『グリム童話』を原文で読む(第1回)

せっかく勉強したドイツ語を忘れないように、週に1日は『グリム童話』を原文で読むことにしました。
グリム童話』は、ヤーコプ(1785-1863)とヴィルヘルム(1786-1859)のグリム兄弟が、ドイツの伝説、民話の類いを収集して編纂した童話集です。
グリム兄弟について
まずは、編者のグリム兄弟について、『はじめて学ぶドイツ文学史』(ミネルヴァ書房)から引いてみましょう。

ヘッセン侯国のハーナウに裁判官の長男、次男として生まれる。マールブルクでの学生生活に始まり、カッセルの図書館員、ゲッティンゲン大学教授、さらにプロイセン科学アカデミー会員としてベルリンで暮らした晩年に至るまで、二人は生涯の大半をともに歩んだ。
兄弟のライフワークは古代ゲルマン文化の研究。その成果は、死後1世紀を経て後継者たちの手でようやく完成された膨大な『ドイツ語辞典』(Deutsches Wörterbuch, 1854-1961)を筆頭に、ゲルマン諸語の比較歴史研究、神話学、古代法研究(ヤーコブ)やドイツ・北欧の古代・中世文学の編集・校訂(ヴィルヘルム)など、多岐にわたる。グリム兄弟こそ、今日「ゲルマニスティック」(ゲルマン学ないしドイツ語学・ドイツ文学)と呼ばれる学問の創始者なのである。
だが、そうした専門的な功績以上に二人の名を高からしめたのは、なんといってもメールヒェン採集であろう。『子供と家庭のためのメールヒェン集』(Kinder- und Hausmärchen, 1812-15)、いわゆる「グリム童話」は、今も聖書と並んでドイツで、そして世界中でもっとも親しまれている書物の一つである。

グリム童話』について
グリム兄弟は、大学教授としてドイツ言語学、ドイツ文法、古代・中世ドイツ文学等の基礎的な研究によって後世に名を残しました。
その中でも、最も偉大な業績は、やはり『グリム童話』の編纂でしょう。
初版第1巻が刊行されたのは1812年
以後、何度か改訂がなされ、兄弟の生前に第7版(1857年)まで出ました。
この第7版が決定版とされ、現在日本で出版されている翻訳も、ほとんどがこの版を底本としています。
グリム童話』は、各国語に翻訳され、聖書に次いで2番目に発行部数の多い本です。
文章が比較的易しいので、昔からドイツ語の初級用の教材として、広く読まれて来ました。
例えば、小塩節氏の『「グリム童話」をドイツ語で読む』(PHP研究所)には、次のようにあります。

私は17歳のときに旧制の松本高等学校というところに入りましたが、上級生に北杜夫さんや辻邦生さんたちがいました。北杜夫さんはすでにそのころからメルヒェンのような小説を書き出していました。日本アルプスの槍や穂高乗鞍岳を望む高校で、私はドイツ語を習い始めました。そしてその音楽的な美しさにすっかりとりこになってしまいました。
4月に文法をABCから習い始め、5月に入ると望月市恵先生からグリム童話の訳読の手ほどきを受けることになりました。なにしろ昔の旧制高校文科の、ドイツ語を第1外国語にするクラスでは週に10時間以上ドイツ語があるのですから、どんどん進みます。子どもじゃあるまいし、今、なぜ童話をやるのか、と初めはちょっと思いました。ところがグリムのドイツ語は、一語一語が清冽な谷川の水で洗い清められた小石のように美しい。ひとつひとつが硬くて、ゆるぎなく、正確でいて、ひびきが深々としているのです。のちに映画監督になった熊井啓君も同級生でしたが、生意気盛りの私たちはほんとうにいきを飲んでグリムを読み、訳し、大きい声で朗読をたのしみました。

また、郁文堂独和対訳叢書『グリム童話』の「あとがき」には、次のようにあります。

ここにはだれもが子供のときにきっと一度は聞かされたようなものだけを五篇集めました。わかりすぎていて、ばからしいと思う人があるかもしれません。ところが、それだからこそ、こういうものが初歩の教材として適当なのです。言葉には形と意味があります。意味に気をとられすぎると、形の理解がおろそかになります。意味がわかりきっていて、すこしばからしいくらいであれば、いやおうなしに形のほうに精神が集中することになるでしょう。従って初歩の文法がよく頭に入るというわけです。

