『ロビンソン・クルーソー』を原書で読む(第1回)

2014年6月21日から、『ロビンソン・クルーソー』を原書で読み始めました。

Robinson Crusoe (Penguin Classics)

Robinson Crusoe (Penguin Classics)

  • 作者:Defoe, Daniel
  • 発売日: 2003/05/01
  • メディア: ペーパーバック
ロビンソン・クルーソー』(1719)は、イギリスの作家ダニエル・デフォー(1660?〜1731)の代表作です。
出版事業が未だそれほど発達しておらず、本を読む者など極めて少なかった18世紀の英国でも、本作はそれなりに読まれていました。
夏目漱石の『文学評論(上)』に、「商人などの家にある書物といえば、聖書に賛美歌、それに時としては『ピルグリムス・プロッグレス』『ロビンソン・クルーソー』『パメラ』位である」とあります。
当時のベスト・セラーだと言えるでしょう。
ダニエル・デフォーについて
ダニエル・デフォーは、『ロビンソン・クルーソー』一作で英文学史上に名を残しています。
18世紀を代表する英文学者の一人です。
まず、『はじめて学ぶイギリス文学史』(ミネルヴァ書房)から、彼の略歴を引いてみましょう。

散文家、ジャーナリスト。ロンドンに生まれる。父は非国教徒(dissenter)の肉屋だった。デフォーは、はじめ商売をしていたが、政治に熱中しすぎて失敗し、世紀の変わる頃から著述に筆を染めるようになった。『レヴュー』(The review, 1704―13)紙を独力で編集、発行したり、さまざまな社会問題をとりあげたパンフレットを書いた。なかでも有名なのは「非国教徒処分の早道」("The Shortest Way with the Dissenters", 1702)である。この中で、デフォーは非国教徒を即時追放または処刑せよと叫んでいるが、その言いまわしが非常に巧妙であったため、世間ではそれを真に受けた。しかし、後になって実際は非国教徒に対する非道な仕打ちを風刺したものであることがわかり、彼はさらしものにされた。
デフォーに今日の名声を与えたのは『ロビンソン・クルーソー』である。アレグザンダー・セルカークの体験をもとに、微に入り細に入り書かれた物語には真に迫るものがある。こうした彼の特色は、統計を効果的に使った『疫病の年の記録』(A Journal of the Plague Year, 1722)や女賊モルの犯罪回顧録『モル・フランダーズ』(Moll Flanders, 1722)において、大いにその効果を発揮した。

夏目漱石は、『文学評論(下)』(岩波文庫)の中で、デフォーについて詳細に分析しています。
以下に、少し引用してみましょう。

そのうちでも最も崇高荘厳の反対極にあるものがデフォーである。デフォーの小説は気韻小説でもなければ、空想小説でもない、撥情小説でもなければ滑稽小説でもない。ただ労働小説である。どの頁を開けても汗の臭がする。しかも紋切り形に道徳的である。デフォーの小説はある意味において無理想現実主義の十八世紀を最下等の側面より代表するものである。

私がかつて知人から書翰を受取った事がある。見ると非常に美事な筆蹟で、如何にも床しい心持がした。けれども不幸にして、草体蜿蜒とでも評して好いのか、一向用向が解せなかった。やむをえず人の所へ馳せ付けて、読んでもらって漸く返事を出して済ました。デフォーの小説を読むと対照としてこの手紙の事を考えずにはいられない。彼はいくら美事でも解らぬ手紙はかかぬ男である。下手でも、拙でも旅館の勘定書のように明細にかく、必ず払の取れるように書く男である。活版より木版が雅で、木版より肉筆が妙だなどと余計な趣向を凝らさない男である。出来得べくんば、悉く一号活字で麗々とのべつに書きたがる男である。もし文章の一極端に詩と名づけるものがあって、反対の極端に散文というものが控えているならば、もし詩が道楽で散文が用事とすれば、もし詩が面白い座談で散文がさっさと片付けべき懸合事とすれば、デフォーは決して詩に触れない男である。触れ得べき性質を有していなかったのみならず、触れることを屑しとしなかった男である。否頭から詩を軽蔑した男である。

デフォーはこんな技巧をやっていない。長いものは長いなり、短かいものは短かいなりに書き放している。いくらぼんやりした遠景でも肉眼で見ている。度を合せないばかりではない、始から双眼鏡を用いようとしないのである。まことにまともなものであるが。悪くいえば智慧がない叙方といっても可い。厭味や気障は決して出ないが、器用とはいわれない。否心配して読者の便宜を計ってくれない書き振ともいえる。もしくは伸縮法を解せぬ、弾力性のない文章と評しても構わないだろう。汽車汽船は勿論人力車さえ工夫する手段を知らないで、どこまでも親譲りの二本足でのそのそ歩いて行く文章である。そこが散文である。散文とは車へも乗らず、馬へも乗らず、何らの才覚がなくって、唯地道に御拾いで御出になる文章をいうのである。これは決して悪口ではない。

どう読んでも、悪口ですが(漱石自身、最後に「あまり悪口をいったから」と認めています)。

デフォーは日常の事実以外に何事をも書かぬ人である。『ロビンソン・クルーソー』の如き漂流譚ですら車夫が車を引くような具合に書いてある。だから自然といえば尤も自然に近い作者である。それが長くて読みづらいのは、自然不自然の点から起ったのでない事は明らかである。全く構造の点から来たものと私は信じている。

デフォーの主人公は電鉄の軌道の如く一定不変の単調な態度を以て世相に対しているといわなければならない。デフォーは吾人をして如何なる事が起ったかを知らしめる手際を持っている。しかしこれ以外の態度はどうしても取る事の出来ない男である。吾人をして如何なる事が起ったかを見せしめたり、またこれを感ぜしめたりするようには決して出来ない。実着かも知れない。しかし無神経である。

