日本近代文学を文庫で読む(第3回)『浮雲』

今回は、二葉亭四迷の『浮雲』を取り上げます。
浮雲』は、言文一致体で書かれた最初の代表的な作品ということで、日本文学史上で極めて重要な位置を占めているのです。
『詳説日本史』(山川出版社)にも、本文中に次のような記述があります。

言文一致体で書かれた二葉亭四迷の『浮雲』は、逍遥の提唱を文学作品として結実させたものでもあった。

日本文学史上重要な作品なので、どの文学史のテキストでも、まとまった量の記述がなされています。
『田村の[本音で迫る文学史]』(大和書房)から引いてみましょう。

では、小説としての日本近代文学の出発点になった作品は何かというと、二葉亭四迷の『浮雲』である。
二葉亭四迷は、坪内逍遥の弟子で、その写実の理論をもっと徹底した『小説総論』という評論を書き、その実践として小説『浮雲』を著した。これは、失職して馬鹿にされながらも下宿先の娘への恋愛感情が断ち切れずに下宿を去りかねている男の内面を描いた作品で、未完に終わったものの、平凡な一市民を主人公に、心理のあるがままの揺れが表現されている成功作である。
なお、二葉亭四迷という名は、彼が文学をやりたいと父親に申し出たときに、“貴様のような奴は、くたばってしめぇ”と言われたので、その“くたばってしめぇ”をもじって付けたものだと言われているが、これは、その当時文学というものがまともな仕事として認められていなかったことを証する逸話である。そして、彼自身も、後年“文学は男子一生の仕事にあらず”として、文学の筆を折ってしまう。
また、二葉亭四迷については、ロシア文学の翻訳紹介の仕事も重要で、『あひびき』『めぐりあひ』などの作品がある。

なお、『小説総論』については、現在流通している紙の本はないようです。
また、『あひびき』は、『詳説日本史』の「おもな文学作品」に名前が載っていますが、こちらも現在流通している紙の本は見当たりません。
『精選 日本文学史 改訂版』(明治書院)にも、上の『田村の[本音で迫る文学史]』とほぼ同じようなことが書かれていますが、微妙に記述が違う部分もあるので、こちらも見ておきましょう。

新しい十九世紀ロシア文学を学んだ二葉亭四迷は、『小説総論』を書いた。「実相を借りて虚相を写し出す」のが写実だとする方法意識は、『小説神髄』における主張を更に深めたものであり、それは徹底を欠いていた『当世書生気質』への批判ともなっている。逍遥の励ましを受けて、二葉亭はその理論を『浮雲』に実作化した。

浮雲』の主人公内海文三は、近代的自我に目覚め、封建的な体制の中で苦悩する青年である。知識人の内面に目を向けた新しい人物像の造型と言文一致体による自由な表現の創始は、近代文学の行方を指し示した。
言文一致の口語体は、山田美妙が『夏木立』で試みているが、ツルゲーネフの『猟人日記』を口語訳した二葉亭の『あひびき』や『めぐりあひ』が、みごとな自然描写で多くの文学者に影響を与えた。

二葉亭四迷については、「ロシア文学を学んだ」ということと「言文一致」が重要だと思うのですが、それが『田村の[本音で迫る文学史]』には言及されていないので、こちらを引用しました。
ちなみに、山田美妙の『夏木立』も、現在入手可能な本はありません。
『精選 日本文学史 改訂版』には、二葉亭四迷について、脚注でごく簡単にまとめられているので、引いておきます。

元治元(一八六四)年―明治四十二(一九〇九)年。小説家・翻訳家。東京都生まれ。本名は長谷川辰之助。『あひびき』などロシア文学の翻訳のほか、『其面影』『平凡』もある。