更に、『聞いて読む初版グリム童話』(白水社)の「まえがき」には、「この本は、グリムの昔話の入門書でもありますが、初級文法を終えて、いよいよ実際のドイツ語を読んでみたいという方たちにとっても、格好のドイツ語の入門書になることと思います」とあります。
現在でも、多くの大学で初級文法を終えた後(または並行して)、講読用の教材として使用されています。
僕が日大通信に在籍していた時にも、ドイツ語IIのテキストは『グリム童話』でした。
もっとも、昨今は学力低下のためか、初級の講読ではなくて、ゼミの教材として使われることも多いようですが。
確かに、かつてラジオ講座等の講師も務めた藤田五郎氏は、『ドイツ語のすすめ』(講談社現代新書)の中で、「よく『グリム童話』や『ハウフ童話』がいい、といいますが、かならずしも読みやすくありません」と述べていました。
また、『グリム童話集』(第三書房)の「解説」にも、「グリムの童話というと、すぐ語学的に『易しい』と考え易いが、古い語法や方言があって、必ずしもとっつき易いとは言えない」とあります。
更に、「『グリム童話』に使われている単語のうち、1500語レベル(独検3級程度)のものは全体の半分くらいしかない」という研究もありました。
しかしながら、難しい単語は文学作品には常に出て来るものであり、それらについては辞書を引けば済むことです。
そんなことを一々気にし始めたら、何も読めなくなります。
それに、「難しい」と言っても、初級用の独和辞典に載っていないような単語は、ほとんど出て来ません。
グリム童話』を丹念に読み込めば、繰り返し出て来る基本単語も定着するでしょう。
テキストについて
現在、日本で流通している『グリム童話』のテキストとしては、大学書林と郁文堂から出ている対訳のもの、上述の『聞いて読む初版グリム童話』、最近IBCから出た『ドイツ語で読むグリム童話名作集』等があります。
このうち、白水社のものは趣旨が若干違いますし、IBCのものは完全な原文ではない(「はじめに」に「原文の香りを損なわないよう配慮しつつ、いまではもう絶対使うことのない古い言い回しに限って、現在の語法に改めてあります」とあります)ようなので、とりあえず大学書林から出ているものを読むことにしました。
大学書林

初版は昭和32(1957)年。
訳注は岡田幸一氏。
収録作品は、「白雪姫」「ヘンゼルとグレーテル」「ホレ夫人」の3篇。
最初の2篇はさておき、最後の作品は、ページ数を調整するために入れられたような気もしますが。
このテキストは注釈が充実しており、訳も直訳調なので、初学者でも辞書さえあれば読み進められるでしょう。
ちなみに、幾つかの大学のシラバスを調べたところ、本書1冊(短編3話)で、大体半期の授業分というところでした。
ただ、大学時代、ドイツ語が第一外国語だった細君によると、講読の授業は到底そんなペースでは進まないそうです。
1コマ(90分)で、せいぜい本書の原文2ページ分くらい。
まあ、そうでしょうね。
ようやく初級文法を終えたばかりの学生に、いきなり文学作品を読ませるのですから。
細かく解説しないと、とても理解出来ないでしょうし。
それから、中には予習をロクにして来ない不埒な学生(僕のことです)もいるので、先生が当てても答えられず、時間の無駄になるとか。
本書の原文は44ページ分ありますから、1年でこのテキストの講読が終われば、まあ上出来、ということのようです。
ですから、この本1冊で2単位分くらいですかね。
昔の早稲田は休講だらけで、おそらく年間20コマ位しか授業がありませんでした。
現在の基準では、到底2単位にならないでしょう。
さて、大学書林の他には、郁文堂も対訳を出しています。
郁文堂版
グリム童話 (独和対訳叢書)

グリム童話 (独和対訳叢書)