デフォーは人間を時計の機関の如く心得て、この機関の運転を全く無神経なる、かつ獣的に無感覚なる筆を以て無遠慮に写して行く。索然として蠟を嚙むような気持のするのは勿論である。彼の目的は乾干びた事実である。その他には何の用事もない。普通の作家が四辺の光景を眼前に浮べるために苦心したり、あるいは感情を添えて人物を活動せしむるために労力を費したりするうちに、彼は何の苦もなく長篇を片付けてしまう。従って普通の人が、普通の頭で、普通の会話をやる時と同じ具合に戦争談もやれば難船談もやる。デフォーと普通の人とは筆で書くのと口でしゃべるとの違である。その上に彼は用事を処弁する気で小説をかいている。

写生文家がよく要らぬ事を並べる所がデフォーに似ている。けれども要らぬ事を並べたがる動機は大分違っているようである。写生文家は無頓着でならべるらしい。ええ構わない、それも書け、これも書けという風に遣るらしい。ところがデフォーのはそうでない、万事実用から割出して、損得を標準にしているように見える。(固より比喩の語である。)塵一本でも書き落しては勿体ないという下司張った根性から出る。先刻話したように大事な方面はいくらでも目を眠って、つまらぬ事を寄せ集める癖があるから、綿密で、周到で、探偵的であるけれども、如何にも下卑ている。

漱石は同書の中で、『ガリヴァー旅行記』のジョナサン・スウィフトのことは絶賛していますが、逆に、デフォーについては酷評しています。
それはさておき、『ロビンソン・クルーソー』は、言うまでもなく、冒険物語の傑作として、これまで世界中で愛読されて来ました。
若き日の新島襄も、本作を読んで冒険心をかき立てられたそうです。
新島襄』(岩波現代文庫)に、次のようにあります。

その友人は、貴重な書物をたくさん所有していて、新島につぎつぎと貸してくれたが、その中の一冊に、ダニエル・デフォー原著の『ロビンソン・クルーソー』を、オランダ語を通して日本語に重訳した『魯敏孫漂流記』があった。それは不完全な抄訳であったけれども、当時の新島の魂を、はげしく揺りうごかしたであろうことは、じゅうぶん想像できる。

新島襄は、アメリカに渡ってからも、『ロビンソン・クルーソー』を愛読しました。
再び、前述の『新島襄』からの引用です。

ボストン市内をあるいているうちに、新島が古本屋で『ロビンソン・クルーソー』を見つけ、テイラー船長からもらった小づかいで買い求めたというできごともあった。江戸に住んでいたころ、友人から借りて読んだ『魯敏遜漂行紀略』は抄訳であり、オランダ語からの重訳であったが、意味をとることに苦労はなかった。しかし今度は原書であり、英語の力が不足している上に英和辞典がそばにあるわけではなく、解読は困難であったが、しかし新島はその日から熱心に読み始めた。

ロビンソン・クルーソー』は、江利川春雄氏(和歌山大学教育学部教授)の『日本人は英語をどう学んできたか』(研究社)によると、「今日の文化相対主義やPC(Political Correctness)の視点から見れば、先住民の従僕化、英語のFridayへの改名、キリスト教の強制などの点で、この作品には重大な問題点が含まれている」ので、昨今では、教科書には採用されていません。
『英語の帝国』(講談社選書メチエ)によると、19世紀イギリスの歴史家・詩人・政治家であったトマス・バビントン・マコーリー(1800〜59)は、植民地インドでの英語教育で生徒・学生に推薦する「学校の読本」について、「少年には『ロビンソン・クルーソー』を与えなさい。これは世界中のレトリックや論理学の本より価値があります」と語っています。
また、好成績を上げた生徒への「褒美となる本」としても、『ロビンソン・クルーソー』を挙げました。
その理由は、次の通りです。

マコーリーにとって「学校の読本」は、「子供たちを引きつけ喜ばせるようなもの、西洋の文学への趣味を与えそうなものを調達しなくてはならなかった」し、「褒美となる本」は少年が喜んで受け取り、何度も何度も、勉強のためではなく自発的に読む本であるべきで、面白くて驚くような本であってしかるべきであった。

植民地の子供達に、「西洋文学への趣味」を与えるには、大変適当な題材だったということですね。
とは言え、イギリス小説の先駆けであり、英文学史上における地位は揺るぎないものがあります。
ですから、このような問題点を踏まえた上で、なお読む価値があるでしょう。
けれども、「少年版」を読んだ人は多くても、原作を通して読んだことがある人は、あまりいないのではないでしょうか。
まして、原書を読んだことがある人は、英文科出身でも少ないと思います。
テキストには、ペンギン版を選びました。
ペンギン版を選んだ理由は、この版が近所の図書館にもあり、また、大型書店の洋書コーナーにも普通に置かれていて、いちばん入手し易いからです。
旧制中学生の英語力
ロビンソン・クルーソー』は、かつては英語教材として大変よく読まれました。
先述の『日本人は英語をどう学んできたか』から引用します。

かくして、漂流冒険ものの代表格Robinson Crusoeは幕末明治期に相ついで翻訳出版され、英語教科書の定番教材にもなった。筆者らの「明治以降外国語教科書データベース」によれば、文部省検定済の副読本だけでも、Robinson Crusoeは1907(明治40)年から1943(昭和18)年までに14種も出版されている。これはイソップ物語ホーソンの伝記物語に次ぐ歴代3位。手許の英語リーダーを見ただけでも、20種類を超す教科書からロビンソンが顔を出した。

