『博士の異常な愛情』

この週末は、ブルーレイで『博士の異常な愛情』を見た。

1963年のイギリス・アメリカ映画。
監督は我らがスタンリー・キューブリック
核戦争の恐怖を描いたブラック・コメディである。
ソ連崩壊以降、全面核戦争の恐怖が遠のいたからか、最近はこのテーマの映画をとんと見なくなった。
しかしながら、超大国のみならず北朝鮮などの第三国までが核兵器を持つようになった現在では、核戦争が起こる可能性はむしろ高まっていると言えるかも知れない。
僕のような団塊ジュニア世代は、五島勉の『ノストラダムスの大予言』(稀代のトンデモ本)の洗礼をモロに受けて育ったので、幼い頃から、米ソの全面核戦争による人類滅亡の恐怖を心の底に植え付けられて来た。
核戦争の恐怖を描いた作品はたくさんある。
僕が小学生の時には、『ザ・デイ・アフター』というアメリカのテレビ映画が日本で劇場公開されて話題になった。
僕も観に行ったが。
被爆国である日本に住む我々の目から見れば、ちょっと描写が甘いと感じられる部分もあったが、核戦争の恐怖を、真面目に正面から描いていた。
しかしながら、『博士の異常な愛情』は、そういった作品とは一線を画している。
キューブリックは当初、真面目な映画を撮ろうと思ったらしいが、偶発的核戦争で人類が滅亡してしまうなんて、考えれば考えるほど「恐怖」を通り越して「笑い」しか残らなくなるとして、今あるようなコメディの形にした。
結果として、それが功を奏して高い評価を得ることになったのだが、日本では全く客が入らず、「観客動員の低さ」で記録を作って、それで有名になったとか。
当時、日本はオリンピックの真っ只中で、核戦争の映画なんて誰も観に行こうとしなかったらしい。
何かイベントがあったら、国を挙げて騒ぎまくる浮かれトンチキな国民性は、半世紀前も今と変わらなかったということか。
余談だが、本作の正式タイトルはもっと長くて(面倒なので書かないが)、当時は「映画史上最も長いタイトルの映画」として「ギネスブック」にも載ったらしい(後に、ウディ・アレンの何とかという映画に抜かれたとか)。
僕が初めてこの映画を観たのは、高校生の時だったと思う。
大阪・梅田の名画座で上映するというので、僕は初日の朝一番の回に行った。
着いたのは開場前で、僕の前に一人、オタクっぽい小太りな兄ちゃん(当時の僕からすればオッサン)が並んでいた。
なぜか彼が僕に話し掛けて来て、一緒に映画を観ることになった。
ガラガラの場内で、上映が始まってからも横から「この場面のキューブリックの意図はね…」などと色々能書きを垂れるので、正直なところ「面倒臭いなあ」と思った。
物語が進むに連れて静かになった。
ふと横を見ると、彼はヨダレを垂らして寝ていたので、僕は急いで席を移動した。
今となっては懐かしい思い出である。
で、最初に観た時は、核戦争という重いテーマをコメディにしてしまったことに、非常に違和感を感じた。
しかも、アメリカの笑いは、我々日本人の笑いとはかなりツボが違う。
『マッシュ』ほどふざけてはいないが、「不真面目だし、面白くもないし、何でこんな変な映画を作ったんだろう」と、若い頃の僕は思った。
その後も何回か見直しているが、基本的にはその認識は変わらなかった。
けれども、30歳を過ぎた辺りになると、だんだんとこの映画のスゴさが分かって来た。
映画自体は90分ちょっと。
主要な登場人物は数人しかいないし、余計な横道にそれることもなく、ストーリーはとてもシンプル。
でも、実際に核戦争が起きてしまう時は、本作で描かれるように、あれよあれよと言う間に進んでしまって、引き返せなくなるのではないか。
気の狂った将軍は、核攻撃命令を出す前に、まず部下のラジオを回収する。
下界からの情報を遮断するための基本だ。
B52のコクピットの中では、分厚いマニュアルに従って、二重三重に仕掛けられた安全装置を外して行く。
しかし、それを解除するための暗号は将軍一人が知っていて、しかも、将軍は自殺してしまうのである。
ようやく暗号が判明して、爆撃機を呼び戻すが、1機だけ、敵の迎撃ミサイルに通信機能を破壊されていて、連絡が取れず、そのまま敵の基地に向かってしまう。
ソ連が完成させた最終兵器は、一度核攻撃を受けたら自動的に報復し、人類を皆殺しにしてしまうという。
それも、誰にも止めることは出来ないというのだ。
「究極の抑止力」になるはずだったが、偶発的な事態の前では、どうしようもない。
アメリカの大統領はソ連の首相とホットラインで交渉するが、なすすべもなく、刻一刻と時間が過ぎ去って行く。
この期に及んで荒唐無稽な人類生き残りの方法を説く軍事顧問のストレンジラブ博士(ちなみに、本作のタイトルは正しくは『ストレンジラブ博士』であって、『博士の異常な愛情』は固有名詞を翻訳してしまっている)は、「バカと天才は紙一重」といった風情の、とても狂気めいた人物だ。
主演のピーター・セラーズは、天才的な演技で一人三役を演じている。
狂気の将軍を諌める実直なイギリス軍大佐、ハゲのアメリカ大統領、そして、タイトル・ロールのストレンジラブ博士。
3人とも特徴があって、知らなければ、とても同じ役者が演じ分けているようには見えない。
狂気の将軍(スターリング・ヘイドン)はジャック・リッパーという名前。
切り裂きジャック」である。
彼の「共産主義者の謀略説」を聞くと、当時のアメリカの軍人のソ連嫌いがよく分かる。
リッパーに劣らぬタカ派のタージドソン将軍を演じるのはジョージ・C・スコット
パットン大戦車軍団』もそうだが、彼は本当に軍人の役が似合う。
本作の将軍は、パットンよりもかなりコミカルだが。
カウボーイハットをかぶり、B52から水爆を落とすキングコング少佐も、かなりおかしい。
本作の舞台は、B52のコクピット内、基地、作戦室など、ごくわずかの狭い空間である。
ミニチュアのB52が、氷の海を背景に(もちろん合成)延々と飛ぶ以外は、室内のシーンばかり。
昨今の映画のように、CGを駆使した派手な戦闘シーンなどもちろんない。
基本的には、役者同士のセリフのやり取りで成り立っている作品だ。
それでも、こんなに緊迫感のある映画になる。
映画をダメにしてしまったものは一体何なのだろうか。