『バリー・リンドン』

あけましておめでとうございます。
本年も拙ブログをよろしくお願い申し上げます。
さて、新年初のブルーレイ鑑賞は『バリー・リンドン』。

1975年のイギリス映画。
監督は、僕の尊敬するスタンリー・キューブリック
主演は、ライアン・オニールとマリサ・べレンソン。
最初はロバート・レッドフォードが主演の予定だったらしいが、スケジュールが合わず、ライアン・オニールに回って来た。
今となっては、オニール以外のバリー・リンドンは考えられない。
まあ、息子に発砲したり、薬物で逮捕されたり、実生活も波乱に富んだ人だが。
バリー・リンドン』は僕のいちばん好きな映画である。
今までに何回見たかは分からない。
原作はウィリアム・メイクピース・サッカレー
サッカレーと言えば『虚栄の市』が有名で、本作については、映画公開に合わせて角川文庫から出た唯一の邦訳も絶版になっているくらいだから、文豪の目立たない作品と言ってもいいのだろう。
しかし、そんな陽の当たらない原作から映画史上の傑作を作り出したキューブリックは、やはり天才である。
この「映画史上最も美しい作品」を、ブルーレイの素晴らしい画質で、しかも、こんなに廉価で見られるとは、いい時代になったものだ。
ワーナーは当初、「『バリー・リンドン』をブルーレイで発売する予定はない」と豪語していたが、キューブリックのようなドル箱作家の、これほど著名な作品を出さないはずがない。
案の定、昨年の11月に『ロリータ』と一緒に発売された。
バリー・リンドン』は、キューブリックの徹底したこだわりで、18世紀のイギリスを完璧に再現した作品として名高い。
時計じかけのオレンジ』を完成させたキューブリックは、当初、『ナポレオン』を映画化する予定だった。
だが、クライマックスの戦闘シーンで5万人のエキストラと1万頭の馬を必要とする『ナポレオン』は、予算の都合で断念(アベル・ガンスの『ナポレオン』を「大したことない」と言い切ったキューブリックの『ナポレオン』を、是非観たかった)。
代わって、『バリー・リンドン』を製作したのである。
美術や衣装は当時の絵画を参考にし、ロウソクの光だけで室内を撮影出来るようにNASAが開発した世界に2本しかない大口径レンズを取り寄せた。
音楽は18世紀のクラシック音楽のみを使用(ただし、シューベルトの作品だけは、「18世紀の音楽にはロマンティックなものがない」というキューブリックの意向で、19世紀のものである)。
イギリスの光のにじむような風景を完璧な構図でとらえ、どのショットを切り取っても、1枚の作品になるほど絵になっている。
これらの甲斐あって、当然のようにアカデミー賞の撮影賞、美術監督賞、衣装デザイン賞、編曲賞を受賞した。
しかしながら、批評家は、完璧な外見に対して、内容が「退屈だ」と評した。
アカデミー賞も、作品賞、監督賞、脚色賞といった主要部門は、ノミネートされるも受賞を逃している(その辺は『カッコーの巣の上で』がさらって行った。そのせいか、後にミロス・フォアマンが『アマデウス』を撮る時に、本作で使用したレンズを貸してくれとキューブリックに依頼して、断られたとか)。
でも、僕には、本作は「人生の真実」を描いていると思える。
この作品は、キューブリックの映画の中で最も過小評価されているのだ。
本作の良さを分からない批評家は、感性が磨耗しているに違いない。
本作は一応「ピカレスク・ロマン」に分類されるらしい(『時計じかけのオレンジ』ともつながるか)が、バリー・リンドンは、しょせん「小悪党」に過ぎない。
誰もが感情移入をしたくなるような英雄でもなければ、とんでもない卑劣漢でもない。
大した人物ではないのだ。
そんな彼の半生を、感情を押し殺したような淡々としたナレーション(ナレーターのマイケル・ホーダーンはロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの出身だとか)で語られれば、確かに表面的には「退屈だ」と感じるかも知れない。
テーマ曲はヘンデルの「サラバンド」。

後に木村大作の映画『劒岳 点の記』なんかでも使われていたが、僕はこの曲を聴くと、やはり真っ先に『バリー・リンドン』を思い浮かべる。
主人公のレドモンド・バリー(ライアン・オニール)はアイルランドの田舎の青年。
女たらしで、ギャンブル好きで、剣の才能は多少あるが、ハッタリをかますことだけが得意で、流されるままに生きる。
【第1部】は、そんなバリーの「成り上がり」編(以下、ネタバレ注意)。
本作では、全編を通して「決闘」が重要なポイントとなる。
最初に、父親が決闘で殺害されるシーンから始まる。
若いバリーは従姉に恋をする(女たらしの彼も最初は奥手だった)。
この従姉が食わせ者で、イングランドの軍人と二股をかけていたので、バリーは彼に決闘を申し込む。
