『真夜中のカーボーイ』

この週末は、ブルーレイで『真夜中のカーボーイ』を見た。

1969年の作品。
監督はジョン・シュレシンジャー
言うまでもなく、アメリカン・ニュー・シネマの大傑作である。
二度目の鑑賞。
ここ最近、どちらかと言うと鑑賞後に多少不満が残るような作品を続けて見てきたので、ここらで起死回生の1本をと思い、本作を選んだ次第。
と、まあ、こんなことを何のために書いているのか、自分でもわからんが、一人だけ「『映画研究会』の記事が楽しみ」という奇特な友人がいるので、彼が読んでくれることを祈りながら。
さて、見終わった後に、これほど切なくなる映画はない。
大都会に憧れて、テキサスからニューヨークへと旅立つジョン・ヴォイト演じるジョー。
まず、彼に感情移入せずにはいられない。
僕も19歳の時に単身上京した。
その時の、期待と不安の入り混じった気持ちを思い出す。
甘美な夢を抱いて大都会に乗り込んだものの、現実は厳しい。
おかしなカウボーイ・スタイルでうろつくジョーは、完全に田舎者である。
彼の「女に持てたい(と言うより、有閑マダムのヒモになりたい)」という夢は、ことごとくカモにされるだけで、空回りする。
この辺り、地方出身者なら、初めて歌舞伎町に行った時のことを思い出すだろう。
おまけに、ジョーは少し頭が弱い。
たくましい身体だけが売りである。
彼に絡んでくるのは、もう一人の主役。
我らがダスティン・ホフマン演じるラッツォだ。
彼は、明らかに頭が良く、才能もあるのだが、足が不自由で、おまけに病魔に侵されている。
チビだから、女にも相手にされない。
大都会で生き抜いていくために、日常的に悪事を働いている。
最初は彼に騙されたジョーだが、二人の間には、奇妙な友情が芽生える。
ジョーは、すっかりカネもなくなって、ラッツォとつるんで生きるしかない。
この夢と現実との落差。
都会は恐ろしい。
ラッツォが住んでいるのは、廃墟のビルだ。
当然、冬なのに暖房もない。
かっぱらってきた野菜や缶詰を使い、怪しげなスープを作って食べる。
僕は上京した頃、池袋の近くの四畳半・風呂ナシ・トイレ共同のボロ・アパートに住んでいたが、その時のことを思い出した。
冷房も暖房もないから、夏は死にそうに暑く、冬は寒くてたまらない。
ガスコンロに鍋をかけ、湯をグツグツと沸かして暖房代わりにしていた。
流しで水で頭を洗ったりもした。
心細いったら、ありゃしない。
細君も、そのアパートに何度も遊びに来たのだが、二人して当時のことを思い出さずにはいられなかったよ。
僕らは、今は夢の3LDKのマンションに住んでいる。
若い頃には、夢しかなかった。
ラッツォには、フロリダに行きたいという夢がある。
フロリダに行って、女にモテモテの自分を夢想している。
それだけが、彼の生きる支えと言って良かろう。
でも、今の生活をしている限り、その夢が叶う気配はない。
僕の話に戻るが、先ほど述べた池袋のボロ・アパートで、1年間だけ、隣に高校時代の友人が住んでいたことがある。
二人とも、自給の安い映画館でアルバイトをしていて、先の展望もなかった。
毎晩、二人で語り合った。
食い物がない時は、米を貸し借りしたりもした。
今でこそ、彼も妻子のある身となっているが、大都会で先の見えない暮らしをしている時に、頼れる友人がそばにいることの有難さは、痛いほどよくわかる。
しかし、彼らの暮らしは、本当に底辺で、希望がない。
とうとう、ジョーは売血までして、食料を手に入れたりする。
売血ですよ、売血
大島渚の初期の作品にも出てきたな。
もう、このインチキな感想文は、思い付いたままに書いているから、どこに行くのかわからなくなっているが。
ジョーとラッツォの友情は厚い。
ジョーは、ラッツォのフロリダに行きたいという夢を、何とか叶えてやろうとする。
そのために、とうとう超えてはいけない一線まで越えてしまう。
でも、友人のためだから、気にしない。
ラッツォは、そのことを心配する。
フロリダ行きのバスに乗り、小汚い服を途中でアロハ・シャツに着替え、雪の降るニューヨークから、陽気な街並みへと風景が変わってゆくのを見る時の、彼らの明るい顔。
ネタバレになるので、これ以上書かないが、泣けてくるよ。
本作は、アカデミー賞3部門(作品賞・監督賞・脚色賞)を受賞したけど、そんなことはどうでもいいね。
魂を揺さぶる、不朽の名作だ。