イギリス文学史I(第2回)『ベーオウルフ』(その1)

イギリス文学の起源
今回から、イギリス文学の歴史を具体的に見て行きましょう。
まずは、イギリス文学の起源について、『はじめて学ぶイギリス文学史』(ミネルヴァ書房)から引用します。

イギリス文学について語るとき、しばしば問題とされるのは、その起源をどこにおくかという点である。12世紀以前のものは、今日の文学と比べて、表現形式においてのみならず内容的にも大いに異なっているからだ。そのため従来は、これらをアングロ・サクソン文学として、イギリス文学とは区別することがおこなわれてきた。しかし、今ではイギリスの地で生まれた文学という意味で、この時代の作品を古英語(Old English)の文学と呼び、イギリス文学の発祥をここに求めるのが普通である。

『イギリス文学の歴史』(開拓社)によると、英語史の区分で、古英語の時代というのは、おおよそ紀元700年から1100年頃までになります。
古英語は、後の中英語(1100〜1500年頃)や近代英語(1500年頃〜現代)と比べて、文字や文法体系が明らかに違うので、まるで別の言語のようです。
大学の英文科でも、古英語という科目が設置されている大学は少なく、仮に設置されていても、選択する学生は滅多にいません。
僕の在籍した大学でも、古英語の授業はありましたが、果たして受講者がいたのかは謎です(もちろん、僕も選択していません)。
『ベーオウルフ』について
古英語で書かれた文学の代表的なものとして、『ベーオウルフ』(作者不詳)があります。
現存する英文学の中では最古の作品の一つです。
一般には、8世紀に成立したとされているので、偶然ですが、日本では、『古事記』や『日本書紀』が生まれた頃ですね。
では、『ベーオウルフ』について簡潔にまとめられた箇所を、再び『はじめて学ぶイギリス文学史』から引いてみましょう。

一国の文学の歴史は通常、詩からはじまる。古英語で書かれた文学の代表的なものは、英雄叙事詩『ベオウルフ』(Beowulf)である。その舞台がイギリスでなくスカンジナヴィアにおかれているのは、アングロ・サクソンの故郷だからであろう。物語は単純、豪快である。第1部で怪物グレンデルに悩まされる隣国を救ったベオウルフが、第2部では50年後自国を脅かす龍と戦ってこれをしとめたものの、自らも力尽きて倒れるというものである。
ここにある素材は明らかに異教的なものであるが、その想念にはキリスト教が深くかかわっている。『ベオウルフ』は個人の作というより、長い年月の間に人々の間で言い継がれ、歌い継がれてきたものの集大成とみるべきであろう。現在大英図書館所蔵の写本は10世紀のものであるが、実際の制作年代は7、8世紀とみられている。3,000行にあまるこの大作において、古英詩の特色とされる、強弱のストレスと頭韻を用いた素朴な調べが、荘重で深い悲哀にあふれた内容とよく調和している。

ちなみに、叙事詩については、『イギリス文学の歴史』の中に、分かり易い記述があります。

叙事詩(epic)
長い物語詩の一種で、崇高荘重な韻文によって、歴史や伝説に現われる神々や英雄的人物の行為・行績を扱う長詩である。元来epicは、原始的起源を有するもので、たえず口伝(くでん)による変更を受けながら伝承されて、次第に増大し、ついに叙事詩形式として凝固したものである。epicには2種類がある。(1)原始的叙事詩:(例)ホーマーの『イリアッド』、『オディセ』や『ベイオウルフ』など、(2)文学的叙事詩:(例)ミルトンの『失楽園』など。

『ベーオウルフ』の語り口は、事件が必ずしも時系列に沿って語られる訳ではありません。
更に、事件・人物についての叙述・描写は「選択的」「省略的」であり、飛躍に富むので、現代の読者にとっては、かなり分かり難いです。
そのような点を考慮して、岩波文庫版の『ベーオウルフ』には、「まえがき」に梗概が掲げられています(以下、引用)。

