『戦場にかける橋』

この週末は、ブルーレイで『戦場にかける橋』を見た。

1957年のイギリス・アメリカ合作映画。
僕が本作の存在を初めて知ったのは、小学生の頃、近所の本屋で立ち読みしたケイブンシャの大百科か何かだったような気がする。
確か、パニック映画の名シーンを集めたような本で、『戦場にかける橋』は『カサンドラ・クロス』と共に「橋が落ちる映画」として紹介されていた。
ミニチュア丸出しの『カサンドラ・クロス』と、実物大の巨大なオープンセットを作った『戦場にかける橋』を一緒に並べるのも気の毒な気がするが。
しかも、『戦場にかける橋』はパニック映画ではないし。
家に帰ってから、母に「『戦場にかける橋』っていう映画知ってる?」と聞いたら、「知らいでか!」と怒られた。
当時の僕は、本作が映画史上に残る名作だということを知らなかったのである。
それとは別に、小学校の運動会で行進の時にいつも流される曲に『クワイ河マーチ』があった。
言うまでもなく、本作のテーマ曲である。
ただし、劇中では2回しか流れない。
しかも、兵隊たちが行進する時に口笛で吹いているだけである。
日教組反主流派の牙城・京都で、学校行事で子供たちが行進する際に、よく兵隊の曲を流したなと、今となっては少しビックリするが。
僕は、この曲に勝手に歌詞を付けて、『サル・ゴリラ・チンパンジーの歌』と呼んでいた。
「♪サル、ゴリラ、チンパンジー♪」と歌うと、曲にピッタリ合うのである。
ただ、こんなアホなことを考えていた子供は、僕だけではないようだ。
さて、本作の原作はピエール・ブール
実体験を基にしているというだけあって、非常に生々しい。
彼は『猿の惑星』の原作者でもあるが、映画史に残る有名な作品を、しかも違うジャンルで2本も書いているのはスゴイ。
監督はデビッド・リーン。
言わずと知れた巨匠である。
彼の作品は、『アラビアのロレンス』や『ドクトル・ジバゴ』など、「ザ・大作」のようなものばかりだが、その先駆けは本作ではないか。
主演はイギリスの名優アレック・ギネス
パッケージの裏を見ると、二番手に付けているが、間違いなく、本作の主役は彼であろう。
迫真の演技で、アカデミー賞主演男優賞を受賞している。
それにしても、『マダムと泥棒』みたいなコメディの後に、こんなシリアスな役を演じるとは、さすが立派な役者は違う。
彼はこの後、『アラビアのロレンス』『ローマ帝国の滅亡』『ドクトル・ジバゴ』と、大作に立て続けに出演する。
アレック・ギネスと比べると、ウィリアム・ホールデンの役どころは、単なる「チャラ男」だ。
ワイルドバンチ』や『タワーリング・インフェルノ』辺りの頃と比べると、若くて(細くて)驚く。
それから、『ベン・ハー』や『アラビアのロレンス』にも出ているジャック・ホーキンスが重要な役で出演している。
そして、忘れてはならないのが、日本人初のハリウッド・スターとされる早川雪洲だ。
まあ、彼は英語が話せるからハリウッドで成功したというのもあるかも知れない。
憎々しい顔付きで、相当イヤな日本人の役を演じている。
もう20年後なら、三国連太郎辺りがやっているところだろう。
はっきり言って、日本人が見ると気分が良くない。
まあ、『シン・レッド・ライン』のように、日本人を「黄色いサル」みたいに描いている訳ではないが。
早川は、本作でアカデミー賞助演男優賞にもノミネートされた。
本作は、1957年にしては鮮明なカラー映像である。
さすが、テクニ・カラーだ。
更に、シネマ・スコープの大画面で、1957年の日本国内における興行収入(外国映画)1位を獲得している。
2時間40分に及ぶ長い映画だが、この時代にしては珍しく、途中で休憩がない。
舞台は、第二次大戦真っ只中、1943年の、タイとビルマの国境付近にある日本軍の捕虜収容所。
この収容所の所長である斎藤大佐を演じるのが早川雪洲である。
彼は、捕虜を人間扱いしない。
何故か、戦場なのに着物を着ており、筆で書きものをする辺りは、無理やり日本テイストを出そうとしていて、違和感がある(それなのに、カレンダーはアメリカのものだ)。
ただ、便溢れっ苦主演の世紀の駄作『パール・ハーバー』ほどは酷くない。
この収容所に、イギリス軍の捕虜の一団が運ばれて来る。
彼らのリーダー、ニコルソン大佐(アレック・ギネス)は、筋を通す軍人。
