『大いなる幻影』

この週末は、ブルーレイで『大いなる幻影』を見た。

1937年のフランス映画。
監督は、『素晴らしき放浪者』『ピクニック』『フレンチ・カンカン』の巨匠ジャン・ルノワール
助監督は、後に『幸福の設計』『モンパルナスの灯』を監督する巨匠ジャック・ベッケル
音楽は、『枯葉~夜の門~』のジョゼフ・コズマ
主演は、『我等の仲間』『フレンチ・カンカン』『シシリアン』の大スター、ジャン・ギャバン
共演は、『アタラント号』のディタ・パルロ、『國民の創生』『イントレランス』で助監督を務め、後に役者となって『サンセット大通り』などにも出演するサイレント映画の巨匠エリッヒ・フォン・シュトロハイム、『カサブランカ』『麗しのサブリナ』のマルセル・ダリオ。
本作は、ジャン・ルノワールの代表作で、極めて有名な作品だ。
「映画史上のベスト・テン」なんかを選ぶと、必ずランクインしている。
例えば、僕が高校生の頃(1989年)に本屋で立ち読みした『キネマ旬報』に載っていた「映画史上のベスト・テン(外国映画編)」では、7位であった(ちなみに、1位は『2001年宇宙の旅』)。
なので、僕もタイトルだけは知っていたが、残念ながら、これまで見る機会がなかった。
しかも、恥ずかしながら、内容も全く知らなかったのだ。
本作は、ものすごく乱暴にジャンル分けしてしまうと、「脱獄(脱走)映画」である。
これは傑作の多いジャンルで、ちょっと考えてみただけでも、『抵抗(レジスタンス)―死刑囚の手記より』『穴(1960)』『大脱走』『暴力脱獄』『パピヨン(1973)』『ミッドナイト・エクスプレス』『アルカトラズからの脱出』などがある(なお、『ショーシャンクの空に』は、傑作とは認めない)。
大いなる幻影』は、それらの元締めみたいな作品であるが、テーマは大変幅広く、単なる脱走映画ではない。
本作を見ると、映画史上に残っている作品には、やはり残るだけの理由があるなあと痛感させられる。
モノクロ、スタンダード・サイズ。
勇ましくも悲壮な音楽で始まる。
第一次世界大戦中のフランス軍
マレシャル中尉(ジャン・ギャバン)とド・ボアルデュー大尉(ピエール・フレネー)は、戦闘機で敵情偵察を命じられるが、ドイツの飛行隊長ラウフェンシュタイン大尉(エリッヒ・フォン・シュトロハイム)に撃墜され、ドイツ軍の捕虜になる。
現代の戦争映画のように撃墜シーンはない。
場面が変わると、ドイツ軍の拠点に移っているので、最初はちょっと面食らう。
当時は、戦時中と言っても牧歌的だったのだろう。
軍人達は、女の話しをしたり、酒を飲んだりで、あまり悲壮感はない。
マレシャルは、この戦闘で左腕を負傷した。
マレシャルはパリの労働者階級出身、ボアルデューは貴族の出身である。
ラウフェンシュタインは貴族出身で、マレシャルやボアルデューを捕虜扱いせず、不運な勇士として食事までふるまう。
彼らが送られたハルバッハ収容所では、待遇は階級によって異なる。
そして、脱走すると射殺されるのである。
中には、知的な捕虜もいて、「ロシア語は名詞が格変化するが、ラテン語はどうか?」なんて言っている。
ちなみに、ロシア語は知らないが、ラテン語は名詞が格変化する。
ラテン語には、男性名詞、女性名詞、中性名詞の3種類の性があり、それぞれに主格、属格、与格、対格、奪格、呼格の六つの格があり、第1から第5までの変化型がある。
語尾が変化するので、それを呪文のように唱えて、覚えなきゃならん。
何せ、辞書には変化前の形しか載っていないから、変化を覚えて元の形に戻せないと、辞書も引けない。
これが砂を噛むような単調な作業で、ラテン語を学び始めた多くの人は、ここで脱落する。
しかし、ラテン語は文字が普通のローマ字で、発音もローマ字読みなので、実はそんなに覚え難くはない。
もちろん、今ではキレイさっぱり忘れてしまったが。
フランス語なんか、文字には変なアクセント記号が付いているし、何回も口に出して変化を覚えようとしても、「語尾は発音しない」というルールがあるので、大変覚え難い。
ギリシア語に至っては、まず文字から覚えなければいけない。
もっとも、最近はデルタとかオミクロンとかは小学生でも知っているので、ギリシア語学習の気運は高まっているかも知れないが(そんな訳ない)。
ああ、壮大に脱線してしまった。
収容所での食事は3食キャベツというヒドイものだが、ユダヤ人の銀行家出身であるローザンタール中尉(マルセル・ダリオ)の元には、毎日のようにパリから物資が送られて来て、フォアグラやらブランデーやらで、とても捕虜とは思えない贅沢な食事を摂ることが出来た。
この4人が(軍人の)主要登場人物だが、本作には、階級や人種の対立というテーマが盛り込まれている。