 〔第一部〕
(前半) 武名並ぶ者のないデネ(デンマーク人)の王フロースガールは、ある時、人の子らの聞いたためしのない豪壮な宮殿を造営しようと思い立った。やがて宮殿が落成すると、ヘオロット(「牡鹿」の意)と名づけ、それを祝って連日連夜の祝宴を催す。ところが、弟殺しの罪で神に追われたカインの末裔として人里離れた曠野に棲むグレンデルという名の巨人が、祝宴のさんざめきに怒りを発し、ある晩、館の警固の家臣らが寝静まった頃に襲ってきて、三十名の家臣を殺す。さしもの宮殿も夜の帷が下りるや誰一人泊ることもなくなり、十二年の歳月が過ぎる。そういう噂を、イェーアト族(スウェーデン南部に住んでいた部族)のヒイェラーク王の甥である若い勇士ベーオウルフが伝え聞き、十四人の従士を率いて海を渡り、救援におもむく。神の御加護によって無事に船旅を終え、上陸した一行に、岸壁上で海岸警備にあたっていた衛士が馬を駆って近づき、その身許と来島のおもむきをただす。宮殿に案内された一行を、フロースガール王は、かつてベーオウルフの父親を助けた縁もあって、大いに歓迎し、宴席をもうける。やがて宴がはねると、ベーオウルフらは館の警固にあたることになる。夜も更けた頃、つねのごとくグレンデルが襲来し、ベーオウルフの従士の一人を啖い、次いでベーオウルフに摑みかかろうとする。眠ったふりをしていたベーオウルフはがばと跳ね起き、怪物と一騎打ちになる。勇士はついに怪物の片腕をもぎ取り、敵は血をしたたらせながら荒地に逃れて行く。夜が明けて事の首尾を知ったフロースガール王は、ベーオウルフの武勇を称えて祝宴を催す。
(後半) その晩のこと、グレンデルの母なる女怪が息子の復讐のために襲来し、昔のとおり宮殿に詰めていたフロースガール王の寵臣をさらって行って食い殺す。王は大いに悲しみ、ふたたび怪物退治をベーオウルフに依頼する。王に案内されて怪物の住処である荒地の沼におもむいたベーオウルフは、従士らを岸に残してただ一人沼に躍りこむ。沼の底へと潜って行くうちに、それと知った女怪が迎え撃ち、水底の洞窟で格闘となる。鎖鐙のおかげで命びろいをした勇士は、壁に懸かっていた霊剣を手にして、かろうじて相手を斃し、床に倒れて死んでいたグレンデルの首級をあげて水面に浮び上がる。頭領の運命に絶望していた従士たちは大いに喜ぶ。フロースガール王はまたも祝宴を開き、ベーオウルフに向かって王者たるべき者の心得として、世の栄華に終りのあることを銘記し、心の傲りを自戒するよう教え諭す。大いに面目をほどこしたベーオウルフは褒賞を賜り、別れを惜しみつつデンマークを後にし、帰国するとヒイェラーク王にかの地での出来事の一部始終を報告する。
 〔第二部〕
ヒイェラーク王は遠征に出て討死する。そこで妃はベーオウルフを後継の王に推挙するが、彼は固辞し、幼い王子ヘアルドレードが即位する。しかし、彼もその後戦死する。ここにおいてやむなくベーオウルフは王位に就く。そして五十年が過ぎる。折しも、竜が番をしている、塚に収められた宝を荒した者があり、怒った竜は夜な夜な炎を吐いて人里を襲う。たまりかねたベーオウルフ王は、十一人の従士を率いて竜退治に向かう。人間の近づくのを知った竜は火を吐きながら襲ってくるが、従士らはそれに恐れをなして近くの森に逃げこむ。王は、ただ一人踏み留まったウィーイラーフとともに炎をかいくぐって竜に迫り、悪戦苦闘の末にこれを斃すが、自身も致命傷を負う。死期の迫るのを悟ったベーオウルフ王は、自分の亡き後は遺骸を荼毘に付し、後の世まで国民が自分のことを想い起こすように岬に大きな塚を築いて葬るようにと命ずる。そして、遺言どおりに築かれた塚をめぐって、十二人の貴公子は馬を駆りつつ、亡き王の高貴な心ばえと雄々しい勲を言葉をつくして称える。