斎藤は、彼らを強制労働に付けようとする。
現在、日本軍はタイとビルマを結ぶ鉄道建設を目論んでおり、そのためには、クワイ川にかける橋を急いで作らなければならない。
それまでも、アメリカ兵たちが導入されていたが、工事は遅々として進まなかった。
日本側の扱いの酷さに反発し、アメリカ兵たちの士気は全く上がらない。
もし期日までに工事が完成しなければ、斎藤は責任を問われるので、非常に焦っていた。
斎藤は、ニコルソンたち将校も駆り出そうとするが、ニコルソンは「将校を労働に従事させるのは国際条約違反」として応じない。
強硬な態度に業を煮やして、斎藤はニコルソンを監禁する。
彼の部下たちは、上官がいないので、全く日本軍の指示には従わない。
斎藤は、最初は見せしめのためにニコルソンを弾圧するが、効果がないと分かると、今度は懐柔策に出る。
戦争中の日本軍の行為については、色々な意見があるだろう。
本作では、日本人は国際条約も守らず残虐行為を行なった、という立場から描いている。
多少の誇張はあるだろうが、ゼロ戦の重量を軽くするために防弾装置を外した、というような戦時中の日本だから、外国人捕虜に対しても、非人道的な扱いをしたというのは本当かも知れない。
斎藤は、とうとう恩赦を理由にニコルソンを解放した。
ニコルソンは、解放されるや一転、「イギリス軍の力を示すべきだ」として、彼が主導して積極的に橋の建設に動く。
部下に命じて、橋の建設場所を再調査し、地盤のしっかりとした場所に変更させる。
イギリス人捕虜たちは、今までとは別人のように真面目に働くようになる。
斎藤は、橋の建設が進むのは有り難いが、自分の無力感にさいなまれる。
完成した暁には、おそらく「ハラキリ」をする覚悟だ。
この辺りの心理描写も見事。
ニコルソンは、橋の完成に命を捧げるかの如く打ち込む。
何が彼をそうさせるのか。
まるで、『五重塔』ののっそり十兵衛のようだ。
一方、アメリカ兵の中からは、3人の脱走兵が出た。
二人は途中で日本軍に殺されるが、シアーズウィリアム・ホールデン)だけが脱走に成功する。
除隊されて本国に帰れることを夢見ていた彼に、新たな任務が下る。
クワイ川に日本軍が建設中の橋を爆破しろ」というのだ。
シアーズは当然断ったものの、階級詐称の事実を突き付けられて、引き受けざるを得なくなる。
ウォーデン少佐(ジャック・ホーキンス)を中心に、シアーズも含めた4人の決死隊が結成される。
しかし、到着早々一人が死亡。
コウモリの大群が不気味だ。
過酷なジャングルの行進。
途中で日本兵の一団に遭遇し、彼らを皆殺しにするも(何ということだ!)、ウォーデンも足を撃たれて重傷を負う。
「任務か人間か」と、シアーズはチャラ男なりにいいことを言う。
案内役の現地人の女たち。
白人の兵隊に送る視線が何とも屈辱的だが、おそらく、戦後の日本でも見られた情景なのだろう。
苦労の末、現地に到着すると、何とも立派な橋が出来ている。
巨大なオープンセットを作っただけあって、彼らの建設の苦労と、この後に来る破壊の空しさに、大変な説得力が生まれる。
爆破計画のことなど露知らないニコルソンは、橋の建設に生きる意味を見出し、完成した橋を見上げて、灌漑にふけっていた。
この橋の建設を通して、斎藤との信頼関係も出来た。
だが、本国では、そんなことは当然理解しない。
せっかく完成した橋は、まもなく爆破される運命だ。
苦労も一瞬にして吹き飛ぶ。
観客は、この空しさを分かって見ている。
知らないのはニコルソンたちのみである。
ニコルソンは、最初の汽車が橋を渡る前夜、兵士たちを前にして演説する。
「後世の人たちがこの橋を渡った時、イギリス軍は何と立派な仕事をしたと感心するであろう。」
彼の高邁な理想と、現実との落差に泣けて来るよ。
クライマックスの緊迫感は凄まじい。
汽車が橋に近付いて来る。
異変を感じたニコルソンが斎藤と見回りをする。
全てを知ってしまった時のニコルソンの絶望たるや。
「俺は一体何のために一生懸命橋を作ったのか。」
斎藤も、軍人らしい死に方も出来ない。
これ以上は、書くのを控えよう。
「戦争の空しさを見事に描き出した」などと、一言で言ってしまうのははばかられる。
とんでもなく重い作品だ。
戦争に勝者などいない。
アカデミー賞作品賞、監督賞、脚色賞、主演男優賞、撮影賞、編集賞、作曲賞受賞。