『アメリカン・グラフィティ』

この週末は、ブルーレイで『アメリカン・グラフィティ』を見た。

1973年のアメリカ映画。
監督はジョージ・ルーカス
製作はフランシス・フォード・コッポラ
ルーカスの大出世作であり、青春映画の金字塔として名高い作品だが、はたして、これは名作なのだろうか。
そもそも、僕はコッポラは好きだが、ルーカスには何の思い入れもない。
スター・ウォーズ』にすら、全く興味がなかった。
スピルバーグと並んで、ハリウッド映画をお子ちゃま化した元凶だと思っている(スピルバーグの初期作品には、非凡な才能のほとばしりを感じるが)。
若干話が変わるが、僕が小学生の頃は、『グローイング・アップ』シリーズとか、『ポーキーズ』とか、『初体験/リッジモンド・ハイ』(フィービー・ケイツが可愛かった!)とか、ちょっとエッチでおバカなハイスクールものがやたらとあったが、それらの原点は、この『アメリカン・グラフィティ』にある。
だから、本作を見ると、どこかで見たようなシーンばかりに出会う。
まあ、他がパクっているのだが。
舞台は1962年のサンフランシスコ郊外の町だそうだ。
僕が本作に感情移入出来ないのは、何十年も前のよその国の物語だからというのが大きい。
高校時代の思い出なんて、誰もが共通して持っているものだが、あまりにも背景が違い過ぎる。
僕は京都の外れの公立高校出身だが、ダンス・パーティもなければ、車に熱中しているヤツもいなかった。
僕自身が灰色の青春を過ごしたからかも知れないが、本作で描かれているような、オープンと言うか、言い方を変えるとチャラチャラした男女関係も、(少なくとも僕の周囲では)あまり見当たらなかった。
単に、「類は友を呼ぶ」だけなのかな。
と言う訳で、どうしても別世界の出来事に見える。
これは、一緒に見ていた細君も同じ感想だ。
アメリカ人と日本人は、そもそも感情表現の仕方からして違うのだろう。
僕は車も運転しないから、そちらの方から共感することも難しい。
で、これが大ヒットしたものだから、この後に作られた青春映画は、どれもこれも本作の模倣で、僕から言わせれば、やはり「別世界の話し」だ。
アメリカの田舎町は広いんだなあ。
車はデカイし、道路も広いなあ。
不良軍団はどこにでもいるなあ。
イケてないヤツは、やっぱりイケてないなあ。
主人公の少年たちはみんな老けていて、とても高校生に見えないなあ。
ハンバーガー屋の姉ちゃんは色っぽいなあ。
頭の悪そうな金髪娘は、どこまでも頭が悪いなあ。
この年頃は、音楽を聴きたがるよなあ。
などといった感想が浮かぶくらい。
音楽は、1960年代当時のヒット曲が散りばめられていて、僕なんかでもよく耳にしたことがある曲が幾つもある。
でも、音楽に寄り掛かった作りだと言えなくもない。
ラジオ局も登場する。
この年頃は、みんなラジオに夢中になるようだ。
そう考えると、日本の高校生との共通点もない訳ではないかな。
酒やタバコに手を出すのは東西共通か。
あちらでは酒を買うのに身分証がいるらしい。
タスポか!
さすが禁酒法の国だ。
これで「自由の国」とは聞いて呆れる。
「5000キロも離れた大学へ進学する」というのは、いかにもアメリカは広いと感じさせる。
日本だと、北海道から沖縄の大学に行っても(そんなヤツいるか?)、5000キロはない。
ティーヴ役のロン・ハワードは、後に映画監督になる。
まあ、お子ちゃま映画しか撮っていないが。
それでも、『ウィロー』と『バックドラフト』は映画館で観たな。
チャールズ・マーティン・スミスの、チビで奥手でイケてない高校生は、その後のこの手の映画には必ず登場する役どころ。
あと、若き日のハリソン・フォードが、結構目立つ役で出ている。
ルーカスには、ベトナム戦争の前の平和な風景を描く意図もあったらしい。
それは、最後の方で多少、浮かび上がって来る。
どうしても、後から粗製乱造された青春映画と同じ目線で見てしまうが、そう考えると、真面目に作られた映画なのかも知れない。