。偽作とされる作品も含めて10編の悲劇の他、「倫理論集」と総称される哲学的著作12編、『倫理書簡集』122通、『自然研究』全5巻が伝存する。

余談ですが、僕の在籍していた学部には、フランス文学史、ドイツ文学史ロシア文学史のクラスはありましたが、ラテン文学史はありませんでした。
それはともかくとして、ラテン文学史のテキストにも、この程度の記述しかありません。
困りましたね。
そこで、『幸福な生活について』を収録している、『生の短さについて 他二篇』(岩波文庫)の「解説」を見てみましょう。
ここには、かなり詳しくセネカの生涯が記されています。

セネカ(Lucius Annaeus Seneca)はスペインのコルドゥバ(現在のコルドバ)の裕福な騎士身分の家に三人兄弟の次男として生まれた。生年については確証がないが、前四年から後一年の間というのが最も蓋然性が高い。父はのちに息子たちの求めに応じて仮想演説集成とも言うべき弁論の指南書『論判演説集』、『説諭演説集』を著した修辞学者(同姓同名で、大セネカと通称)で、母はヘルウィア。兄ノウァートゥスは、後年改名し、アカイア総督ガッリオー(一般にはガリオ)の名で聖書(『使徒行伝』一八・一二)にも登場する。弟メラは叙事詩人ルーカーヌスの父。セネカ自身は、おそらく教育や将来のために、生後まもなく叔母の腕に抱かれてローマへ移り、青年期には、ローマの有為な青年の例に漏れず、兄とともに「中央広場(=法廷=弁論家)と名誉ある公職の道を歩む準備をして」(大セネカ『論判演説集』二・四)、弁論術や法律などを学ぶが、「経験していない病気はない」(『倫理書簡集』五四・一)と述懐するほどの生来の蒲柳の質から、むしろ好んでピュータゴラス派のソーティオーンやストア派のアッタロス、またストア哲学にピュータゴラースの思想を加味して独自の哲学をローマで唱導していたセクスティウスの弟子ファビアーヌスなどに師事して、哲学に傾倒した。

三十歳前後(二五年頃)には、喘息とも肺結核ともされる病が昂じ、エジプトの叔母のもとで五年余の療養生活を余儀なくされた。

事情は不明ながら、叔父ガレーリウスのエジプト領事離任にともなって帰国の途についたが、難船し、叔父は溺死したものの、セネカ自身と叔母は危うく難を逃れた(三一年)。その後、叔母の支援を得て、「名誉ある公職の階梯(cursus honorum)」の第一段階の財務官に当選し(三四/三五年頃)、数年後には次の階梯の公職(造営官もしくは護民官)に就任、順調に名誉の階梯を昇った。この頃までにはすでに弁論家として、また著作家として名声嘖々たるものがあったらしい。元老院議会に列席し、見事なセネカの演説を聴いていた皇帝カリグラがその才に嫉妬してか、危惧を抱いてか、セネカを亡き者にしようとしたという先述の出来事はこの時期のものである。セネカは捨て置いても肺病で余命幾許もないという愛人の取りなしをカリグラが聞き入れたため、セネカは事なきを得た。
その後の十年ほどは不幸の連続であった。三九(もしくは四〇)年の父の死、四一年の一人息子の死、二十日も経たないその直後の、生涯最大の危機――コルシカ島への流刑――である。この年、帝室では狂帝カリグラが暗殺され、クラウディウスが帝位を継いだが、その妃で、希代の悪女メッサーリーナが画策した帝室の陰謀に巻き込まれ、セネカはカリグラの姉妹ユーリア・リーウィッラとの姦通の嫌疑をかけられた。

にもかかわらずセネカは断罪された。もっとも、姦通罪は極刑の可能性があったものの、なぜかクラウディウス元老院に「宥恕を請い……命乞いまでしてくれた」(同一三・二)おかげで、財産没収をともなわない追放(relegatio)に減刑された。しかし、死一等を減じられたとはいえ、流刑地コルシカ島は、セネカの記すところ、「丸裸」で「不毛」で、「野蛮」で「気候不順」な「荒蕪の地」である。その環境は劣悪、惨めなものだったに違いない。しかも一人息子を亡くした直後、将来を断たれたセネカにとって、精神的状況はなおさら厳しかったであろう。

流刑は八年余の長きに及んだ。

苦難の転機は四九年に訪れる。その前年、メッサーリーナが姦通罪で処刑され、カリグラの姉妹アグリッピーナクラウディウスの後妻に迎えられた。彼女の連れ子ルーキウス・ドミティウス・アヘーノバルブスがのちの皇帝ネローで、彼女は、セネカの輝かしい学識と名声を買い、流刑赦免に尽力して、セネカを少年ネローの師傅として迎えた。この年、セネカは予定法務官にも任ぜられ、翌々年には兄もアカイア総督となり、再びセネカ家にも光が射し始める。五四年、クラウディウスが死去する。ネローにはブリタンニクスという、クラウディウスと先妻メッサーリーナの子で、帝位を争う強力なライヴァルがいたが、ネローを溺愛するアグリッピーナがわが子を皇帝にという歪んだ愛から毒殺したというのが真相らしい(スエートーニウス『皇帝伝』「クラウディウス」四四以下、タキトゥス年代記』一二・六六以下、ディオーン・カッシウス『ローマ史』六〇・三四・三以下参照)。

ネローの師となったセネカはネローを善導し、クラウディウスの死後、アグリッピーナの思惑どおりネローが皇帝になってからも、補弼的存在として、盟友の近衛隊長ブッルスと図り、のちに「ネローの五年」と讃えられる善政を実現させた。