例えば、以前『朝日新聞』の記事で読んだのですが、昭和16年に旧制長崎中学(現・県立長崎東、長崎西高校)へ入学した人の回想によると、英語の授業では、2年生の1年間を費やして本作の原書を読破したそうです。
今ではちょっと信じられないようなレベルの高さですね。
ちょっと検証してみましょう。
英語教育史学者・伊村元道氏の『日本の英語教育200年』(大修館書店)によると、昭和6〜17年の中学2年の英語授業時間数は週5時間です。
このうち、全てが副読本の読解に充てられたとは考えにくいですから、仮に週2時間を使って読み進めたとしましょう。
ロビンソン・クルーソー』は、ペンギン版の細かい活字で約240ページもある長編です。
1年のうち、授業が行われるのが30週として、毎週8ページずつ、1時間(50分授業)に4ページは進む計算になります。
昨今では、英文科の原書講読の授業でも、こんなに早くは進まないでしょう。
僕自身の学生時代の記憶を紐解いても、ペンギン版よりも1ページ当たりの語数が遥かに少ない研究社小英文叢書を、ただ訳読するだけでも、1コマ(90分)にせいぜい5ページ位しか進みませんでした。
基本的な英文法を習得済みの(はずの)大学生よりも早いペースで、文法を習っている途中の中学生が原書を読んでいたなんて。
僕が学生だった頃、早稲田の英文科では、3年生の専門科目で『ロビンソン・クルーソー』の講読が行われていました。
旧制中学の英語教育は、現在の大学英文科レベルだったということです。
ただ、実際に原文を読んでみると、「これを中学生が読んでいたというのは本当だろうか」という疑問が湧いて来ます。
伝説の英語教師と呼ばれる田中菊雄氏は、(旧制)中学1、2年生が課外で読むべき作品の一つとして『ロビンソン・クルーソー』を挙げていますが、「なるべく少年向きにeasifyした版を選ぶべきである」と注を付けていました。
「なるべく」とあるので、やはり中学生が原文を読むのは難しいと考えられていたということですね。
江利川春雄氏の『英語教科書は〈戦争〉をどう教えてきたか』(研究社)には、戦前の検定教科書の教材として使われていた『ロビンソン・クルーソー』の英文が掲載されています。
これは、デフォーの原文ではありません。
元々は、舶来の『スウィントン第三読本』に載っていた文章で、それが日本の中学校(2年生、4年生)や高等女学校(3年生)の教科書にも、そのまま使われました。
『スウィントン第三読本』は、アメリカの小学生向けの国語(英語)教科書です。
また、先述の『英語の帝国』には、「植民地の臣民が外国語としての英語を習得するにあたり、その手助けとなるようブリテンの出版社が平易な言葉で書かれた読み物を出版し始めた時、最初に出版されたのが他ならぬ、この『ロビンソン・クルーソー』だった」ともあります。
おそらく、ここで扱われている主題が植民地というコンテクストに適切であると考えられたからでしょう。
このようにして、『ロビンソン・クルーソー』は、世界中に広まって行きました。
そもそも、『ロビンソン・クルーソー』は大人向けに書かれた作品です。
日本に置き換えて考えてみても、小学校の国語教科書に、大人向けの小説をそのまま載せたりはしないでしょう。
「大正後期における旧制高校の英語教科書について」という資料によると、大正初期の旧制第七高等学校(現・鹿児島大学)の英語教科書として『ロビンソン・クルーソー』が挙げられているので、当時の全ての中学生が本作を原書で読んでいた訳ではないようです。
ちなみに、南雲堂英和対訳学生文庫の『ロビンソン漂流記』(1953年)の「まえがき」には、「本書の英文は、勿論デフォーの原文ではない」とあります。
このシリーズは、おそらく高校生向けと考えられるので、戦後すぐの高校生には、デフォーの原文を読むのは難しいと考えられていたのでしょう。
なお、同じシリーズの『シェイクスピア物語』には、ラムの原文が掲載されています。
シェイクスピア物語』も、戦前の中学や高校で英語の教科書として、よく読まれた作品です。
『予備校の英語』(研究社)によると、あの伊藤和夫先生(元・駿台予備学校英語科主任)も、旧制第一高等学校(現・東京大学)の英語の授業で読んだとあります。
ロビンソン・クルーソー』の原文は、『シェイクスピア物語』よりも難しいということでしょうか。
ところで、手元にある4冊の「チャート式」シリーズ(数研出版)によると、現行の英語の学習課程では、関係代名詞が出て来るのは中学3年、仮定法や過去完了、その他ちょっとした基本構文になると、高校で初めて習います。
このような状況では、文の修飾関係が複雑な文学作品を、今の中学生が原書で読むのは困難でしょう。
受験評論家・和田秀樹氏の『学校に頼らない和田式・中高一貫カリキュラム』(新評論)によると、私立の中高一貫校では、公立中学の1.5倍くらいの授業時間を費やして、中2までに中学3年間の英語の範囲を終えてしまうそうです。
そうして、中3で、公立なら高1で履修する英文法の範囲を終えたとしても、自力で辞書を引きながら原書を読めるのは、高校生になってからではないでしょうか。
それも、「1時間に4ページ」というようなペースでは到底無理でしょう。
僕は中学3年生の時、ビートルズの「イエスタデイ」の歌詞を辞書を引きながら訳してみたことがあります。
情けないことに、「long for yesterday」を「僕は昨日のために長い」と訳してしまいました。
つまり、動詞と形容詞の区別も付いていなかったのです。
その辺の中学生の英語力なんて、こんなもんですね。
僕の愛読書である『英語教師 夏目漱石』(新潮選書)によると、漱石愛媛県尋常中学校(現・愛媛県松山東高校)で4、5年生にアーヴィングの『スケッチブック』を教えた際、「訳ばかりでは不可ない、シンタツクスとグラムマーを解剖して、言葉の排列の末まで精細に検覈しなければならぬと云ふので、一時間に僅に三四行しか行かぬこともあつた」。
『スケッチブック』は、当時の中学校でよく使われた教材です。
現在の高校1、2年生に当たる中学4、5年生相手でも1時間に3、4行しか進まないのに、それよりも年下の(つまり、英語力の低い)中学2年生の授業で、原書を1時間に4ページ進むというのは、果たして可能でしょうか。
漱石は松山から熊本の第五高等学校(現・熊本大学)に移りましたが、ここでは前任校にいた時とは180度違う教え方をします。
教え子であった寺田虎彦の回想を、前述の『英語教師 夏目漱石』から引用してみましょう。

