日本近代文学を文庫で読む(第5回)『五重塔』

今回は、幸田露伴の『五重塔』を取り上げます。
文語体なので、読んだことがあるという人はそんなにいないのではないでしょうか。
かく言う僕も、高校生くらいの頃には読んでみようとすら思わず、最近になってようやく読みました。
五重塔』は、当然ながら、高校日本史の教科書にも載っています。
例えば、僕の手元にある『詳説日本史』(山川出版社)には、第9章「近代国家の成立」の「おもな文学作品」という一覧表の中です。
幸田露伴については、本文中に、尾崎紅葉と対比して、次のように書かれています。

尾崎紅葉らの硯友社は、同じく写実主義を掲げながらも文芸小説の大衆化を進めた。これに対して幸田露伴は逍遥の内面尊重を受け継ぎ、東洋哲学を基盤とする理想主義的な作品を著した。

『精選日本文学史 改訂版』の脚注には、次のようにあります。

幸田露伴 慶応三(一八六七)年―昭和二十二(一九四七)年。小説家・随筆家・考証家。東京都生まれ。本名は成行。『幻談』『運命』などもある。第一回文化勲章を受ける。

また、同書の本文には、次のようにあります。

紅葉と並び、西鶴風の擬古文調で名を成したのが幸田露伴である。漢語や仏教語を駆使した『露団々』や、『風流仏』が出世作となった。『一口剣』や『五重塔』など、芸道に生きる理想主義的な男性像の造型に特色を見せた。写実的な女性描写を得意とした紅葉と対照され、紅・露時代と言われる。その後露伴は、『風流微塵蔵』などの写実風の作品も書き、後年は、「芭蕉七部集」などの研究や、随筆・史伝に優れた仕事を残した。

『田村の[本音で迫る文学史]』(大和書房)でも、露伴について述べられているので、そちらも引用しておきます。

幸田露伴は、やはり井原西鶴に影響を受けながら、深い東洋文学の素養のもとに「理想主義」と呼ばれる作品を書いた。
作品『風流仏』は、成就しなかった恋の相手を仏像に刻む仏師の話で、『五重塔』は、世間的人間関係に迎合せずただひたすらに自己の理想を追ってそれを全うした大工の話であるが、露伴はこうした職人気質を描くことを得意とし、その文体は男性的な力強いものであった。

前回も書きましたが、上の引用の中に「その文体は男性的な力強いものであった」とありますが、本文の引用はありません。
これでは、本当に露伴の文体が男性的かどうかは分からないでしょう。
受験対策の虚しさです。
高校生の時は名前だけ覚えるにしても、大学に入ったら、出来るだけたくさんの文学作品を読むべきだと思います。
と偉そうに言っている僕は、学生時代は、映画ばかり観て、ロクに本は読まずに過ごしてしまったのですが。
最近、同じ学部の国文科の人と話す機会があったのですが、近代文学の古典は一通り読んだと言っていました。
さすが国文科です。
露伴なんて、普通の高校生はまず読まないし、もちろん国語の教科書にも載っていないので、ますます本文の引用を少しでも載せて欲しかったですね。
さて、露伴の略歴について、少し詳しく述べておきましょう。
幸田露伴は、1867(慶応3)年、江戸で生まれました。
幼少の頃は私塾で手習いや素読を学びます。
1875(明治8)年、東京師範学校附属小学校(現・筑波大附属小)に入学。
この頃から草双紙、読本を愛読するようになります。
卒業後の1878(明治11)年、東京府第一中学(現・都立日比谷高校)正則科に入学。
尾崎紅葉や上田萬年、狩野亨吉らと同級生でした。
後に家計の事情で中退し、数え年14歳で、東京英学校(現在の青山学院大学)へ進みますが、これも途中退学。
図書館に通ったり、塾で、漢学、漢詩を学んだりします。
数え年16歳の時、給費生として逓信省電信修技学校に入り、卒業後は官職である電信技師として北海道余市に赴任しました。
その頃、坪内逍遥の『小説神髄』や『当世書生気質』と出会い、文学の道へ志す情熱が芽生えたと言われています。
そのせいもあり、1887(明治20年)職を放棄し帰京。
父が始めた紙店に勤め、一方で井原西鶴を愛読しました。
1889(明治22)年、「露団々」が山田美妙の激賞を受け、さらに『風流仏』(1889年)、谷中天王寺をモデルとする『五重塔』(1893年)などを発表し、作家としての地位を確立しました。
この頃に同世代の尾崎紅葉ととも「紅露時代」と呼ばれる黄金時代を迎えます。
写実主義尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴」と並び称され、明治文学の一時代を築いしました。
1908(明治41)年には京都帝国大学文科大学の国文学講座の講師となります。
日本文脈論(日本文体の発達史)・『曽我物語』と『和讃』についての文学論・近松世話浄瑠璃などの講義内容で、決して上手な話し手ではありませんでしたが、学生の評判は非常に良かったそうです。
学者としても充分な素養があったのですが、夏季休暇で東京に戻ったまま、僅か一年足らずで大学を辞してしまいました。
官僚的で窮屈な大学に肌が合わなかったようです。
大学を辞めた翌年の1911(明治44)年に文学博士の学位を授与されます。
1947(昭和22)年、満80歳で没。
それでは、ここで、『五重塔』のあらすじを簡単にまとめておきます。