マレシャルは、仲間から「脱走のための穴を掘っている」と打ち明けられる。
毎晩、床下に潜り、鉄片で土を掘る。
掘り出した土は、空き缶に入れて上まで運び、床下に詰める。
しかし、床下に隙間がなくなったので、今では袋に入れて外へ捨てに行っている。
カップのような筒をつなぎ合わせたパイプで、酸欠を起こさないように空気を送る。
掘り役は真っ暗な土中でロウソクの灯りだけが頼りだ。
何か問題があった時は、ヒモを引いて床上の仲間に知らせる。
このシーンを、もっと大掛かりにすれば、『大脱走』になるな。
マレシャルは「モンテ・クリストの世界だな」とつぶやく。
なお、僕は恥ずかしながら、モンテ・クリスト伯の名前は知っていたが、どんな話しかは知らなかった。
こういうのは多分、小学生くらいで「世界少年名作読みもの」みたいなので読むのだろうが。
我が家はS価学会の熱心な信者だったので、そういうものを読むべき時期にI田D作先生の本を読まされていたのであった。
失われた時間は取り戻せない。
で、穴は狭いので、一人しか入れない。
穴を掘る役は交代制だ。
ある夜、窓の外で物音がした。
皆がそれに気を取られて、トンネルの中で掘り役が酸欠になっているのに気付かなかった。
この酸欠のシーンが上手くて、ロウソクが消えるのである。
これで酸欠は表現出来る。
余計な説明は要らない。
昨今の映画は説明過剰だ。
ようやく上の連中が気付いて、急いで掘り役を呼ぶが、応答がない。
急いで引き上げると、失神している。
が、コニャックを飲ませると息を吹き返した。
ホッとする。
これで死んだら、エライことになるからな。
マレシャルは、いつも白い手袋をしている貴族出身のボアルデューをなかなか信用出来なかったが、脱走するための穴を掘るのには、皆が協力した。
彼らは、昼間は畑仕事をさせられる。
その時に、コートの中に土を入れた袋を隠して、畑に捨てる。
ある日、彼らの元に大量の女物の洋服が送られて来る。
ドイツ兵が検査をするが、問題はない。
これは、演芸会の出し物の衣装であった。
ドイツの若者達は連日、自ら志願して入隊して来る。
それを見ていた町の婆さんは「まだ若いのに」と嘆く。
マレシャルは、「俺がここを出たいのは、退屈過ぎて死にそうだから」とうそぶくが、本作をちゃんと見ると、そんな単純な理由ではないことが分かる。
演芸会の日、フランス捕虜達は女装して、収容所の偉いさんを招待してショーを敢行する。
ドイツ側は大ウケして、拍手喝采が湧き起こるが、突然、マレシャルが「ショーは中止だ!」と叫んで、乱入して来る。
「(先に占領されていた)ドゥオモンを我が軍が奪還した」と新聞に見出しが踊っていたのだ。
フランス兵達は、誰からともなく大声で「ラ・マルセイエーズ」(フランス国歌)を合唱する。
ものすごい国民の誇りだ。
作中に「フランスは移民を受け入れているから、純潔でなくてもフランス国民だ」というようなセリフがあるが、出自が何であれ、この国の歌をうたうことでフランス国民として団結出来る。
これは、日本人にはないだろう。
何か国家の危機や慶事があった時に、日本人が全員で誰からともなく「君が代」を合唱するか。
しないだろう。
フランスの国は国民が革命で勝ち取ったものだが、日本の国はお上が作った(と国民が思っている)からだ。
大相撲の千秋楽で全員が「君が代」を歌うのは、単に「国歌斉唱」というアナウンスが流れるからである。
スポーツ競技の開会式で、名のあるミュージシャンが妙にカッコを付けて「君が代」を歌うのは、自分の歌唱力をアピールするためだ。
保守系の人達は嬉々として「君が代」を歌うが、民族の魂から湧き出たものではないと思う。
僕は天皇制に反対なので、「君が代」にも懐疑的だが。
昔から、革新系の人達は「君が代」に反対して来たが、では、仮に国会で新たに違う国歌を制定したとしても、国民皆が受け入れるのは難しいだろう。
国民が自ら勝ち取ったものではないからな。
今の日本で、集まったら自発的に歌い出すのは、早稲田の学生の校歌くらいだろう。
我が家でも、僕が夜中に酔っ払って歌い始めたら、細君も一緒になって歌う。
本作の感想をネットなどで見ると、「こんな恵まれた環境にいるのに、どうして脱走なんかするのか」というのが散見される。
これは、大変日本人的な発想だと思う。
日本人は、お上に従順なのだ。
フランス人は、フォアグラを食べられようが、コニャックを飲めようが、敵の監視下で真の「自由」がないことに耐えられないのである。
強烈な「自由」の希求。
そして、レジスタンスの精神だ。
日本は、大昔から島国で守られているから、ヨーロッパのように隣国との緊張関係というのがあまりない。