お互いの嫉妬ぶりの描写がいい。
そして、バリーがなかなかの反骨精神の持ち主であることが示される。
バリーの弾は見事に命中し、彼は故郷を追われることになる。
けれども、これは仕組まれた罠であり、バリーの弾は麻弾で、この軍人は死んでおらず、まんまとバリーの従姉と結婚したことが後に判る。
バリーは故郷からダブリンに向かう途中で追いはぎに遭って文無しになる。
仕方なく七年戦争の兵士補充に志願する。
図体はデカイが頭の悪い兵士との殴り合いに勝って、仲間から喝采を受ける。
このシーンはキューブリックお得意の手持ちカメラによる躍動感溢れる映像。
さすが、習作時代にボクシングの記録映画を撮っていただけある。
ここで、バリーの頭の良さ、身のこなしの軽さ、人当たりの良さなどが示される。
このまま進んで行けば、世間的にはなかなかの好人物になったかも知れない。
バリーはフランス軍との小さな戦いで、撃たれた上司を助ける。
この戦闘は、いつ見ても滑稽に思えるのだが、整列して発砲して来るフランス軍に向かって、イングランド軍は何もせずにただ行進するのみなのだ。
だから、みんな片っ端から撃たれる。
生き残ったバリーは、将校の服を盗んで脱走し、同盟国のプロイセンに渡る。
道中、夫が戦争に行っているとかいうドイツ人女性と一夜を共にする。
多少ドイツ語が飛び交う。
女たらしの面目躍如。
イングランド軍の将校に成りすまし、プロイセン軍の将校に対して見事なハッタリをかましまくったバリーだが、あえなく嘘がバレて、逮捕される。
結局、許しを得るために、プロイセン軍に従軍する羽目になる。
彼はまたも戦闘で上司を助けて、表彰される。
自分は大して勇敢に戦った訳でもないのに、後に彼は自分の息子に、何十人も斬りまくったと大袈裟に話すのだ。
軍から解放され、警察に入ったバリーは、シュバリエ・ド・バリバリという面白い名前の詐欺師の身の回りを探るように命じられる。
ところが、シュバリエが同郷人だったので、バリーは寝返り、二人で謀ってプロイセンから脱出する。
バリーは、なかなか目上の人に可愛がられるタイプである(取り入るのが上手い、とも言うが)。
成り上がるには、人との出会いを大切にしなければならない。
バリーとシュバリエは、イカサマ賭博によってヨーロッパ中で荒稼ぎする。
貴族なんて、偉そうにしていても、みんなギャンブルが好きだ。
そんな中で、バリーは病弱なチャールズ・リンドン伯爵の妻レディ・リンドン(マリサ・べレンソン)と恋に落ちる(と言えば聞こえはいいが、実際は「うまく垂らし込んだ」と言うべきか)。
マリサ・べレンソンは正に貴族の気品を体現したような大変な美貌である(実際に貴族の血筋をひいているのだとか)。
『ベニスに死す』にも出ていたな。
セリフは少ないが、「貴族の美しい妻」としては極めて説得力がある。
二人が恋に落ちる場面で流れるのが、シューベルトの「ピアノ三重奏曲」。

とてもロマンチックな曲で、この曲を選んだキューブリックの音楽センスはさすが天才のものである。
全編既存の曲を使っているのに、完全に物語と一体化している。
まるで、NHKの「名曲アルバム」のようだ。
で、うまい具合に病弱なリンドン伯爵は死に、バリーは後釜に収まることになる。
貴族も「死」には勝てない。
ここまでが【第1部】だ。
この後、【第2部】はバリーの「転落」編である。
タイトルによって、バリーに不幸が振りかかることは予め示される。
バリーは、レディ・リンドンと結婚してバリー・リンドンの称号を得る。
しかし、馬車の中でタバコの煙を吹かすバリーと、それを嫌がるレディ・リンドンの絵で、二人の間に早くも亀裂が入っていることが暗示される。
しかも、バリーの女遊びは結婚後も止むことがなかった。
レディ・リンドンは、その美貌と、貴族であることを除いては、何の取り柄もない女なのだ。
頭も弱いし、存在感もない。
だから、バリーにとっては単なる使い捨てのカモでしかない。
それでも、先夫との息子ブリンドン卿は、当然ながら、母親を垂らし込んだ成り上がり者をどうしても受け入れられない。
このブリンドン卿の子役の表情の演技が素晴らしい。
バリーを蔑む目付きの恐ろしさは、まるで『オーメン』のダミアンのよう。
余談だが、当時の貴族はフランス語を学んでいたようで、風呂の中でフランス文学の朗読を聴くレディ・リンドンが写し出される。
間もなく、夫婦の間に、ブライアンという男の子が生まれる。
バリーは故郷から母親を呼び寄せる。
母親はバリーが上流階級の仲間入りをしたことを喜ぶが、バリー自身が爵位を持っておらず、何をするにも妻の署名が必要な身であることを案じる。
バリーは爵位を手に入れる決意をし、有力な貴族を招いては盛大なパーティーを催したり、高価な絵画や芸術品を買いあさったりする。
素人のバリーが、分かりもしない絵画を前にして、「青の配色が絶妙ですね」などとのたまうのが笑える。