その「ネローの五年」のあとの、セネカのネローに対する影響力の低下、ネローのセネカからの離反は、ネローが自我に目覚め、本性へと向かって自立志向を強めていく過程と軌を一にしている。母や、かつての師の容喙を疎み、ネローは二人と次第に距離を置くようになっていった。母子のあいだにはすでに、ネローによるブリタンニクス毒殺(五五年)以来、互いへの不信感から、陰に陽に凄まじい角逐が始まっていたが、ネローがポッパエアという愛人を作ったことで破局は決定的となり、ポッパエアに唆されたネローはついに刺客を送って母親を暗殺するに至る(五九年)。

ネローの犯罪は母殺しのみにとどまらなかった。妻のオクターウィア(クラウディウスとメッサーリーナの娘)を離縁、あまつさえ反逆と姦通の罪を着せて処刑までしている(六二年)。二年後の六四年には「ネロー放火犯説」の消えないあのローマの大火があり、それに続く、ペテロ、パウロの殉教をはじめとするキリスト教徒のおびただしい迫害死、その他名もなき人々の無数の死があった。

六五年、大火のあとの騒然としたローマで、ネロー暗殺を謀るピーソーの計画が発覚し、事実上の隠棲生活を送っていたセネカではあるが、陰謀連座の嫌疑で捕えられ、ネローによって自決を命ぜられた。これには、暗殺計画の象徴的存在がセネカの甥の詩人ルーカーヌスであったという事情も大きく作用したであろう。セネカの自決は難渋し、まず血管を開き、さらに毒人参を仰ぎ、最後は熱湯の湯に浸かっての絶命だったという(同一五・六二―六四)。

壮絶な生涯ですね。
『幸福な生活について』について
『幸福な生活について』は、『詳説世界史』の「ローマ文化一覧表」にも載っているので、名前くらいは知っている人もいるのではないかと思います。
しかし、読んだことがあるという人は滅多にいないでしょう。
では、どのような作品なのでしょうか。
『詳説世界史』に載っているのはタイトルだけです。
『はじめて学ぶラテン文学史』には、タイトルすら出て来ません。
仕方がないので、また『生の短さについて』の「解説」から引用します。

本編は導入部(第一―二章)を除けば、ほぼ前半部(第三―一六章)と後半部(第一七―二八章)に分かれる。前半部は、「英知とは自然に悖らないこと、自然の理に従い、自然を範として自己を形成すること」というストア派の根本的な真理を示した上で、幸福、自然、理性、精神(魂)、善=徳の概念をめぐり、さまざまな角度からその関係性、そのあり方や定義が行なわれたあと、エピクーロス派の想定問答者を相手に、前半部の中心的主題である「徳と快楽」の問題が論じられ、徳こそ唯一の善(最高善)であり、それが精神(魂)の中にあることが示される。後半部は、理想の賢者、最高善を険峻な山に喩え、それを目指す者を誹謗中傷する者たちの不当さ、その無知と無自覚、無謀と悪意を指弾する前段(第一七―二○章)と、言行不一致の例として挙げられる富を象徴とする「外的な善」の位置づけの問題が論じられる後段(第二一―二六章)に分かれ、そのあとソークラテースの仮想の言葉に託して再び誹謗者たちの無自覚を叱責し、彼らを待ち受けている嵐に警鐘を鳴らす短い終章(第二七―二八章)が続く構成となっている。

難しそうですね。
僕は、『ツァラトゥストラ』も『善の研究』も途中で挫折したほど哲学の素養が全くないので、着いて行けるか自信がありません。
ただ、『生の短さについて』の「解説」によると、セネカの文体は「長文、複文をできる限り避け、論理の流れを示す繋辞を極力排する」「簡潔で力強い」ものだということなので、それを信じて挑戦してみます。
テキストについて
『幸福な生活について』のテキストは、前述のように大学書林から対訳が出ています。

幸福な生活について (大学書林語学文庫 3011)

幸福な生活について (大学書林語学文庫 3011)

初版は昭和37年。
訳注は山敷繁次郎氏。
本書の「はしがき」を少し引用してみます。

日本語を知らないのを承知でできるだけ直訳を試み、その間に学び知ったラテン文法上の断片的な知識を本文にあてはめ、自分で勝手に納得して作ったメモ、そのメモから適当に抜きとったのが本書の脚注です。ラテン語のことは何一つ知りませんので誤解、誤訳だらけだろうと心配しています

随分と自虐的ですね。
天下の大学書林からラテン語のテキストを出しておきながら、「ラテン語のことは何一つ知りません」はないでしょう。
本書は、左ページに原文、右ページに日本語訳、ページ下に脚注という、一般的な対訳本の構成になっています。
脚注は申し訳程度です。
原文には、『ガリア戦記』や『スキーピオーの夢』のテキストのようにマクロン(長音記号)が付いていないので、辞書を引く時、自分の頭の中で補完しなければなりません。
その点が、上級者向けと言えるでしょう。
どのくらいのペースで読み進められるか分かりませんが、頑張って読破したいと思います。
次回以降は、例によって、僕の単語ノートを公開するつもりです。
【参考文献】
1995年度 二文.pdf - Google ドライブ
詳説世界史B 改訂版 [世B310]  文部科学省検定済教科書 【81山川/世B310】』木村靖二、岸本美緒、小松久男・著(山川出版社
世界史用語集 改訂版』全国歴史教育研究協議会・編(山川出版社
はじめて学ぶラテン文学史 (シリーズ・はじめて学ぶ文学史)』高橋宏幸・編著(ミネルヴァ書房
生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)セネカ・著、大西英文・訳