ただ、これだけでは何のことだか、よく分かりませんね。
そこで、『浮雲』の新潮文庫版の「解説」を参考に、ちょっと補足します。
二葉亭四迷は元治元(1864)年、江戸で生まれました。
12歳になり、松江変則中学(現・島根県立松江北高校)に通う一方、漢学塾でも学びます。
15歳の頃、「ロシアから国を守ろう」という使命感を抱き、軍人になる決意を固めて陸軍士官学校を受験するも、三度も不合格の憂き目に。
そこで、「軍人が駄目なら外交官になってロシアの脅威に当たろう」と、東京外国語学校(廃校を経て現・東京外国語大学)の露語科に入学します。
明治14(1881)年、18歳の時でした。
当時の東京外国語学校は、英仏独語科は私費でしたが、露清韓語科は官費から授業料が出ました(このことは、『浮雲』の主人公・内海文三の回想の中でも示唆されています)。
ロシア語科では実用語学が教えられ、文学や文学史などの科目はありませんでした。
二葉亭自身にもロシア文学を学ぶ気はなかったのですが、ニコラス・グレイという亡命ロシア人教師が上級課程の作文の授業でツルゲーネフゴーゴリトルストイなどの小説を取り上げたのをきっかけに、ロシア文学に興味を持ちます。
彼は、常に主席を占めるほどの語学力があったので、図書館からロシアの小説や文芸批評を借りて読みふけりました。
特に、ドストエフスキイの『罪と罰』を徹夜で読んだ時の感動は強烈だったそうです。
ドストエフスキイを原書で読んで感動できるほどのロシア語力とは、ただただ畏れ入ります。
ロシア文学を読むことによって得た「インテリゲンチャ」の魂は、彼が慣れ親しんだ漢学の教養と結び付きました。
この辺り、英文学と漢文の素養を併せ持っていた夏目漱石と大いに通じるところがありますね。
けれども、明治18年9月(この時代の高等教育機関は秋入学でした)、外国語学校は廃校となり、英独仏語科は大学予備門(現・東京大学教養学部)に吸収され、露清韓語科は東京商業学校(現・一橋大学)に吸収されてしまいます。
二葉亭は、このことに強く反発し、翌19年1月19日、東京商業学校に退学届を出しました。
その五日後、彼は『小説神髄』の疑問のページに付箋を付けて、坪内逍遥の自宅を訪ねます。
以来、坪内逍遥と幾度もの文学談義を重ねる中で、日本近代文学史上に燦然と輝く名作『浮雲』が生まれたのでした。
それから、『浮雲』については、『精選 日本文学史 改訂版』の脚注には次のようにあります。

明治二十(一八八七)年―二十二(一八八九)年。第一編は坪内雄蔵の名で刊行された。第三編で中絶。

これも少し補足すると、第一篇が坪内雄蔵(逍遥)の名で刊行されたのは、無名の青年の名前では出版出来なかったからです。
本作は「初の言文一致体小説」として大評判を得ましたが、これは、二葉亭が文語文をうまく綴れる自信がなかったことによる苦肉の策なのだとか。
完成までに3年の歳月を要したものの、二葉亭自身が作品の出来栄えに納得が行かず、未完のまま放棄されました。
ついでに、「言文一致」については、『精選 日本文学史 改訂版』の脚注には次のようにあります。

話し言葉のとおりに文章を書くこと。二葉亭は「だ」調、美妙が「です」調、尾崎紅葉が「である」調を中心に試みた。

これは、高校の国語の授業で覚えさせられました。
しかし、「二葉亭が『だ』調」とか、そんなことを丸暗記しても、何の意味もありません。
それよりは、作品を読む方が余程大事だと思います。
浮雲』のあらすじについては、『はじめて学ぶ日本文学史』(ミネルヴァ書房)に一番詳しくまとめられているので、引いてみましょう。