バリーの浪費によって、たちまちリンドン家の財産は食い尽くされ、日々舞い込む請求書に、レディ・リンドンはサインを繰り返す日々。
そんな母を気遣うブリンドン卿とバリーとの対立は、もはや止めようもない。
母親の再婚と、先夫の息子と現夫との対立という構図は、ちょっと『ハムレット』のよう。
ある日、公衆の面前での演奏会の席で、ブリンドンの挑発に乗ってバリーは彼を殴りつけてしまう。
ここは、キューブリックお得意の手持ちカメラによる動きのある映像。
バリーの社交界での評判は地に堕ち、人々は彼を避け、爵位を得ることは絶望的になる。
ちなみに、大人になったブリンドン卿の役者はイマイチ良くない。
だが、彼が貴族の血筋を持つ以外は何の取り柄もない人物であることを示すために、あえて選ばれたのかも知れない。
そして、バリーは、女たらしやイカサマ賭博やハッタリの身の上話で成り上がって来たのに、この「貴族でない」という一点で、絶対にブリンドン卿には勝てない。
その悔しさ。
バリーのわなわなと震える悔しさに満ちた怒りの表情は、キューブリック映画のいつもの狂気の目付きだ。
僕は平民の出だから、どんなにバリーがロクデナシでも、ここは彼にシンパシーを持つ。
キューブリックも平民の出身だから、この映画は「平民目線」で描かれている。
そこが、貴族出身のヴィスコンティとの違いだ。
話を元に戻そう。
さらに、不幸に追い打ちをかけるように、溺愛していた一人息子の幼いブライアンが、落馬事故で死んでしまう。
息絶える瞬間にも、涙ながらにかつての戦争の時のでっち上げの手柄話(いつも息子はそれを聴いて喜んでいた)をするバリー。
最愛の息子が死ぬ時まで嘘を吐き続けなければならないところが、彼のこれまでの生き方を象徴していて、「業」の深さを感じさせる。
バリーは絶望して酒に溺れる日々。
レディ・リンドンは半狂乱になり服毒自殺をはかるが未遂に終わる。
この時のマリサ・べレンソンの狂気の演技は、ちょっとイザベル・アジャーニを思い起こさせる。
夫婦が廃人同然となってしまい、リンドン家は今やバリーの母親が取り仕切っている。
彼女は、リンドン家お抱えの牧師までクビにしてしまった。
ブライアン卿は、名家をここまで落ちぶれさせたことに憤り、バリーに決闘を申し込む。
この決闘の場面の緊迫感は特筆に値する。
ヘンデルの「サラバンド」が低く流れる。
まず、先に撃つことになっていたブリンドン卿の銃が暴発する。
飛び立つハトの群れ。
これがいい。
本作は、動物をうまく使っている。
それはさておき、ブリンドン卿は、貴族ではあるが、所詮はお坊っちゃんである。
百戦錬磨のバリーに勝てる自信は全くなく、内心は怯えているのだ。
ブリンドンは緊張のあまり吐いてしまう。
バリーは、そんな彼を見て、情けをかけ、地面に向けて銃を放つ。
ところが、ブリンドンは納得しない。
再度体勢を立て直して放った弾は、見事バリーの左足に命中する。
バリーは左足を切断する羽目になり、毎年500ギニーの年金と引き換えに親子共々国外へ追放される。
片足のまま馬車に乗り込むバリーの背中でストップ・モーション。
場面は城に戻り、ブリンドン卿が母親の顔を静かに伺いながら、バリーへの年金の証書を差し出す。
無言でサインをするレディ・リンドン。
この、波乱万丈とも言えるし、よくありそうな話とも言えるバリーの半生を通して、キューブリックは一体何を言いたかったのか。
それは「エピローグ」に現れる「今となっては皆同じ」という言葉に集約される。
つまり、善人でも悪人でも、ハンサムでも醜くても、金持ちでも貧乏でも、人生なんて所詮はつまらないもので、死んでしまえばみんな同じなんですよ、というのである。
これこそ、人生の真実だろう。
この一言を言いたいがために、3時間を費やして、完璧に18世紀を再現した映像を見せるキューブリックは、やはり天才だと思うのである。
キューブリックと言えば、『博士の異常な愛情』『2001年宇宙の旅』『時計じかけのオレンジ』『シャイニング』といった、とんがった作品ばかりが話題になるが、こんな見事な大河ドラマも作っているのだ。
しかも、つぶさに見ると、まごうことなきキューブリックの映画である。
もっと評価されても然るべき作品であろう。
昔、実家で亡き母にこの映画を見せた時、どんな映画でも最後は居眠りしてしまう母が、何と3時間、眠らずに最後まで見たのだ。
そして、「スゴイ映画だ」と言った。
初公開時に「退屈だ」と本作をこき下ろした評論家よりも、僕の母の方が映画を見る目があるのではないだろうか。
【追記】
2015年4月1日、池袋の新文芸坐で『バリー・リンドン』を観た。
僕の一番好きな映画であるが、恥ずかしながら、これまで映画館で観たことはなかったのだ。
いやあ、素晴らしかった。
やはり、この作品の本当の良さは、大スクリーンでないと味わえない。