『バニシング・ポイント』

この週末は、ブルーレイで『バニシング・ポイント』を見た。

1971年のアメリカ映画。
監督はリチャード・C・サラフィアン
カーチェイス満載の、伝説のアメリカン・ニューシネマである。
僕は、タイトルこそ小学生の時から知っていたが、実際に見たのは今回が初めてだ。
ちなみに、我々の世代だと、カーチェイスと言えば『西部警察』かな。
バニシング・ポイント』は、友人が「ただひたすら車で走るだけの映画」と言っていたので、そのつもりで見たが、なかなかどうして、さりげなく人間ドラマの要素も盛り込まれている。
主人公のコワルスキー(バリー・ニューマン)は、新車の陸送の仕事をしている。
金曜の夜に、コロラド州デンバーからサンフランシスコへ、土曜の午後3時までに到着することができるかどうか掛けをする。
ここで、アメリカの地理に疎い我が家では、手元の地球儀を確認。
どうやら2000キロくらいは離れているようだ。
車のこともよく知らないが、本作の主役の疾走する車は、パワーアップされた型で、時速250キロくらいは出るらしい。
コワルスキーは寡黙だ。
自分のことは、ほとんど何も語らない。
しかし、自分が振り切った白バイの運転者が怪我をしていないか、いちいち車を止めて確認する辺り、本当は優しい人なのだということが分かる。
彼について、断片的な状況を重ね合わせると、人物像が見えてくる。
ベトナム戦争で怪我をして以来、戦争を憎んでいる。
警察官だったこともあるが、上司の不正を咎め、最後は逮捕されたこともあるようだ。
その後、プロのレーサーをしたが、大きな事故を起こしたこともある。
そして、恋人は自分の眼前の海で死んだ。
彼は、権力者を嫌っている。
さらに、自分の人生に、何らかの負い目を感じながら生きている。
警察を振り切って州を超え、ひたすら突っ走る彼の情報が地方のラジオ局に伝わる。
盲目の黒人DJスーパー・ソウルがコワルスキーのことを自分の番組の中で応援し始める。
アメリカ中にコワルスキーの話が伝播する。
彼以外の登場人物は、一癖も二癖もある変な奴らばかりだ。
怠惰な警官ども。
競争を挑んで来るスピード狂。
オカマの強盗。
ガラガラ蛇を捕まえるじいさん(このじいさんが、大変いい味を出している)。
気狂いじみた新興宗教の教祖。
ヤク中のバイク野郎。
全裸でバイクにまたがっている金髪の姉ちゃん。
コワルスキーを応援している人物は、みんな社会から見れば、はぐれ者だ。
けれども、どこか温かいのである。
ヤク中のバイク野郎は、コワルスキーに覚醒剤をくれた。
マリファナLSDは、アメリカン・ニューシネマでは常連だが、覚醒剤というのは珍しい。
徹夜で何十時間もひたすら走り続けているから、覚醒剤が必要なのだろう。
そもそも覚醒剤だって、かつては合法だったのだ。
昨今の日本においては、浪速のヒトラーこと橋の下によって、大昔から完全に合法であるタバコを職場で吸っただけでクビにするなどという、とんでもない人権無視の権力濫用が平然と行われている。
ああ、許し難き権力者め。
僕も国家権力は心の底から憎んでいる。
我々は断じて国家権力に立ち向かわなければならない。
原発を再稼動し、消費税を上げることしか考えていないドジョウの首なんぞ、とっととチョン切ってしまえ!
万国の労働者よ、団結せよ!
また話がそれてしまった。
とにかく、コワルスキーの権力者を憎む気持ちは一貫している。
それを見ている我々は、是が非でも彼を応援したくなる。
本作のヒットで、これを真似たカーチェイス映画が粗製乱造されたようだが、はたして、どこまで人間性を描けているだろうか。
語り草になった映画だけあって、車の疾走のスピード感がスゴイ。
いつも言うが、CGなど一切ない時代だ。
ドキュメンタリーのような映像で、車は広大なアメリカの大地を一瞬にして駆け抜ける。
この時代、映画はテレビをライバル視しており、ワイドスクリーンの特性を最大限に活かした引きのカメラアングルがいい。
ひたすらストイックにバニシング・ポイント(消失点)へ向かって走り続けるコワルスキー。
明日なき暴走の果てには何が待ち受けているのか。
まともな人間も、腐敗堕落した巨大な権力の前では、一匹の小さな虫けらに過ぎないのか。
答えは本作の中にある。
さすがアメリカン・ニューシネマだ。
見終わった後は誰でも、直ちにもう一度見返したくなるだろう。