要するに、ベーオウルフという名の勇者が巨人と闘って、その母親とも闘って、王になって、竜と戦って、自らも死ぬという話しです。
人間と巨人が闘うって、何か『進撃の巨人』みたいですね(読んだことがないので、詳しくは知りませんが)。
英文学なのに、どうして舞台がデンマークなのでしょうか。
それは、アングロ・サクソンの故郷だからかも知れません。
考えてみれば、『ハムレット』もデンマークでしたね。
余談ですが、夏目漱石の『吾輩は猫である』(1905)にも、『ベーオウルフ』について言及された部分があります。
『英文学者 夏目漱石』(松柏社)によると、漱石が学生の頃の東大英文科では、『ベーオウルフ』を読んだという記録はないようです。
文学史は学生が自修させられたとあるので、文学史の中に出て来て知ったのでしょう。
あるいは、漱石がイギリス留学中に、現代語訳を読んだのかも知れません。
さて、岩波文庫版の「解説」によると、『ベーオウルフ』は、大英図書館に所蔵されている「コットン・ヴィテリアス」という、ただ1本の写本によってのみ伝わっています。
かつてはサー・ロバート・ブルース・コットン(1571〜1631)という人の持ち物だったのが、国家に寄贈されました。
それが18世紀前半に火災に遭い、焼失を免れたものが現在残っているという訳です。
この写本は複合写本で、本来は全く別々の二つの写本を、17世紀にサー・ロバートが合本にしたと言われています。
前半部は12世紀の半ばに筆写されたもの(サジック本)、後半部は10世紀の終わり頃に筆写されたもの(ノーウェル本)です。
『ベーオウルフ』がいつ、どこで作られたかを示す外的証拠(この詩への言及を含む古英語期の文書等)は一つも存在しません。
現在伝わる写本は数回の筆写を経たものです。
その中に原本の年代と場所(方言)を示唆する語句が含まれているか(内的証拠)、古英詩の展開の中で本作がどの辺りに置かれるべきかという文学史的位置付け、本作のような詩を生み出した環境としてどの時代・地域を想定するのが適当であるかという文化的・歴史的背景等の点から、成立年代を検討しなくてはなりません。
『ベーオウルフ』は、英国最初の宗教詩人キャドモンの作品よりやや後に作られたに相違ないと考えられることから、成立の「上限」を一応8世紀の初頭と設定することが出来ます。
一方、8世紀末から9世紀初頭に詩作をしたキュネウルフの作品に『ベーオウルフ』の影響が認められることから、「下限」を9世紀初頭に置くことが出来るでしょう。
これらの事実に照らして、本作は8世紀に作られたとするのが、今のところ、最も妥当ではないかと訳者は述べています。
中英語期には、古英語はほとんど忘れ去られていましたが、近世に入って、学者達の目が古英語の写本に向けられるようになりました。
18世紀末頃に、アイスランドのソルケリンという人がイングランドに渡り、自らと助手の手によって、『ベーオウルフ』を転写します。
そして、彼は1815年に、最初の刊本を世に送りました。
『ベーオウルフ』には、神話的要素とキリスト教的主題が入り混じっています。
作者は、果たして本作を人々に道徳的教訓を与えるために作ったのか、それとも、聴衆に娯楽を与えるために作ったのか。
訳者は、基本的には後者だろうと述べています。
上述のように、本作における描写や叙述は省略的・選択的です。
作者は、人物・風景・事件等の特定の面のみを取り出して描いており、近代的な写実的描写法・叙述法とは全く異質だと言えるでしょう。
事件の叙述においては、しばしば飛躍があり、時系列にも必ずしも従っておらず、また、繰り返しも多くあります。
このような点から、現代人にとっては、本作は非常に取っ付き難いのですが、その反面、強い詩的効果を生んでもいるようです。
「解説」では、『ベーオウルフ』の「詩の技法」についても解説されていますが、これは原文を読んでみないと、日本語で説明されてもピンと来ません。
特に、「韻律」「頭韻」についてはそうです。
が、『イギリス文学史入門』(研究社)を参考に、ごく簡単に書くと、韻律は、弱音節と強音節の配置によってリズムを整え、各行に頭韻が配置されました。
頭韻とは、『イギリス文学の歴史』によると、「同じ行のいくつかの語が同じ音、もしくは同じ文字で始まる」ことです。
また、「ケニング(代称)」という古英詩に特徴的な表現方法があります。
これは、一つの名詞を幾つかの語で比喩的に表現する技法で、例えば、sea(海)をwhale-road(鯨の道)、sun(太陽)をworld-candle(世界のろうそく)と言ったりするのです。
テキストについて
ペンギン版(原文)
原文(古英語)のテキストで最も入手し易いのは、次のペンギン版でしょう。

Beowulf: Old English Edition (Penguin English Poets)

Beowulf: Old English Edition (Penguin English Poets)

アマゾンで注文すれば、数日でイギリスから送られて来ます。
初版は1995年。
編者はMichael Alexander氏。
見開きで、左ページに原文、右ページに語注というレイアウトになっていますが、古英語の知識のない一般人が、本書だけで内容を理解することは不可能です。
そのため、現代英語版を参照する必要がありますが、こちらも入手し易いのは、僕の近所の調布市立図書館にも置いてあるペンギン版。
ペンギン版(現代英語)
Beowulf: A Verse Translation (Penguin Classics)

Beowulf: A Verse Translation (Penguin Classics)