下級官吏の内海文三が、叔父夫婦も認めていたお勢との恋仲を、人員整理による失職で、世渡り上手の同僚本田昇に奪われる恰好になる。お勢も「軽躁者」の本性をあらわし、文三の忠告を容れず昇についている。出ていけがしの母親お政や無定見な父親孫兵衛ともども、お勢一家の醜を目の前に、悶々とする文三を描いて作品は中絶しているが、個を圧殺する明治体制の歪みや、新旧思想の対立、疎外されるインテリの苦悩など、近代小説が捕捉すべき問題をとらえて、その嚆矢とされる歴史的評価を得た。前近代的な社会と自己の内面との相克を生きる知識人の造型は、懐疑派二葉亭の生涯とオーバーラップして関心を呼ぶが、ロシア文学に学んだ言文一致体の成功もあって、その後の文学界に大きな影響を残した。

本作のテーマは「人間は社会で生きてゆくためには、卑賤でなければならないのか」。
若いうちに読んでおくべきでしょう。
僕は中年に差し掛かってから、新潮文庫版と岩波文庫版で2回ずつ、計4回読みましたが、もっと早く読んでおけば良かったと後悔しました。
小説神髄』と違って、言文一致(つまり、口語体)なので、普通に読めます。
初めのうちこそ、江戸の戯作文学の名残りか、講談調の文体が強く残っていますが。
第三篇になると、言文一致は完成されていて、後の近代小説と同じトーンです。
本作は、言文一致体もさることながら、不器用な文三、世渡り巧みな本田、口うるさい叔母、進歩的なお勢というキャラクターが実に生き生きと描かれています。
セリフが本当にリアルで、ぐいぐいと読み手を引き込むのです。
それと共に、文三のウジウジと悩む心理描写の素晴らしさ。
これはまごうことなき近代小説です。
未完に終わったのが残念でしたが。
現在、新刊書店で入手可能な文庫の『浮雲』は、新潮版と岩波版があります。
新潮文庫

浮雲 (新潮文庫)

浮雲 (新潮文庫)

初版は昭和26年。
この版の本文は新漢字・新かなづかいに改められており、また、平成23年に改版されて文字が大きくなったため、非常に読み易くなっています。
それから、現在の日本語にはない「白ゴマ(句点と読点の中間)」と呼ばれる句読点が使われているのですが、その一部は残されているようです。
さらに、30ページ以上に渡り、十川信介氏による詳細な注解が付けられています。
解説は、文芸評論家の桶谷秀昭氏。
巻末には年譜も添えられています。
岩波文庫
浮雲 (岩波文庫)

浮雲 (岩波文庫)

初版は2004年ですが、これは以前出されていたものの改版です。
新しい版なので、岩波文庫にしては珍しく、活字も大きく、ふりがなを多くするなど、読み易くするための様々な工夫がなされています。
漢字、かなづかいなどは基本的に現代のものに改められました。
しかし、日本近代文学の黎明期を飾る作品なので、できるだけ当時の表記を残すように配慮もされています。
カギカッコ、句読点、カタカナ表記などは原文のままです。
また、初出本文は句読点が非常に少ないので、読み易くするために、現在ならば句読点を打つべき箇所を1字分あけてあります。
本文には、初版の挿絵を織り込んでいて、いいですね。
趣のある画風です。
さらに、60ページ以上に及ぶ詳細な注が付いています。
当時の風俗が一目で分かるように、随所にイラストが挿入されており(これを見ると、明治の一般庶民の生活は、江戸期を強く引きずっています)、更に東京の地図まで掲載されていて、親切ですね。
巻末には、岩波文庫旧版の中村光夫氏による解説(昭和16年)が採録されています。
本版の解説は十川信介氏。
【参考文献】
詳説日本史B 改訂版 [日B309] 文部科学省検定済教科書 【81山川/日B309】笹山晴生佐藤信五味文彦・著(山川出版社
田村の〈本音で迫る文学史〉 (受験面白参考書)』田村秀行・著(大和書房)
精選日本文学史』(明治書院
はじめて学ぶ日本文学史 (シリーズ・日本の文学史)』榎本隆司・編著(ミネルヴァ書房