『追憶』

この週末は、ブルーレイで『追憶』を見た。

1973年のアメリカ映画。
監督はシドニー・ポラック
彼の作品を見るのは、『コンドル』『トッツィー』『愛と哀しみの果て』に続いて4本目である。
政治色の強い映画が好きな人だ。
主演はバーブラ・ストライサンド
洋楽に疎い僕は知らなかったが、本業は歌手。
アカデミー賞を獲った本作の主題歌も自分で歌っている(これは、聴けば誰でも分かる名曲)。
最初は「よくこの顔で恋愛映画のヒロインをやるな」と思ったが、作品を見れば彼女が起用された理由が分かる。
それくらいハマリ役。
相手役はロバート・レッドフォード
あまりに有名なので、説明は省略。
シドニー・ポラックの作品にもよく出ている。
二枚目だが、本作ではバーブラ・ストライサンドの存在感に完全に負けている。
その他の出演者では、ブラッドフォード・ディルマンは『新・猿の惑星』に出ていた。
あと、ロイス・チャイルズは『華麗なるギャッツビー』と『ナイル殺人事件』、ジェームズ・ウッズは『ヴィデオドローム』と『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』に出ていたな。
それから、『ジョーズ』でアミティの市長を演じたマーレイ・ハミルトンがチョイ役で出ている。
音楽は、『スティング』『普通の人々』のマーヴィン・ハムリッシュ
舞台は第2次大戦中のニューヨーク。
寒そうである。
ジャズ調の音楽が流れる。
ヒロインのケイティーバーブラ・ストライサンド)は放送局で働いている。
見た目は、まるで田中真紀子である。
場面変わって、ダンス・ホール。
白い軍服姿のハベル(ロバート・レッドフォード)が眠っている。
ここから、彼らの学生時代の回想へ。
有名なテーマ曲が流れる。
走るハベル。
一方、活動家のケイティー
スポーツマンのハベルと、バイトに明け暮れるケイティーの対称的な姿が映し出される。
ケイティーは青年共産同盟の委員長。
ノンポリ学生達の前でアジ演説をブチ上げている。
ほら、田中真紀子のイメージでピッタリだ。
昨今は一掃されてしまったが、昔は早稲田にも学生運動の活動家がたくさんいた。
別に学生運動をやっていなくてもいいが、早稲田の女子学生は、通称「ワセジョ」と呼ばれてイロモノ扱いされた。
「世の中には、男と女とワセジョがいる」などという言い方をされた。
ワセジョとはどういうイメージか。
代表的なのが田中真紀子辻元清美である。
うわ、うるさそう。
こんなことを言うと、やはりワセジョである細君に怒られるかも知れない。
昨今では、ナンチャラ細胞問題で「リケジョ」の方が有名になったが、「ワセジョ」というのは、ああいうイメージではない(しかし彼女も、よく考えたら「ワセジョ」じゃないか)。
話しが逸れてしまった。
おそらくプロレタリア階級の出身で、社会の矛盾と闘おうと必死なケイティーは、ブルジョワ学生からバカにされる。
昔から変わらない、階級対立の構図である(昨今のキャンパスではどうだか知らないが)。
ジェームズ・ウッズは、彼女の同士として出て来る。
とは言え、第二次大戦中の大学生なんて、一般の人から見れば、やっぱりエリートだろう。
下層階級でも、能力さえあれば高等教育を受けられるというのは素晴らしい。
アメリカの名門大学は、図書館の内部が立派である。
そして、少人数授業が行われている。
ここは小説の創作クラス。
ケイティーとハベルは、同じ授業を取っている。
教授から優秀作品として発表されたのは、ハベルのものだった。
上流階級で、スポーツ万能で、小説の才能もある彼。
野心満々のケイティーは、自分の作品が選ばれなかったのが悔しくて仕方がない。
彼は何でも出来て、しかも彼女のように必死じゃない。
世の中、不公平だ。
その日の夜、オープン・カフェで一人でビールを飲んでいたハベルは、歩いていたケイティーに声を掛け、飲みに誘う。
戦時中なのに、アメリカは豊かである。
今度はダンス・ホール。
ケイティーはここでバイトをしているが、ハベルは客として踊っている。
何という埋めようのない格差!