初版は1973年。
現在の改訂版が出たのは2003年。
訳者は、上のオリジナル版の編者でもあるMichael Alexander氏。
現代英語なので、辞書さえあれば読めますが、韻文にするためか、原文と微妙に表現が違う箇所が散見されるので、注意が必要です。
また、現代英語とは言っても、原文の雰囲気を出すためか、妙に格調高くて、難しいような気がします。
とは言っても、一般人が読めるのは、こちらしかないのですが。
翻訳について
最終的に、一番頼りになるのは、やはり翻訳(日本語訳)版でしょう。
岩波文庫
手に取り易い文庫版は、岩波から出ています。
ベーオウルフ―中世イギリス英雄叙事詩 (岩波文庫)

ベーオウルフ―中世イギリス英雄叙事詩 (岩波文庫)

現在は品切れのようですが、絶版になった訳ではないので、重版が掛かるのを待ちましょう。
初版は1990年。
翻訳は忍足欣四郎氏。
こちらも、古風な訳文なので、かなり読みにくいです。
訳者は、学問的な厳密さよりも、「作品」としての『ベーオウルフ』を一般読者に提供したかったと述べています。
各節毎に、最初に「あらすじ」がまとめられているので、分かり易くて、良いですね。
そして、本文の行数が下に記されています。
ただ、訳者によると、原文と訳の行は必ずしも一致している訳ではなく、日本語として読み易くなるよう配慮したとのことです。
あくまで目安に過ぎません。
「訳注」は20ページ以上に渡って、作品の「構造と意味」についての理解を助けるものを中心としており、なかなか詳細です。
原語の綴りが記されているのが、大いに参考になります。
それから、巻末の「解説」は、本作について必要な情報がコンパクトにまとめられているので、必読です。
映画化作品について
更に、手っ取り早く内容を把握するには、映画化作品を見るという方法もあります。
ただし、映画には解釈が含まれているので、必ずしも原作通りとは限らないことに注意が必要です。
ロバート・ゼメキス監督作品
『ベーオウルフ』の映画化で最もポピュラーなのは、次の作品でしょう。
ベオウルフ/呪われし勇者 ディレクターズ・カット版 [Blu-ray]

ベオウルフ/呪われし勇者 ディレクターズ・カット版 [Blu-ray]

2007年のイギリス・アメリカ合作映画。
監督はロバート・ゼメキス
主演はレイ・ウィンストン
共演は、アンソニー・ホプキンスジョン・マルコヴィッチアンジェリーナ・ジョリー等。
結論から言うと、本作は、あの古典の『ベーオウルフ』とは全くの別物です。
素材だけ借りて、勝手に料理したような感じ。
シェイクスピア作品は勝手にセリフをいじれませんが、セリフの少ない『ベーオウルフ』ならいいだろう、みたいな。
確かに、古典をそのまま映画化しても、現代の観客には退屈なのかも知れませんし、また、そもそも荒唐無稽な物語ではありますが。
それにしても、これはヒドイ。
本作は、全編フルCGで作られているため、まるでゲームの映像を見ているようで、古典の風格など皆無です。
せっかく有名な俳優をたくさん出しているのに、単なるCGのモデルでしかありません。
ストーリーも、かなり大雑把には同じようなものですが。
勝手に現代的な解釈(?)を施して、主人公のべオウルフは訳ありの勇者になってしまっているし、色恋沙汰も出て来ます。
原作は、異教の時代の物語のはずなのに、やたらキリスト教が絡んで来たり。
時代考証も適当なようなので、原作の理解を深める目的で本作を見るのは止めましょう。
グレアム・ベイカー監督作品
続いては、ちょっと変わり種の映画を。1998年のイギリス映画。
監督はグレアム・ベイカー。
主演はクリストファー・ランバート
『ベーオウルフ』を、舞台を未来に移して描いたSFアクションということで、既に原作とは全く別物です。
同じなのは、主人公の名前と、彼が砦を襲う怪物と闘い、次に、その母親と闘うということだけ。
上のロバート・ゼメキス版以上にお色気設定も交えてあります。
まあ、普通にB級SFアクション映画として見る分にはいいのでしょうが。
こうでもしないと、古典は現代人には退屈なんですかねえ。
と言う訳で、英文科の学生は、本作を見てレポートを書かないように。
【参考文献】
はじめて学ぶイギリス文学史神山妙子・編著(ミネルヴァ書房
イギリス文学の歴史』芹沢栄・著(開拓社)
吾輩は猫である (岩波文庫)夏目漱石・著
英文学者 夏目漱石亀井俊介・著(松柏社
イギリス文学史入門 (英語・英米文学入門シリーズ)』川崎寿彦・著(研究社)