初版は1961年。
訳注は三浦靭郎氏。
収録作品は「カエルの王様もしくは鉄のハインリヒ」「オオカミと七匹の子ヤギ」「赤ずきん」「ヘンゼルとグレーテル」「ブレーメンの町の音楽師」の5篇。
いずれも有名なお話し(「カエルの王様〜」はややマイナーでしょうか)ですが、「ヘンゼルとグレーテル」は大学書林のものとかぶっています。
このテキストは、対訳がページの左右ではなく、何故か上下になっているので、少々読み辛いです。
また、訳が直訳ではないので、初心者には取り組み難いかも知れません。
注釈も、大学書林のもののように網羅的ではなく、特定の文法事項だけを取り上げて詳しく解説しているので、尚更初心者には不親切です。
巻末には、「付録」として「接続法について」があります。
「本書の童話のなかにでてきた例文だけを使って接続法を説明してみた」とのことです。
確かに、接続法はドイツ語の文法書の一番最後に出て来て、難しい部分なので、こういう試みも面白いのかも知れませんが、これは、やはり文法の範疇でしょう。
ちなみに、細君は大学のドイツ語の文法の授業では、接続法を習っていないそうです(教科書が最後まで終わらなかったので)。
それから、単語集が付いていますが、これも余分かも知れません。
単語は、辞書を何度も何度も繰り返し引かなければ、到底身に付くものではありませんから。
辞書・文法書など
文学作品の原文を読むに際して、辞書は最大の伴侶です。
グリム童話』には、「初級用の独和辞典に載っていないような単語は、ほとんど出て来ません」と、上には書きましたが、それでも、多少は載っていない語も現われます。
しかし、未だ未だドイツ語力が身に付いていない初学者にとって、メインで使うべき辞書は、やはり懇切丁寧な学習独和辞典です。
アポロン独和辞典』(同学社)
僕は、『アポロン独和辞典』を愛用しています。
アポロン独和辞典

アポロン独和辞典

1972年刊行の『新修ドイツ語辞典』をルーツとする、日本で最も歴史のある学習用独和辞典です(『アポロン』の初版は1994年)。
ポピュラーな初学者用辞典には、他に『アクセス独和辞典』(三修社)と『クラウン独和辞典』(三省堂)がありますが、何でも一番伝統のあるものを選んでおけば、間違いはありません。
辞書は、改訂を重ねる度に改良されるものなので、歴史のある辞書は、それだけ最初のものより改善されていると考えられます。
刊行当時、『新修ドイツ語辞典』は、初学者のための配慮と工夫をこらした先駆的な学習辞典として、広く学習者に迎えられたそうです。
例えば、カタカナでも発音表記や、活用・変化形を見出し語として扱うなど。
もっとも、教養主義がまだ残っていた70年代の大学では、この辞書を使っているとバカにされたという話もありますが。
その頃の学生は、「木村・相良」や「シンチンゲル」といった上級者向けの辞書を、無理して使っていたようです。
それはさておき、『アポロン独和辞典』の見出し語は約5万。
これは、『アクセス』の約7万3500語、『クラウン』の約6万語と比べて少ないですが、そもそも初学者用の辞書にそんなにたくさんの語数は必要ないと思います。
原文を読んでいて、この辞書に載っていない単語があれば、もっと大型の辞書に当たればいいだけのことです。
初学者用の独和辞典は、英語で言えば、中学生用(『初級クラウン』『ニューホライズン』など)と高校生用(『クラウン』『アンカー』『ライトハウス』など)の辞書を合わせたようなものだと思っていいでしょう。
それに対して、中級・上級用の辞書としては、次のようなものがあります。
『新コンサイス独和辞典』(三省堂
新コンサイス独和辞典

新コンサイス独和辞典

初版は1936年と、現在流通している独和辞典の中では、最も歴史があります。
収録語数は9万5千語。
英語の『コンサイス』と同じで、小型辞書に出来るだけ多くの語を詰め込んでいるので、基本語の解説や例文などは少ないです。
かつての『コンサイス』は、文学作品に出て来る語も充実していたそうですが、この版はそうでもありません。
「まえがき」には、「内容の現代化を図りつつ、一方では19世紀の文学書講読に不便を感じないほどの水準を維持するように心掛けた」とありますが、これでは全然足りないでしょう。
あくまで、学習用辞典の語彙の不足を補う程度です。
『新現代独和辞典』(三修社
新現代独和辞典

新現代独和辞典

本書の前身である『現代独和辞典』の初版は1972年。
見出し語数は11万で、後述の『郁文堂独和辞典』と並んで「中辞典」とされています。
英語で言えば、『新英和中辞典』(研究社)、『プログレッシブ英和中辞典』(小学館)、『ジーニアス英和辞典』(大修館)に当たるクラスです。
本書の編者がロベルト・シンチンゲル氏(元学習院名誉教授)なので、かつては「シンチンゲル」と呼ばれ、後述の「木村・相良」と並ぶ、代表的な独和辞典でした。
しかし、伝統に寄り掛かっているためか(あまり改訂がなされていないのか)、内容は不親切さが目立ちます。
解説では学習辞典に、語数では大辞典にかなわず、中途半端な位置付けの辞書です。
『郁文堂独和辞典』(郁文堂)
郁文堂独和辞典