大工の十兵衛は、腕は確かだが世渡りが下手なため、仲間から「のっそり」と呼ばれ、貧乏暮らしに甘んじていた。
ある時、江戸・谷中の感応寺で五重塔を建てることになる。
周囲は当然、名棟梁・川越の源太が仕事を請け負うものだと思っていた。
しかし、なぜか十兵衛は、この仕事をどうしても自分が完成させたいと思い立つ。
五重塔の五十分の一大の模型を作って、感応寺の住職のもとを訪れる。
源太は十兵衛の親方である。
周囲からは「恩知らず」と反感を買い、源太も面白くない。
だが、十兵衛は一生に一度自分の腕をふるって大仕事を成し遂げ、後世に名を残したいと考え、どうしても譲らない。
感応寺の住職は、そんな十兵衛の気持ちがよく分かる。
源太と十兵衛を呼んで仕事の譲り合いを提案し、二人で話し合って決めるように言う。
源太は共同で建てることを提案するが、十兵衛は納得しない。
あくまでも自分一人で建てたいと言い張るのだ。
源太は途方に暮れ、結局辞退を申し出る。
そして、五重塔の工事は十兵衛に任せられた。
工事が始まると、十兵衛の意気込みはすさまじく、鬼気迫るものがある。
しかしながら、日頃源太の下で働いている大工たちは、十兵衛を馬鹿にしているため、なかなか言うことを聞かない。
ある日、十兵衛は源太の弟子に襲われ、ノミで片耳をそがれてしまう。
それでも十兵衛は仕事を休まない。
彼のことを見下していた大工たちは、この心意気に動かされ、熱心に働くようになる。
とうとう五重塔は完成した。
落成式前夜、江戸は暴風に襲われた。
十兵衛の家も屋根が飛ばされたが、彼は「五重塔は絶対に倒れない」とどっしり構えている。
一夜明け、江戸中が大きな被害を受けている中、十兵衛の建てた五重塔は無傷でそびえ建っていた。
住職は落成式で「江都の住人十兵衛之を造り、川越源太之を成す」と記し、これをたたえたのであった。

五重塔』は、旧漢字・旧仮名遣いで文語体の作品ですが、100ページ強の中編なので、すぐ読めます。
ちょっと短くて、あらすじを読んでいるような感じですが。
文体は、『平家物語』を思わせるような格調高い七五調です。
岩波文庫版の「解説」が非常に簡潔にまとまっているので、そこから重要そうな箇所を引用しておきます。