松山中学時代には非常に綿密な教へ方で逐字的解釈をされたさうであるが、自分等の場合には、それとは反対に寧ろ達意を主とする遣方であつた。先生が唯すら/\音読して行つて、さうして「どうだ、分つたか」、と云つた風であつた。

漱石は、自らの「中学改良策」という論文の中で、「上級にあつては未だ音読を済さゞる場所にても容易なる部分は之を読み翻訳の手数を費やさずして直ちに洋書を理解する力を養ふべし」と述べており、五高ではこれを実践したのです。
ところが、後に第一高等学校(現・東京大学)では、再び松山中学時代と同じように、単語の語源にこだわる教え方に戻ります。
それは何故か。
『英語教師 夏目漱石』によると、「恐らく、同時に教えていた大学生の英語力の低さが影響していたのだと思う」とのことです。
中学生よりも遥かにエリートで、英語の学力も高いはずの一高生でも、やはり一語一語にこだわりながら英文を解釈しなければなりませんでした。
果たして長崎中学の生徒は、本当にそんな猛烈な勢いで原書を読むことが出来たのでしょうか。
修猷館の英語教育 明治編』(海鳥社)によると、英語の授業に週10時間程度を充て、九州の中学の中でも突出していた福岡県尋常中学修猷館(現・福岡県立修猷館高校)でも、「講読の授業では1時間の読み進むペースは、上学年は半ページから1ページ」だったそうです。
そもそも、戦前の旧制中学では、どのような授業が行なわれていたのでしょうか。
先述の『日本の英語教育200年』に、旧制中学の英語の授業風景が載っているので、引用してみましょう。

鐘が鳴って生徒が教場に集まる。教師が教壇に現れて、生徒は礼をする。教師は出席簿を読む。生徒たちは互いに談笑したり、鉛筆を削ったり、書物やノートを出したりしている。
教師は『今日は何ページの何行目から』と言って、閻魔帳を見て一人の生徒を指名する。生徒は立ってreadingをする―どもりながら、一緒に読むべき単語と単語を切れ切れに離したり、あるいは切り離す単語をくっつけたり、発音を間違えたりしながらある分量を読む。何しろ意味が十分に分かっていないのだから無理もない。そしてそれを聞いているのは教師と少数の真面目な生徒だけで、他はやはりヒソヒソと話をしたり鉛筆を削ったりしている。厳格な先生ならば、そういう生徒を叱ったり、一方readingをしている生徒の読み方を訂正し、あるいはできる生徒に発音やaccentを尋ねたりするであろう。
しかしこのreadingなるものはたいていの場合、語句を音の流れや音のpatternとして取り扱うよりも、単語を単位とした分解的なもので、教師の訂正は単にreadingしている生徒に対した個人的なもので、しかもその生徒は後でしなければならぬ訳読に気を取られて、その訂正に大して注意しない。いわんや他の生徒たちも結局は訳が重要なので、試験も多くの場合訳さえ書ければよいのであるから、ほとんど注意を払わない。だから時間を食う割合に一向効果がない。また教師が無責任な呑気な人ならば、生徒のreadingに対して教師自身もあまり注意を払わず、結局それは生徒の訳す分量を決めるためのようなものとなってしまう。
やがて生徒の訳読が始まる。生徒は何とか語句に訳をつけて責任を免れればよいので、自分の言う事が結局どんなたわ言であろうと、教師に小言を食わないことを限度として、何とかお茶をにごす。他の生徒はどうせ後で先生が好い訳をつけてくれることは分かっているし、殊に訳をしている生徒が出来ない生徒ならば、そんな者の言うたわ言に耳をかしはしない。今どこをやっているかという事だけ分かっていれば、先の方の自分の当たりそうなところを見たり、また既にその準備が出来ているなら、次の時間の数学の問題でも考えるか、それともノートに先生の似顔でも描いている。
そこでいよいよ先生のreadingが始まる。しかし生徒の待っているのは先生のreadingではなくて訳である。大多数の生徒は十分に調べていないから、この先生の訳を筆記するのが、時間中の最も重要な仕事である。先生の訳がすむと次の生徒が当たって、また同じ事を繰り返す。かようにして生徒が耳にするもの、少なくとも注意して傾聴するものは、日本語である。英語は単に目によって漠然と認識され、訳読のヒントを得るための印として取り扱われるのみである。たとえ英語を耳から聞くにしても、それは印刷されたものを眼でたどっていながらのことであるから、音としてそれに注意を払わない。

