『サクリファイス』

お盆休みには、ブルーレイで『サクリファイス』を見た。

1986年のスウェーデン・イギリス・フランス映画。
監督は、『ストーカー』の巨匠アンドレイ・タルコフスキー
主演はエルランド・ヨセフソン。
お盆休みに2本連続でタルコフスキーの作品を見るのは、なかなかの苦行であった。
カラー、ワイド。
画質は良い。
バッハの宗教音楽で始まる。
舞台はスウェーデンのゴトランド島(しかし、はっきりと場所が示されている訳でもない)。
湖畔で枯れ木を植えるアレクサンデル(エルランド・ヨセフソン)。
彼は「美しい木だ。日本の生け花のようだ」と言う。
この構図は、確かに枯山水のように見えなくもない。
今日はアレクサンデルの50歳の誕生日。
傍にいるのは幼い息子。
アレクサンデルは彼に、修道僧が枯れ木に3年間、毎日水をやって、花が満開になったという昔話をする。
そこへ、郵便局員オットーが祝電を届けに来る。
そこには、「リチャード派」と「白痴派」があると書かれている。
どうやら、シェイクスピアドストエフスキーを指している様だ。
アレクサンデルは評論家であり、大学教授でもある。
彼は無神論者で、暗い顔をしている。
僕も完全な無神論者だが。
オットーはニーチェ永劫回帰について語る。
喉の手術をしたばかりの息子は口が聞けない。
本作のセリフは、とにかく観念的だ。
僕は昔、『ツァラトゥストラかく語りき』を読んだが、よく分からなかった。
延々と繰り広げられる哲学的な会話を、息子は全く聞いていない。
アレクサンデルは「Words, words, words」と、ハムレットのセリフを持ち出す。
「やっとハムレットが分かった」と。
息子の姿が見えなくなる。
突然、息子はアレクサンデルに頭突きを喰らわす。
倒れるアレクサンデル。
映像はものすごく美しい。
まるで絵画のようだ。
だが、セリフはさっぱり分からん。
モノクロで、廃墟と化した無人の街が一瞬写る。
誕生日ということで、アレクサンデルの家に家族や友人が集まって来る。
アレクサンデルは、友人である医者のヴィクトルから贈られたイコン画集をめくりながら、「素晴らしい」と。
アレクサンデルは、かつて舞台俳優で名を成した。
それに憧れて彼と結婚した妻のアデライデは、そのことを後悔している。
あと、家にはアレクサンデルの娘マルタと、小間使いのジュリア、召し使いのマリアがいる。
オットーは、自転車で17世紀のヨーロッパの大きな地図をプレゼントとして持って来る。
アレクサンデルが「高価だから」と固辞すると、犠牲がなければプレゼントではないとオットーが言う。
もう、とにかくアレクサンデルの観念的な独り語りがずっと続き、さっぱり話しが展開しない。
オットーは、第二次大戦中に息子が戦死した人をたくさん知っている等と語っていると、突然倒れる。
そこへ、震動と轟音。
未だ何事かは分からない。
白夜の戸外。
急に姿が見えなくなった息子を探していたアレクサンデルは、自宅そっくりの小さな模型の家を見付ける。
マリアは、それは(アレクサンデルの)息子が父の誕生日プレゼントとして作ったのだという。
息子は自宅の2階のベッドで眠っていた。
ラジオ(ブランドはJVC)が、何やら我が国が核攻撃を受けたが、パニックになるなというようなことを告げている。
アレクサンデルが階下に降りると、居間にあるテレビも非常事態を告げていて、家族みんながじっと見ている。
やがて、テレビ放送も停まる。
停電で家の中は真っ暗。
「私はこの瞬間を待っていた」と意味不明なことを言うアレクサンデル。
アデライデは取り乱し、「みんな何か言ってよ!」と英語で叫びながら、泣き崩れる。
息子は何事もなかったかのように眠っている。
ほぼ部屋の中の出来事なので、舞台を観ているようである。
医師であるヴィクトルは、アデライデに鎮静剤を打つ。
彼女は、これまでいつも自分の願望と逆のことをして来たと嘆く。
外も真っ暗。
電話もつながらない。
アデライデは眠っている息子を起こそうとするが、ユリアに止められる。
そりゃそうだろう。
子供にわざわざ怖い思いをさせる必要はないからな。
アレクサンデルは、ヴィクトルのカバンの中にピストルを見付ける。
その頃、隣室ではマルタが服を脱いでヴィクトルを誘っている。
何だろう?
みんなパニックに陥っているということか?
で、ここで、無神論者だったアレクサンデルが初めて神に祈る。
「家も子供も家族も言葉も捨てるので、愛する人々をお救い下さい」と。
これが「サクリファイス」ということか。
僕には宗教心がないので、さっぱり分からない。
いや、僕だけではない。
日本人のほとんどが理解出来ないだろう。
アマゾンのレビューなんかを見ると、皆さん、難しい言葉を使って色々なことを述べていらっしゃるので、スゴイなと思う。
この後の展開は、極めて荒唐無稽である。
僕には、信仰ではなくて、ただの精神異常にしか見えない。
まあ、オウム真理教を見れば分かるように、宗教は狂気と紙一重である。
いや、紙一重と言うより、狂気そのものである。
人間が作った神を、人間自身が信じて崇拝しているのだから。
僕は日本人なので、核戦争と信仰なら、核戦争の方が重大事だと思うが、キリスト教圏の人は違うらしい。
本作は完全な宗教映画である。
しかも、キリスト教の。
仮に日本人で宗教を信じている人でも、クリスチャンじゃないと本当のところは分からないのではないか。
最後に奇跡が起こるしね(ネタバレ)。
タルコフスキーが日本びいきだというのは分かった。
最初に植えた枯れ木だけでなく、ラジオはJVCだし、和服のような服をアレクサンデルが着ているし、彼も息子も「日本が大好きだ」とはっきり言及される。
音楽は尺八を使った邦楽だし、最後の家が炎上するシーンは、黒澤の『乱』みたいだ。
実際、タルコフスキーは黒澤を尊敬していたらしい。
まあ、映像が芸術的に美しいのは認める。
しかし、信仰というのは、自分が救われるためのものではないのか。
その信仰のために、自分を犠牲にするのは、本末転倒ではないのか。
こう思う僕には、この映画を理解することは、未来永劫、不可能だろう。
カンヌの審査員は全員、クリスチャンなんだろうな。
だから、心の底から感動したんだろう。
カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリ受賞。