だから、外圧に弱い。
黒船とかマッカーサーが来ると、すぐに屈服する。
他社から自由でいたいという感情が、そもそも弱いのだ。
ここが分からないと、本作の価値も理解出来ない。
で、マレシャルは、演芸会をブチ壊し、仲間を扇動して反逆行為を首謀した(ドイツ側からは当然そう見えるだろう)罪で、独房に入れられる。
壁をスプーンで掘り始め、それを見付けて止めに入って来た見張りのドイツ兵を逆に房の中に閉じ込め、自分は外へ飛び出す。
すぐにボコボコにされ、数人のドイツ兵に羽交い締めにされて、独房に戻されるマレシャル。
その間に、「ドイツ軍、ドゥオモンを再奪還」というニュースが流れる。
マレシャルは、無精ヒゲが伸び、憔悴し切っている。
「ここから出せ! うんざりだ!」と狂ったように叫ぶマレシャル。
本作の中で、初めて捕虜が閉じ込められた苦痛を露わにする場面だ。
見回りに来た老ドイツ兵に、「フランス語で話しがしたい!」と食って掛かる。
この「フランス語で話しがしたい」というセリフは、強烈なアイデンティティーの発露だろう。
時々、「アメリカ人に生まれていたら、こんなに英語に苦労しなかったのに」などというアホ丸出しのことを言う日本人がいるが。
そういう人は、「母語」というのがどういうものかが全く分かっていない。
このマレシャルを哀れに思った老ドイツ兵は、自分のハーモニカをマレシャルの前に置いて行く。
「暴れたのか?」と別のドイツ兵に問われた老ドイツ兵は、「戦争のせいだ」とつぶやく。
この一連の独房のシーンは、非常に強烈な印象を残す。
パピヨン』でスティーブ・マックイーンが独房に閉じ込められたシーンを思い起こした。
あれが、脱獄映画の中で最も崇高なシーンだと今まで思っていたが。
当然、本作を参考にしているのだろう。
その頃、フランス兵達が話し合っている。
順調に行けば、あと4日でトンネルが完成するが、マレシャルを置いて行くのが気掛かりだと。
そこへ、マレシャルが戻って来る。
「待ってたぞ!」
再び、脱走の計画を話し合い始めたところへ、突然ドイツ兵が点呼に来る。
「将校を別の部屋に移す」のだと言われる。
まあ、こうやって脱走計画を話し合っていることが、ドイツ側にもバレていたのだろう。
そして、フランス人捕虜達は、別の収容所へ移されることになる。
マレシャルは、入れ替わりにやって来たイギリス人の捕虜達に「7号室の脱走用の穴がほぼ完成している」と伝えようとするが、英語が話せないので伝わらない。
長時間、列車に揺られ、何ヵ所もの収容所をたらい回しにされ、とうとう遥か彼方のヴィンターズボルン第14捕虜収容所まで連れて来られたマレシャル、ボアルデュー、ローゼンタールら。
そこでは、何と負傷したラウフェンシュタインが収容所長に転じていたのであった。
「ボン・ジュール、ムッシュー!」とフランス語で挨拶して、再会を喜ぶラウフェンシュタインとボアルデュー。
この二人は貴族出身だからか、語学に通じているようだ。
二人が話す時は、英語を使うことが多い。
で、移送された3人のフランス将校は、何度も脱走未遂を起こしている。
「皆さんの愛国心に敬意を表します」と言いつつも、「ここは他と違い、脱走は不可能です」とラウフェンシュタイン。
ここは、高さ36メートルの城壁の上に作られているのであった。
さあ、これからどうなる?
本作の中で、古代ギリシアの詩人ピンダロスの原文を分厚い辞書を引きながら読んでいる軍人が出て来る。
ちょっと、自分と重ね合わせた。
軍人達は、基本的に書物になど興味はない。
物資として送られて来た大量の本に、誰も興味を持たず、燃やしてしまう。
本作は、後半が特にスゴイ。
あまり書くとネタバレになってしまうが、極寒の地を、320キロ離れたスイス国境まで延々と歩く。
食料は小さな袋に入れた角砂糖とクッキーだけ。
苦難の道のりをきちんと描いているので、この後の展開に説得力がある。
砂の器』や『復活の日』を思い出したが、もしかしたら、本作を参考にしているのかも知れない。
まあ、映画史上有名な作品だからな。
後半に出て来るウシさんが名演。
ドイツ人女性にかくまわれたマレシャルが「3年間理解できなかったドイツ語がわかる!」というシーンがある。
必要が語学の母ということだろう。
本作には、階級対立や人種差別の問題や、更には友情や愛情まで盛り込まれている。
とにかく、テーマの幅が広く深い映画だ。
そして、ラストシーンには込み上げて来るものがある。
僕も年齢のせいか、涙もろくなった。

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