僕は高校時代、京大文学部出身のI先生から英語を習いました。
I先生の授業は大変計算されたものでしたが、内容自体は上の引用と大きくは変わりません。
1時間の授業で進んだのは、リーダーの教科書が約20行程度でした。
「原書を1時間に4ページ」とは程遠いですね。
僕は戦前の中等学校(中学校、師範学校、実業学校)用の英語教科書(三省堂の『THE NEW KING'S CROWN READERS』)を持っていますが、その内容は、現在の高校英語教科書と大差ありません。
鳥飼玖美子氏(立教大学特任教授)の『戦後史の中の英語と私』(みすず書房)によると、「クラウン」全5巻の総語彙数は約6000語だそうです。
『日本の英語教育200年』によると、昭和26年の学習指導要領に定められた新語数は3300〜6800語(語数に幅があるのは、当時は生徒が就職するか進学するかによって授業が分かれていたからです)。
基本的に、旧制中学の授業内容は新制高校に引き継がれたと考えても良さそうです。
そもそも、戦前に旧制高校旧制専門学校の受験対策用としてベスト・セラーだった『新々英文解釈研究』(研究社)や『英文標準問題精講』、『英語基本単語集』(いずれも旺文社)等は、戦後、そのまま大学受験用として売り続けていたではありませんか。
なお、『ロビンソン・クルーソー』の原文に使われている語彙のレベルは、一昔前の大学入試+αです(とは言え、この「+α」の幅が広い)。
ここから考えても、中学2年生には相当ハードルが高そうですね。
『学習英文法を見直したい』(研究社)によると、戦前の中学校では、3、4年生で週1時間ずつ英文法の授業が配当されていたそうですが、これも今の高校におけるグラマーの授業と同じようなものでしょう。
旧制中学では、1年で英文法の範囲を全て終えて、2年生から原書を読んだとも思えません。
また、ネット上で発見した記事に、「先生の英語は既に中學時代に一エポックを劃されていた、というのはお家の近くにサンデースクールの外人の住宅があつて暇があるとそこへ遊びに行かれていたそうで、四年の時にはロビンソン・クルーソーの原書を完讀され、次いでトルストイの「復活」の英譯にも手を伸ばされたりして、五年には歴史等の授業も英語で筆記して人を驚ろかしたというほどのものである」というのもありました。
都立戸山高校の、ある英語の先生の回顧録です。
旧制中学の4年で『ロビンソン・クルーソー』の原書を完読したのが「一エポック」というのですから。
この先生は、英語が相当得意でいらっしゃったのでしょう。
中学卒業後は東京外語(現・東京外国語大学)の英語科に進まれたそうです。
東京外語の英語科に進学するほどの英語力を持った中学生が4年生で(個人で)読むくらいのレベルの原書を、2年生(全体)が授業で読破出来るはずがありません。
故に、旧制中学の英語の授業で、2年生が『ロビンソン・クルーソー』の原書を読んだというのは、「ウソである」というのが、僕の出した結論です(生徒が個人で読んだというのなら、話しは別ですが)。
おそらく、中学生向けに易しい英語でリライトされたものを読んだのでしょうが、それを「原書で読んだ」と記憶違いされているのでしょう(ご高齢でもありますし)。
それでも、戦後も本作は、1980年代半ばまでは英語教科書の定番教材であり続けました(もちろん、原文ではありません)。
なお、『英文標準問題精講』の練習問題には、本作の英文が原文のまま取り上げられています。
しかも、「今日では〜は誤用だと考えられている」という注釈付きです。
英文科の学生向けのテキストならともかく、受験参考書にこんなものを載せるとは、現在の感覚では信じられません。
まあ、それだけ昔は英文学に敬意が払われていたということなのでしょう。
実際、1970〜80年代くらいまでは、『英文標準問題精講』に載っているような文学作品から、大学入試に多数、出題があったようです。
ロビンソン・クルーソー』は、戦前には中学生が読んでいたくらいですから(たとえリライトされたものだとしても)、少なくとも、他の古典よりは読み易いはずですし。
翻訳について
さて、英文学作品を原書で読むに当たって重要なのは、翻訳のあるものを選ぶということです。
英文学の原書は難しいので、翻訳がなければ、分からないところがあった時に、確認する手段がありません。
僕の尊敬する伊藤和夫先生も、『伊藤和夫の英語学習法』(駿台文庫)の中で、「僕も修業中は、対訳本は使わなかったけれど、翻訳と原書を並べて、原書で分からなかったら翻訳を見る、つまり翻訳を辞書のように使う勉強はずいぶんやったよ」と仰っています。
翻訳を選ぶ際、『ロビンソン・クルーソー』のような有名な作品では複数の版が出ていることがありますが、その場合、なるべく新しいものを選択することです。
古い翻訳だと、日本語の意味を読み取るだけで一苦労、ということもあります。
また、新たに翻訳する人は先行訳を参照しているので、仮に前の訳に欠点があったとしても、それが改められている可能性が高いのです。
実際、河出文庫版の翻訳を担当した武田将明氏(東京大学大学院教授)は、同書の「解説」で、「また、『ロビンソン・クルーソー』にはすでに多くの訳があり、各社の文庫にも収められているが、可能なかぎり目を通し、参考にさせていただいた」と述べています。
『ロビンソン・クルーソー』には、少年版以外の翻訳は現在、主なものが5点(新潮、岩波、集英社、中公、河出の各文庫版)出ていますが、そのうち、前述の武田氏による河出文庫版(2011年9月発行)が最新なので、僕はこれを参照することにしました。

ロビンソン漂流記 (新潮文庫)

ロビンソン漂流記 (新潮文庫)

  • 作者:デフォー
  • 発売日: 1951/06/04
  • メディア: 文庫
ロビンソン・クルーソー〈上〉 (岩波文庫)

ロビンソン・クルーソー〈上〉 (岩波文庫)

  • 作者:デフォー
  • 発売日: 1967/10/16
  • メディア: 文庫
ロビンソン・クルーソー (河出文庫)

ロビンソン・クルーソー (河出文庫)