郁文堂独和辞典

初版は1987年。
見出し語数は11万。
数字上は『新現代独和辞典』と同じですが、僕の経験では、文学作品を読んでいて分からない語に出会った時、こちらの方がヒットする率が高いと思います。
『新現代』よりも新しい分、色々と工夫がなされているのではないでしょうか。
『木村・相良独和辞典』(博友社)
木村・相良 独和辞典 (新訂)

木村・相良 独和辞典 (新訂)

初版(旧版)は、何と1940年。
本書は、長年に渡り、独和辞典の代名詞でした。
コンパクトなサイズに、細かい活字でぎっしりと語義が詰まっており、見出し語数は15万。
実際、他の辞書には載っていなくても、本書を引くと発見出来る語も少なくありません。
「古典を読むには必須」という定評もあります。
ただ、いかんせん古過ぎるんですね。
新訂版の発行が1963年。
それから、半世紀以上も改訂されていないのです。
その点を踏まえた上でなら、未だ役に立つ場面もあるでしょう。
『大独和辞典』(博友社)
大独和辞典

大独和辞典

初版は1958年。
かつては、本書が独和辞典の権威でした。
英語で言うところの、研究社の『新英和大辞典』のようなものです。
見出し語数は20万と、数字上は、現在日本で出版されている独和辞典の中で一番多いと言えます。
しかし、実際に使ってみると、『木村・相良』の活字を大きくしただけというような印象もないではありません。
また、初版以来、一度も改訂されていないという点も、『木村・相良』と同じく、最早「過去の遺物」扱いされてしまう要因です。
ただ、多くの独和辞典を引き比べると、まるで先祖からの言い伝えのように、全く同じ語義や用例が載っていることが多々あります。
それらの原点が、本書や『木村・相良』であるという意味では、今もって敬意を表されるべき辞書ではあるでしょう。
『独和大辞典』(小学館
独和大辞典コンパクト版 〔第2版〕

独和大辞典コンパクト版 〔第2版〕

初版は1985年。
総見出し語数は16万。
文字通り、現時点で日本を代表する独和辞典です。
博友社の『大独和辞典』よりも新しい分、先行辞典をよく研究されて作られており、内容的にも、使い易さの点でも、申し分ありません。
古典から現代語まで幅広く対応出来ます。
しかも、コンパクト。
英語で言えば、『リーダーズ英和辞典』(研究社)のサイズに、『新英和大辞典』(研究社)の中味を詰め込んだようなものです。
この辞書に載っていなければ諦めるという意味で、最後の砦と言えるでしょう。
文法事項の参照用としては、次の本に定評があります。
『必携ドイツ文法総まとめ』(白水社
必携ドイツ文法総まとめ

必携ドイツ文法総まとめ

初版は1985年(改訂版は2003年)。
著者は、中島悠爾氏、平尾浩三氏、朝倉巧氏。
ドイツ文学を原文で読もうとする人は、当然ながら、初級文法は一通り終えていると思います。
しかしながら、文法事項に疑問が生じた時に、検索したくなることが多々あるでしょう。
そのような時に大変便利なのが、この本です。
コンパクトなサイズに、初級からかなり高度な文法知識までが網羅されています。
しかも、2色刷りのため、非常に見易いです。
僕はこれまで、多少はドイツ文学を原文で読みましたが、本書1冊でほとんどの疑問が解消されました。
今後の予定
と言う訳で、かつてのドイツ語学習者に少しでも近付くために、僕も本作を読んでみたいと思います。
どれくらい時間が掛かるか、分かりませんが、挫折しないように頑張るつもりです。
次回以降は、僕の単語ノートをこのブログで公開します。
【参考文献】
はじめて学ぶドイツ文学史 (シリーズ・はじめて学ぶ文学史)柴田翔・編著(ミネルヴァ書房
「グリム童話」をドイツ語で読む―楽しく学べる生きた外国語 (二十一世紀図書館 (0041))』小塩節・著(PHP研究所
聞いて読む初版グリム童話―ドイツ語朗読CD付』吉原高志、吉原素子・著(白水社
ドイツ語のすすめ (講談社現代新書 26)藤田五郎・著
グリム童話集 (ドイツ名作対訳双書)』中村耕平・訳注(第三書房)
http://www.surugadai.ac.jp/sogo/media/bulletin/Ronso40/Ronso.40.137.pdf(教材としてのグリム童話