幸田露伴は、明治二十二年から二十四年にかけて、求心的な文体をつよめていって、そういう求心性のつよい文体と釣り合う構成の佳作、秀作をのこした。
五重塔』はその頂点に達した秀作である。
のっそり十兵衛という、狷介で頑固、世渡り下手の寺社建築の大工が主人公である。腕はあるのに小才が利かぬ性格の故に、職人仲間からややもすればさげすまれ、「年が年中長屋の羽目板の繕ひやら馬小屋箱溝の数仕事」に明け暮れ、貧乏暮しをしている。
この大工が、谷中の感応寺に次いで五重塔が建てられるという噂を耳にする。谷中感応寺の建築を請け負ったのは、川越の源太という、日頃ひとかたならぬ世話になっている大工で、感応寺の出来栄えが見事だったので、自然、五十塔も源太にやらせようと寺の上人は考えている。
その仕事を、のっそり十兵衛は、ぜひ自分がやりたくてならず、寺の上人に直談判をして、哀訴、懇願する。
この筋立ては、露伴がこれまで書いてきた『風流仏』や『一口剣』とちがうものである。無名の仏師や、あるいは世間に見捨てられた刀鍛冶が、藝に打ち込むことによって、恋や現世の煩悩から解脱するというのが、これまでの小説の筋である。藝に打ち込む動機と精進は、宗教的な捨身にひとしいようにみえる。結果として主人公らは、その精魂こめた仕事によって世俗の名声、栄誉を得るけれども、小説の力点はあくまで、彼らのおのれをむなしくした藝への精進にある。
五重塔』では、そこのところが、力点がずれている、というか複雑になっている。

この小説は、むかしから、嵐の吹きすさぶ場面の一種凄絶な文章によって人びとにいいつたえられてきた。見事な文章にはちがいないが、この嵐の描写は、ぜんたいの叙述の中の位置としては、十兵衛の魔性を証するための手段である。嵐という人為を超えた自然の力に、十兵衛の人為による五重塔が打ち克ったというのである。
小説の結末は、嵐の過ぎた日の落成式に、感応寺の上人が塔の銘に「江都の住人十兵衛これを造り川越源太郎これを成す」と墨書して、両人に花をもたせる、いわゆる幸福な結末である。

明治二十年代前半の文壇小説の中で、紅葉と露伴は出色の存在だった。おなじ時代に彗星のように登場した批評家北村透谷は、その両者を「当代の両名家」と認めながらも、あきらかに好みにおいて露伴に傾いていた。
「われは「風流仏」及び「一口剣」を愛読す。常に謂へらく、此二書こそ露伴の作として不朽なる可けれ。何が故に二書を愛読する、曰く、一種の沈痛深刻なる哲理の其中に存するあるを見ればなり。」(『「伽羅枕」及び「新葉末集」』)
しかし「一種の沈痛深刻なる哲理」は、『五重塔』にこそふさわしい評言と思われる。日本の近代小説は、『五重塔』において露伴が創造した人間性の極限を摘出する分析力に冴えを示しはしたが、卑小な衝動と崇高な理想の落差に架橋する造型方法を見いだすことはできなかったのである。

文語体なので難しい箇所もありますが、文章全体がぐいぐいと力強く、一気に読ませる作品です。
五重塔』の文庫版は、岩波から出ています。
岩波文庫

五重塔 (岩波文庫)

五重塔 (岩波文庫)

初版は、何と1927年7月。
岩波文庫の立ち上げと同時です。
現在出回っているのは、1994年の改版。
解説は桶谷秀昭氏。
【参考文献】
詳説日本史B 改訂版 [日B309] 文部科学省検定済教科書 【81山川/日B309】笹山晴生佐藤信五味文彦、高埜利彦・著(山川出版社
精選日本文学史』(明治書院
田村の〈本音で迫る文学史〉 (受験面白参考書)』田村秀行・著(大和書房)