  • 作者:デフォー
  • 発売日: 2011/09/03
  • メディア: 文庫
武田氏は、同書での翻訳について、次のように述べています。

原書はいわゆる名文で書かれてはいない。文法はときおり雑になるし、語彙も繰り返しが多い。しかし、この粗さが読み手にとってほどよい速度を生み、長いエピソードも集中して一気に読まされてしまう。この特色を損なわず日本語に訳すのは簡単ではない。既訳のなかには、この雑然とした文章を整理して荘重な日本語にしたものもあれば、繰り返しの部分を大胆に省き、スッキリ明快に書き直したものもある。しかしわたしは、たとえばクルーソーの心乱れる様子を乱れがちな文章で味わってほしいし、彼の大胆な行動の前後で展開するクヨクヨ思い悩むところもじっくり読んでもらいたい。クルーソーの偉さと惨めさをともに余さず伝えられるよう、なるべく原文の特徴を尊重し、故意に文を飾ることも、無駄に見える箇所を省くことも避けた。

確かに、武田氏の訳は、省略もなく、ほぼ原文に忠実なようです(直訳に近いとも言えますが)。
従って、原書を読む際に参照するには、ちょうど良いでしょう。
なお、中公文庫版の「訳者あとがき」では、増田義郎氏は先行訳を次のように分析しています。

明治五年に出版された斎藤了庵訳『櫓敏遜全伝』以来、『ロビンソン・クルーソー』の邦訳は数多くあると思うが、本訳書を作るにあたって参照したのは、吉田健一、平野敬一、平井正穂、佐山栄太郎、小山東一、鈴木建三諸氏の訳である。吉田氏の訳はこみいった箇所を刈りこんで平明にしているので、完訳とはいえないかもしれないが、読みやすく、約二六万字を費やしている。これに対して平井訳は三三万字で、約七万字の差がある。これは、わかりやすい訳をつくろうとして、訳文をかなりふくらましているためと思われる。平野訳も約三三万字である。中間を行くのが鈴木訳(三一万字)、佐山訳(三一万字)で、小山訳は二八万字と少ないが、これは漢字をたくさん使っているせいだろう。以上のうちで、原文のスタイルをなるべく守ろうとし、しかも平明をこころがけた最良の訳は、佐山訳だと思うが、残念なことに現在絶版である。
拙訳は、原文の調子にしたがい、平易で読みやすい訳を心がけた。二九万字をやや下回っていると思う。

辞書・文法書などについて
それでは、どのように読み進めれば良いでしょうか。
よく、「速読か精読か」が問題になります。
もしも十分な英語力があり、一読して英文の意味が取れるという人なら、どんどん自分のペースで読んで行けばいいと思います。
でも、このブログのタイトルは『英文学をゼロから学ぶ』です。
僕のように中学生以下の英語力しかない人間が英文学の原書を読もうとする場合は、分からない箇所を地道に一つ一つ確認しながら進めるしかありません。
伊藤和夫先生は、「ゆっくり読んで分かる文章を練習によって速く読めるようにすることはできるが、ゆっくり読んでも分からない文章が速く読んだら分かるということはありえない」と仰っています。
精読するには当然、辞書を引きながら読むことになりますが、その際、斎藤兆史氏(東京大学大学院教授)が『英語達人塾』(中公新書)の中で勧めているように、単語ノートを作るのが良いと思います。
その方が記憶に残り易いからです。
辞書には『初級クラウン英和辞典』(三省堂)のような中学生用、『ライトハウス英和辞典』(研究社)のような高校生用等色々ありますが、英文学を原書で読むには、最低でも大学生・社会人用の中辞典が必要になります。

初級クラウン英和辞典

初級クラウン英和辞典

  • メディア: 単行本
ライトハウス英和辞典 第6版

ライトハウス英和辞典 第6版

  • 発売日: 2012/10/20
  • メディア: 単行本
昨今は、『ジーニアス英和辞典』(大修館書店)等が主流のようですが、中辞典でいちばん伝統があるのは、研究社の『新英和中辞典』(初版1967年)です。
ジーニアス英和辞典 第4版

ジーニアス英和辞典 第4版

  • 発売日: 2006/12/01
  • メディア: 単行本
新英和中辞典 [第7版] 並装

新英和中辞典 [第7版] 並装

  • 発売日: 2003/04/05
  • メディア: ペーパーバック
歴史のある辞書の方が、改訂される度に内容が良くなっている可能性が高いと思います。
『新英和中辞典』の収録語数は約10万語。
僕も高校生の頃から愛用しています。
『新英和中辞典』は、動詞の文型がはっきりと示されているのが特徴です。
とりわけ、誰もが分かったつもりになっている基本的な動詞には、たくさんの用法があり、自動詞か他動詞か、動詞の後に補語を取るか、二重目的語が来るか、that節が続くか、それともto不定詞かによって意味が違って来ます。
更に、動詞や名詞の後に、どんな前置詞が続くかも重要です。
普段あまり注意を払われない副詞や接続詞も、きちんと調べる必要があります。
僕は中学・高校時代、ロクに英語を勉強しなかったので、熟語や成句もほとんど頭に入っていません。
『新英和中辞典』は、豊富な例文を挙げながら、これらを説明しています。
余談ですが、僕は二浪したものの、第一志望の学部には3回とも落ちました。
それは、英語の語法にこだわっていなかったからだと思っています。
僕の第一志望学部は、長文全盛の90年代前半の私立文系において、珍しく文法・語法問題を大量に出題していました。
大門7題中、5題が文法問題という年もありました。
これが普通の文法問題集には載っていないような難しいものばかり。
そこで、僕は浪人中に通っていた駿台予備学校で、今やカリスマ人気講師となった竹岡広信先生に「こういう問題は、どうすれば解けるようになりますか」と尋ねました。
すると、「こんなの誰も出来ないから、長文で点を稼げ」と言われたのです。
でも、政経学部や法学部に受かる人たちは、こういう問題でも余裕で得点しています。
今から思えば、僕の辞書の引き方が悪かったんですね。
辞書の例文や用例までしっかりと読んで、一字一句ゆるがせにしない姿勢が必要でした。
何と言っても、文学部ですから。
前置詞一つで英文の意味が全く違ってしまうこともあります。
中辞典には、基本的な用法は網羅されているので。
こんな大事なことに、今頃になって僕はようやく気付いたのです。
研究社は伝統的に英文学に力を入れているので、同社の辞書は、原書を読むためには使い勝手が良いのではないでしょうか。
ただし、文学作品に使われている語彙には制限がありません。
僕の『新英和中辞典』には、『赤尾の豆単(中学用・高校用)』(旺文社)、『試験にでる英単語』(青春出版社)のみならず、『英検準1級 でる順パス単』『英検1級 でる順パス単』(いずれも旺文社)の見出し語に線を引いてあります。
けれども、『ロビンソン・クルーソー』には、英検1級レベルを越えるような単語も平気で出て来るのです。
それどころか、中辞典には載っていない単語すら出て来ます。
そういう場合には、プロの翻訳家にも愛用されている『リーダーズ英和辞典』(研究社)の登場です。
リーダーズ英和辞典 <第3版> [並装]

