『華麗なるギャツビー』(1974)

この週末は、ブルーレイで『華麗なるギャツビー』(1974)を見た。

華麗なるギャツビー [Blu-ray]

華麗なるギャツビー [Blu-ray]

1974年のアメリカ映画。
監督はジャック・クレイトン
原作は、村上春樹の大好きなF・スコット・フィツジェラルドの小説だ。
現代アメリカ文学を代表する作品だが、恥ずかしながら未読。
従って、何の予備知識もなく映画を見た。
最初は単なる恋愛ドラマかと思ったが、次第に引き込まれていった。
いやあ、これはなかなかの傑作かも知れない。
脚本はフランシス・フォード・コッポラ
コッポラが脚本を単独で書いたのは、本作の他、『パットン大戦車軍団』など数本しかない。
主演はロバート・レッドフォード
彼にとっては、『明日に向かって撃て!』で一躍脚光を浴び、『スティング』で更にその地位を不動のものにした後だから、正に絶頂期の作品と言えるだろう。
共演はミア・ファロー
ローズマリーの赤ちゃん』で有名になった彼女にとって、本作は代表作の一つではないか。
彼女は、少し頭の弱い優柔不断な女性を演じさせれば天下一品だ。
ストーリーは単純と言えば単純だが、なかなか奥が深く、僕の拙い文章力ではうまく書けない。
時代は1920年代。
ニューヨークの郊外にある大邸宅で、毎夜豪華絢爛な饗宴が繰り広げられていた。
これがギャツビー(ロバート・レッドフォード)の邸宅なのだが、彼は誰にも素性を明かさず、謎めいた存在として描かれる。
何と、最初の30分以上、主役のセリフがない。
導入部分は、専らギャツビーの隣人ニック・キャラウェイ狂言回しとして語られる。
このニックというのは、普通の感覚を持ったバランスの取れた男で、一応上流階級とも接点はあるが、金持ち過ぎず、もちろん貧乏でもなく、物語を客観的に見るにはピッタリの役回りだ。
誰にも心を開かないギャツビーだが、ニックとは何とかして友人になろうとする。
その過程で、ギャツビーの人間関係に対する融通の利かない不器用さ(裏返すと、一本気な純粋さ)が描かれる。
最初は戸惑うニックだが、少しずつギャツビーと打ち解けて行く。
ギャツビーがニックに近付いたのには訳があった。
ギャツビーはかつての恋人デイジーミア・ファロー)といつか再会したいと願ってパーティーを開いており、ニックが彼女と接点があることを知ったからだった。
デイジーは大富豪の娘で、今は大金持ちのトム・ブキャナンの夫人になっていた。
このブキャナンというのが、ロクでもない野郎で、妻への愛は既になく、外に愛人を作って頻繁に会っていた。
この愛人マートルを演じたカレン・ブラックは、前田敦子よりも寄り目だが、本作での演技は正に「怪演」と言える。
『エアポート'75』でチャールトン・ヘストンと共演しているのを見た時には、「何でこんな寄り目がヒロインなんだ?」と思ったものだが。
マートルは郊外でボロいカーガレージを営むウィルソンの妻だったが、貧乏な夫には目もくれず、大富豪のブキャナンと会っては、上流階級の世界に浸っていたのであった。
文字通りの「クソアマ」だな。
僕は、この無神論者で、店の前の大きな丸メガネの看板をまるで神のように崇める純朴な青年ウィルソンに、いたく同情する。
彼は、明らかにプロレタリアートの象徴だ。
そして、ブルジョアジーの象徴たるブキャナンとは埋めようもない格差がある。
財力では絶対に叶わない相手に、最愛の妻の心までも奪われてしまっているのだ。
だが、その妻も、幾ら上流階級に近付いても、所詮は愛人に過ぎないのである。
次第に嫉妬に狂って行く彼女の表情には鬼気迫るものがある。
特に、窓ガラスを自分の拳で割ってしまう場面などは恐ろしい。
一方、ギャツビーも、この階級社会の犠牲者と言える。
貧乏人の息子で、軍に赴き、戦争から帰って来るも無一文。
愛するデイジーは富豪の娘。
しかも、結局、貧乏人のギャツビーよりも、大金持ちのブキャナンを選んだのだ。
ギャツビーは、何とかして彼女をもう一度振り向かせるため、裏の稼業にも手を出して成功し、大金持ちになる。
だが、彼は結局は単なる成金に過ぎない。
自分の生い立ちを隠すために学歴を詐称したりする。
デイジーは夫にはとうに愛想を尽かしており、ギャツビーと度々逢瀬を重ねる。
ギャツビーは彼女に、夫と別れて自分と結婚しようと持ちかける。
デイジーはギャツビーの前では頷くが、夫の前では、どうしてもそれを切り出せない。
彼女もやはり、既に築かれた既成の上流社会の枠組みから踏み出す勇気がないのである。
更に、デイジーのことはほったらかして愛人まで作っていたブキャナンは、自分の妻が昔の恋人と会っていることを知って、嫉妬に狂い、ギャツビーのことを色々と調べ上げる。
けれども、ブキャナンが嫉妬するのは、デイジーを愛しているからではない。
やはり、上流社会の枠組みからはみ出すことを恐れるからなのだ。
こいつはクソ野郎だし、夫にも昔の恋人にもいい顔をするデイジーはクソアマだ。
純粋なのは一人ギャツビーのみで、それを静かに見つめているのは隣人のニックのみ。
つまり、本作は二人のクソアマを通して、二組の階級対立を描いているのである。
見事に再現された1920年代は美しい。
少しソフトフォーカス気味で、光が十字にきらめくような撮影。
立派な衣装を提供したのはラルフ・ローレン
いかにも彼の好みそうな上流階級のスーツがたくさん登場する。
余談だが、僕は昔、分不相応なラルフ・ローレンのスーツを買い過ぎて、カード破産寸前まで行った。
宝石を提供したのはカルティエ
本作には、犬もたくさん出て来て、心を和ませる。
ラストに、近所の子供たちがギャツビーの豪邸に「SHIT」と大きな落書きをしているのが笑える。
子供は無邪気でいいね。
こういう映画を見ると、下痢ピーやらチン太郎やら橋の下を、どうしてニート・フリーターが中心のネトウヨどもが支持しているのか全く解せなくなる。
奴らのような新自由主義者が目指す階級社会がそんなにお好みなのか。
この階級社会では、貧民下層階級は常に虐げられる対象なのだ。
僕は生まれながらのプロレタリアートなので、ブルジョアジーは不倶戴天の敵である。
万国の労働者よ、団結せよ!
まあ、これ以上書くと収拾がつかなくなりそうなので、この辺で止めておこう。
それにしても、この映画は上流階級の腐敗堕落と、階級社会の酷さを見事に描いている。
まもなく、レオナルド・ディカプリオ主演のリメイクが公開されるようだが、監督が『ロミオ+ジュリエット』のバズ・ラーマンなので、駄作確定である。
いい加減、名作をインチキなリメイクで汚すのは止めて欲しい。
アカデミー賞衣装デザイン賞、編曲賞受賞。