だが、あろうことか、ハベルはケイティーを誘い、一緒に踊る。
おいおい、仕事しろよ。
ここで、学生時代の回想は終わる。
この、住んでいる世界の全く違う二人が時を経て再会した。
ハベルはケイティーの部屋に行くが、飲み過ぎていた。
倒れるように眠っても、戦争の記憶は消えない。
ケイティーは憧れの彼と初めてベッドを共にするが、ハベルは彼女のことを認識していない。
ケイティーの部屋には、大きなスターリンのポスターが貼ってある。
朝になって、ハベルは慌ただしく部屋を出て行く。
昨夜のことは覚えていないようだ。
ケイティーは、相変わらず政治活動に熱心だ。
ある時、ハベルが「部屋に泊めてくれ」と電話をして来る。
彼にとって、それは単に「寝床を貸してくれ」という意味だったが、ケイティーは彼を引き留める。
ハベルは政治には全く興味がない。
彼とケイティーは住んでいる世界が違い過ぎる。
しかし、二人は結ばれ、よく会うようになった。
彼女は、ハベルが出版して2冊しか売れなかった処女小説を読んでいた。
ハベルはとっくに見切りを付けていたが、ケイティーは彼の才能を信じて疑わず、新年にタイプライターをプレゼントする。
だが、出身階級の違いはどうにも埋めようがない。
アメリカは、とんでもない階級社会である。
ハベルの学生時代の仲間達と会っても、ケイティーだけ全く会話に入っていけない。
僕も下層階級の出身なので、こういう時の居心地の悪さは痛いほど分かる。
ようやくハベルの才能が花開き、ハリウッドに小説が売れそうになっていた。
ちょうどその頃、ルーズヴェルト大統領が亡くなる。
二人はこれをきっかけに大ゲンカになり、ハベルはケイティーに別れを切り出す。
今の日本では、政治をネタにした恋愛映画など考えられないだろう。
「私は上流社会に合わないのね…。」
二人は別れるが、お互いに未練が残る。
耐え切れなくなったケイティーがハベルに電話をする。
「眠れないの。親友はあなただけ。話し相手になって。」
ハベルは、ぶっきらぼう睡眠薬を持って来る。
けれども、結局ヨリを戻す。
彼らはハリウッドへ行く。
ちょうど、『The Best Years of Our Lives』が公開されていた。
ということは、1946年だ。
いつの間にか、戦争が終わっている。
ケイティーは妊娠していた。
その頃、政府がハリウッドを警戒し始めていた。
赤狩りが始まっていたのである。
ということで、この後、時代の波が二人の運命を翻弄する。
それにしても、よく70年代のアメリカでこういう映画が撮れたものだ。
ケイティーは、世の中の矛盾に対して「断固闘うべきだ」と言う。
一方、ハベルは「そんなことをしても何も変わらない」と言う。
僕は、政治的ポジションとしてはケイティーに近いが、それに向き合う姿勢としてはハベルに近いかも知れない。
安倍政権の悪政はヒドイ。
集団的自衛権原発再稼働にも反対だ。
だからと言って、国会前でデモ行進をしても、実際の政治は全く動かない。
昨今の日本は、僕のようなヘタレなプロレタリアートばかりだから、革命も起きようがない。
それどころか、みんな選挙にすら行かない。
現状に不満だらけのはずなのに、保守党を追認する。
おかしいよ。
立ち上がりたいけれど、国家権力による弾圧が恐ろしい。
僕も、もう若くはない。
家族もいる。
そう考えると、ケイティーのような生き方は出来ない。
この映画を見終わった後、考え込んでしまった。
こんなに政治的な恋愛映画を、よく公開出来たと思うし、受け入れた観客も立派だ。
監督によると、本当はもっと政治的なシーンはたくさんあって、全体のトーンを考えてカットしたのだという。
それにしても、だ。
音楽は非常に印象的だが、単なるメロドラマに終わっていない。
アカデミー賞歌曲賞、作曲賞受賞。