『時計じかけのオレンジ』

この週末は、『時計じかけのオレンジ』をブルーレイで見た。

時計じかけのオレンジ [Blu-ray]

時計じかけのオレンジ [Blu-ray]

1971年の作品である。
もはや説明不要な、巨匠スタンリー・キューブリックの大傑作。
キューブリックが好きな人は、概ね『2001年』派と『時計じかけ』派に分かれるのではないだろうか(ちなみに、僕は『バリー・リンドン』派)。
あまりに有名過ぎて、サブカル好きの人たちのバイブルみたいな扱いをされているのが、僕は少々気に入らない。
それから、この作品を好きであることが、いかにも「映画通」の証明であるかのように振る舞う人たちも。
これは、表面的な派手さの中に、もっと普遍的で、極めて真面目なテーマが盛り込まれた作品だ。
Tシャツにアレックスの顔を刷り込んで、ファッションにしている場合ではない。
この作品は、過激な暴力描写でも話題になった。
公開当時、『ゴッドファーザー』『ダーティハリー』『時計じかけのオレンジ』『わらの犬』は、まとめて「暴力映画」と呼ばれた。
それぞれ、全く趣が違う作品なのだが。
時計じかけのオレンジ』も賛否両論を巻き起こした。
アカデミー賞にも、作品賞を含め4部門でノミネートされたが、結局、無冠に終わった。
(ただし、ニューヨーク映画批評家協会賞の作品賞・監督賞を受賞している。)
キューブリックの作品は、常に時代の五十歩くらい先を行っているので、頭の固いアカデミー会員には、この映画の真の価値がわからなかったのだろう。
この作品は、本国イギリスでは、あまりの反響の大きさに身の危険を感じたキューブリックが上映を打ち切り、彼の死後まで再上映されることはなかった。
日本でも、長らくビデオ発売すらされず、幻の作品となっていた。
僕は、中学2年の時に、初めてアントニイ・バージェスの原作を読もうとして、挫折する。
どうやら、中学生には難し過ぎたようだ。
そして、高校2年の時に再挑戦し、あまりの面白さのため、一気に読んでしまう。
母にも薦め、彼女も衝撃を受けたようだ。
しかし、映画は見ることができず、「キューブリックはこんな難しい小説を、どう映画化したのだろう」と思っていた。
時は流れ、1991年、僕が浪人していた時に、公開から20年を経て、ついにビデオが発売される。
僕は、直ちに近所のレンタル屋で借りて見た。
スゴイ映画だった。
これほど完璧な映画化作品は見たことがない。
相違点は、主人公の少年たちの年齢が高いことくらい(これは、演じる俳優のことを考えると、止むを得ないだろう)。
でも、結果的に、マルコム・マクドウェルを主役に添えたのは大成功だった
彼は見事に主人公アレックスに成り切った(そして、もちろん彼の代表作になった)。
この作品は、世間で言われるような暴力礼賛映画ではない。
本作における暴力は、あくまで人間性の象徴に過ぎないのだ(ここは、妻をレイプされた実体験を基に原作を書いたバージェスの意図とは異なるかも知れないが)。
キューブリックの描く近未来社会は、戯画化されているが、今では現実になってしまった。
この映画で強く主張されているのは、「人間には自ら選択する能力がある」ということだ。
つまり、「人間を『時計じかけのオレンジ』にするな」と言っているのである。
本作の主人公アレックスは、暴力のため逮捕・投獄されるが、善悪を判断するのは、あくまで彼自身の問題だ。
国家権力によって強要されることではない。
アレックスは、政治的に対立する勢力の駒として利用される。
この辺り、自民党民主党も、どちらもズルイということが露呈してしまった現代の日本では、何と生々しいことか。
さらに、歌舞伎町の文化・風俗を片っ端から葬り去ることに血道を上げる東京の強権的な極右知事や、自分に従わない者は粛清すると叫んで大衆から喝采を浴びるタレント崩れの大阪市長などの存在を想起する時、正に本作で描かれた状況は予言としての説得力を持って我々に迫って来るのである。
素晴らしくテンポのいい編集、奇妙な前衛芸術、シンセサイザーによって未来的な感覚を付加したクラシック音楽、自在に動き回るカメラ。
これまでに何度見たかわからないが、見るたびに驚嘆させられる。
細君も、「やっぱり見ちゃうよねえ」と言っていた。
本作は、映画史上の古典として、今後も燦然と光を放ち続けるであろう。