『夕陽のガンマン』

この週末は、ブルーレイで『夕陽のガンマン』を見た。

1965年のイタリア映画。
監督は「マカロニ・ウェスタン」の巨匠セルジオ・レオーネ
彼が、大ヒットした『荒野の用心棒』に次いで放った作品である。
僕は、レオーネの映画はこれまで『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』しか見たことがなかったが、今回、本作を見て、彼の原点が少し垣間見えたような気がした。
主演は我らがクリント・イーストウッド
彼も、大ブレイクにつながった『荒野の用心棒』に続く出演である。
後の『ダーティハリー』を彷彿させるようなアウトローっぷりをいかんなく発揮している。
音楽はイタリアの巨匠エンニオ・モリコーネ
勇ましくも哀愁の漂った曲調は、彼の真骨頂である。
ストーリーは極めて単純。
凄腕の賞金稼ぎ・モンコ(イーストウッド)が、もう一人の腕利きの賞金稼ぎ・モーティマー大佐(リー・ヴァン・クリ―フ)と出会い、最初はお互いに牽制し合いながらも、次第に二人で協力するようになり、ヤク中の凶悪ギャング・インディオジャン・マリア・ヴォロンテ)と闘う。
登場人物が、脇役まで含めてことごとくクセのある連中ばかりである。
そして、奴らは顔も目つきも、こちらに匂って来そうなほど異様にギラついている。
それに対して、画面は極めて乾いた雰囲気だ。
荒野を駆け抜ける幌馬車。
オープン・セットの町並み。
生意気なクソガキ。
派手な銃撃戦。
毒々しく流れる血。
吹き飛ぶ帽子。
所構わず擦るマッチ。
これらの一つ一つが、本場の西部劇とはまた違う、独特の緊迫感を生んでいる。
超ロングショットで始まるオープニング。
馬に乗った輩が何処からか銃で撃たれる。
落馬、転倒。
馬だけは起き上がって走り去る。
残された死体。
開拓史時代の鉄道の再現もいいね。
最後に明かされる懐中時計の由来も。
オルゴールの音が耳から離れない。
マカロニ・ウェスタン」という言葉は、概ね、「偽物」「まがいもの」で「中身がない」というニュアンスで使われる。
完全な娯楽作品であり、当時の『キネマ旬報』のベストテンなどを見てもランクインしておらず(41位)、批評家には相手にされていなかったことが分かる(後年、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』は1位になったが)。
しかし、60年代後半のイタリア映画を(一時的にせよ)苦境から救った一大ムーブメントであり、数百本もの作品が量産された。
その先駆けである、『夕陽のガンマン』を始めとするレオーネ監督の代表作は、もっと評価されてもいいのではないだろうか。
実際、今見ると、小難しい理屈は全く抜きで、完全に娯楽に徹していて、かえって痛快である。
『荒野の用心棒』も見たくなって来た。
ちなみに、悪党の一人としてクラウス・キンスキー(ナスターシャ・キンスキーの親父)が出ている。