リーダーズ英和辞典 <第3版> [並装]

  • 発売日: 2012/08/25
  • メディア: 単行本
初版は1984年。
2012年9月に第3版が出ました。
収録項目数は28万(見出し語、派生語、準見出し、イディオムを含む)。
読むための情報に的を絞っているので、大辞典級の情報がコンパクトにまとまっています。
研究社の辞書は基本的な構成が共通しているので、『新英和中辞典』を持っている人には使い易いでしょう。
リーダーズ英和辞典』には、『リーダーズ・プラス』(研究社)という補遺版があります。
リーダーズ・プラス

リーダーズ・プラス

  • 発売日: 2000/03/01
  • メディア: 単行本
初版は1994年。
収録語数は19万語。
文学作品のタイトルや登場人物名等も詳細に載っているので、とても便利です。
時には、2冊の『リーダーズ』にも載っていない語彙や語義が出ていることもあります。
この2冊があれば、かなりの範囲をカバー出来ますが、それでも載っていない語については、『新英和大辞典』(研究社)を引いてみましょう。
新英和大辞典 第六版 ― 並装

新英和大辞典 第六版 ― 並装

  • 発売日: 2002/03/22
  • メディア: ハードカバー
これは、日本で最も伝統と権威のある英和辞典です(初版1927年)。
収録項目数は26万ですが、さすが「ITからシェイクスピアまで」を歌い文句にしているだけあって、これまで挙げた辞書には載っていない語でも見つかることがあります。
ロビンソン・クルーソー』なら、英和大辞典まであれば、固有名詞以外はほとんど間に合うのではないでしょうか。
このようにして、丹念に辞書を引きながら読んで行けば、難解な英文学と言えども、きっと理解することができるでしょう。
前述の江利川氏は、中学生の頃、英語の先生から「ジビキさえあれば、どんな英語もわかるんじゃ」と言われたそうです。
文法的なことで分からない点があれば、英文法の大家・江川泰一郎氏(元・東京学芸大学名誉教授)の『英文法解説』(金子書房)を参照すると良いでしょう。
英文法解説

英文法解説

ただ、ほとんどのことは辞書に書いてあるので、そんなに出番はないと思いますが。
本作の原文を読むには、文法的には概ね大学受験+αで事足ります。
確かに、現在では使わないような言い回しや、現在とは綴りの違う単語等も散見されますが。
ですから、上述のように、中学生が本作を原書で読むのは難しいと思いますが、受験を終えた大学生なら十分可能でしょう。
大学の語学授業について
もし、大学の一般教養の語学授業で本作を読むとしたら、どれくらいのペースが適切でしょうか。
『小学校での英語教育は必要ない』(慶應義塾大学出版会)の斎藤兆史氏の論によると、昨今は、コミュニケーション重視とやらで、中高生が学校でロクに英文法を教わらないため、大学で英語原書講読の授業を行うことは、ほとんど困難だそうです。
しかしながら、本来、それがまともな英語教育の姿でないことは言うまでもありません。
僕が学生だった頃には、未だ一般教養でも原書講読の授業はありました。
僕は学生時代、極めて不勉強だったために、情けないことに必修外国語8単位を全て再履修で取得したのですが、その時のことを思い出してみましょう。
研究社小英文叢書から出ている、クリストファー・イシャウッドの『さらばベルリン』を1年間掛けて読ませた先生がいました。
再履修を受けているのは、間違いなく英語が苦手な学生ばかりです。
それなのに、こんな難しい小説をテキストに使う先生の気が知れませんが。
授業では、先生が1段落程度音読した後に、学生に訳させるのですが、案の定、学生は誰も予習をして来ないので、当てられても全く訳せません。
分かるのは、「a」とか「the」とか、基本的な代名詞、動詞、前置詞くらいです。
だから、「その、えっと…何とかは、えっと…何とかによって、えっと…分かりません!」となってしまいます。
どこかの英会話学校のコマーシャルのように、「えっとはいらん! いらんちゅうねん!」と言いたくなりますね。
仕方なく、先生が単語の意味を与え、学生はそれをつなぎ合わせて、何とか訳文をでっち上げたのでした。
こんなやり方でも、1コマ(90分)で5〜6ページは進み、休講が多いことで名高い大学なのに、何と、1年間でテキストを全部終了したのです。
ただ、英語の苦手な学生に対して、こんな授業をしていても、ほとんど効果はありません。
学生は、中学・高校で基本的な英文法は終えて(いるはず)、入試にもパスしている(はずな)ので、それが実際の文章の中では、どのように使われているかを解説すべきです。
また、大学で読ませるテキストには、語数が制限されていた中学・高校の教科書と違い、難しい単語もたくさん登場します。
それらについて、学生に予め辞書で調べさせ(僕は出来ませんでしたが)、授業の中で説明しなければなりません。
僕が大学2年生の時、当時流行していた東京大学の英語テキスト『The Expanding Universe of English』を使った先生がいました。
底辺私立文系の学生に、東大のテキストをあてがうとは、狂気の沙汰ですが。
この先生は、構文解説などを適宜加えながら、授業を進められました。
でも、そのやり方では、1コマで半チャプター位しか進みませんでした。
このテキストは、一つのチャプターが約2000語で構成されています。
従って、東大はさておき、普通の大学なら、1コマに1000語くらいのペースが妥当ということでしょうか。
今は知りませんが、かつて、慶応の文学部が、1000語程度の長文(当時は、これが「超長文」とされた)を、辞書持ち込み可で、要約や和訳させる入試を行なっていました。
これは、大学入学後に必要な英語力を測るのに、正に適切な出題と言えるでしょう。
話しを『ロビンソン・クルーソー』に戻します。
本作のペンギン版の原書は、1ページの語数がおよそ500語です。
ですから、これをテキストにすれば、1コマで2ページずつ進むのが適当ということになります。
と言うことは、本文が240ページ程あるので、読破するには、5年くらい掛かってしまいますが。
分からない箇所を残しながら適当に進むより、辞書を徹底的に引き、疑問点を一つずつ潰しながら読む方が良いに決まっています。
苦手な者には、多読の前に精読です。
上述のように、かつて伊藤和夫先生も、そのように仰っていました。
にも関わらず、昨今の入試問題はどんどん長文化しています。
よく、「学校英語のような読み方では、英字新聞もペーパーバックも読むことが出来ない」などと言われますが、それは英語力が足りないからです。
僕も大学生になったばかりの時には、入試に合格したので、多少は英語力があるかも知れないと自惚れて、『ジャパン・タイムズ』を購読したことがあります。
けれども、全然歯が立たなくて、すぐに止めました。
大学入試レベルの語彙力では、到底英字新聞を読むには足りません。
英語力のない人は、自分がスラスラと英字新聞を読んでいる姿を夢想しますが、地道な努力抜きに英語力が着くはずはないのです。
聞き流すだけで英語が話せるようになる訳がないのと同様に。
上述のように、夏目漱石も、中学(旧制)では一語一句を揺るがせにしない授業を行ない、逆に高校(旧制)では、一語一語の意味にあまり拘らず、スラスラと読み流すような授業を行ないました。
現在の大衆化した大学生は一般に、エリートだった明治期の旧制中学生よりも英語力が低いに決まっています。
基礎力が着くまでは、まずは地道に辞書を引きつつ読むしかありません。
僕も、どれくらい掛かるか分かりませんが、頑張って『ロビンソン・クルーソー』を原書で読破したいと思います。
次回以降は、僕の単語ノートを公開しましょう。
【参考文献】
文学評論〈上〉 (岩波文庫)夏目漱石・著
文学評論〈下〉 (岩波文庫)夏目漱石・著
新島襄 (岩波現代文庫)和田洋一・著
日本人は英語をどう学んできたか 英語教育の社会文化史』江利川春雄・著(研究社)
英語の帝国 ある島国の言語の1500年史 (講談社選書メチエ)』平田雅博・著
日本の英語教育200年 (英語教育21世紀叢書)』伊村元道・著(大修館書店)
英語教科書は〈戦争〉をどう教えてきたか』江利川春雄・著(研究社)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeigakushi1969/1998/30/1998_30_93/_pdf」(大正後期における旧制高校の英語教科書について)
ロビンソン漂流記 (南雲堂英和対訳・学生文庫 67)』信定育二・訳注(南雲堂)
シェイクスピア物語(英和対訳) 1 (南雲堂英和対訳・学生文庫 73)』田代三千稔・訳
予備校の英語伊藤和夫・著(研究社)
チャート式基礎からの中学1年英語 (新学習指導要領準拠 チャート式基礎からの中学シリーズ)数研出版編集部・編(数研出版
チャート式基礎からの中学2年英語 (新学習指導要領準拠 チャート式基礎からの中学シリーズ)数研出版編集部・編(数研出版
チャート式基礎からの中学3年英語 (新学習指導要領準拠 チャート式基礎からの中学シリーズ)数研出版編集部・編(数研出版
基礎からの新々総合英語 (チャート式・シリーズ)』高橋潔、根岸雅史・共編(数研出版
[改訂新版]学校に頼らない 和田式・中高一貫カリキュラム : 東大・京大・医学部を目指す6年一貫校の中学生へ和田秀樹・著(新評論
英語教師 夏目漱石 (新潮選書)川島幸希・著
修猷館の英語教育 明治編』安部規子・著(海鳥社
戦後史の中の英語と私』鳥飼玖美子・著(みすず書房
新々英文解釈研究(復刻版)』山崎貞・著(研究社)
英文標準問題精講原仙作・著(旺文社)
英語基本単語集』赤尾好夫・編(旺文社)
学習英文法を見直したい大津由紀雄・編著(研究社)
伊藤和夫の英語学習法―大学入試 (駿台レクチャーシリーズ)伊藤和夫・著(駿台文庫)
英語達人塾 極めるための独習法指南 (中公新書)斎藤兆史・著
中学基本英単語1200』赤尾好夫・編(旺文社)
試験にでる英単語―実証データで重大箇所ズバリ公開 (青春新書)森一郎・著(青春出版社
【音声アプリ対応】英検準1級 でる順パス単 (旺文社英検書)』(旺文社)
【音声アプリ対応】英検1級でる順パス単 (旺文社英検書)』(旺文社)
小学校での英語教育は必要ない!大津由紀雄・編著(慶應義塾大学出版会)
さらばベルリン (研究社小英文叢書 (125))』佐野英一・解説注釈
The Expanding Universe of English東京大学教養学部英語教室・編(東京大学出版会