『ゴッドファーザーPARTⅢ』

この週末は、ブルーレイで『ゴッドファーザーPARTⅢ』を見た。

ゴッドファーザー PART?<デジタル・リマスター版> [Blu-ray]

ゴッドファーザー PART?<デジタル・リマスター版> [Blu-ray]

1990年のアメリカ映画。
思い起こせば、僕が高校卒業後、上京して初めて映画館で観たのが本作であった。
今は亡き池袋の日勝映画か東急か、どちらかの劇場だったと思う。
「まもなく上映終了」とあったので、急いで観たように記憶している。
ゴッドファーザー』のPart.1とPart.2は、もしかしたら小学生くらいの時にテレビで見たかも知れない。
でも、この時点では、ほとんど覚えていなかった。
前作を見ずに続編を見るというのは、キツイものである。
正直なところ、ほとんど理解出来なかった。
その後、池袋の文芸坐でPart.1とPart.2を一挙上映したので、観に行った。
1と2は、その後もDVDやブルーレイ等で何度か見返している。
しかしながら、Part.3は、初めて映画館で観た時から一度も見返したことがなかった。
何と、それから早くも四半世紀が経過しようとしているのである。
月日の流れるのは早いものだ。
当時は、ほとんど理解出来なかった本作も、前作、前々作の流れを知っている今、見ると、非常によく理解出来た。
そして、公開当時は酷評された本作も、今見ると、正統派で完成度の高い、立派な映画であることが分かる。
これが「駄作」なら、昨今の映画は何と呼べば良いのだろう。
CGや3Dが、如何に映画を堕落させたか。
本作の監督は、Part.1、Part.2に続いて、『カンバセーション…盗聴…』『地獄の黙示録』の巨匠フランシス・フォード・コッポラである。
何でも、巨額の借金を背負ったコッポラが、それを返済するために無理矢理撮った映画らしい。
だから、アカデミー賞にも、7部門でノミネートされたが、無冠で終わった。
それでも、前述のように、今見ると、ちゃんとした映画なので、再評価されても良いかも知れない。
脚本は、コッポラと、『ゴッドファーザー』の原作者であり、『大地震』や『スーパーマン』の脚本も書いたマリオ・プーゾ
主演は、三部作ともに出演している、我らがアル・パチーノ
他にも、『スケアクロウ』『セルピコ』『狼たちの午後』『スカーフェイス』と、どの作品も素晴らしい。
『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』で、ようやく念願のアカデミー賞主演男優賞を受賞した。
共演は、『ゴッドファーザー』シリーズ、『アニーホール』のダイアン・キートン
アンタッチャブル』のアンディ・ガルシア
ゴッドファーザー』シリーズ、『ロッキー』シリーズのタリア・シャイア
ドン・マイケル・コルレオーネの娘役が、監督の娘ソフィア・コッポラ
彼女が、本作の酷評の一因であることは疑いない。
他の出演者達から、明らかに浮いている。
何と言うか、悪目立ちし過ぎだ。
本当は、ウィノナ・ライダーが出る予定だったらしい。
彼女が出ていたら、大分雰囲気もまともになっただろう。
まあ、万引き女優ではあるが。
それから、『ディア・ハンター』のジョン・サヴェージ
『荒野の七人』『西部開拓史』『続・夕陽のガンマン』『ザ・ディープ』のイーライ・ウォラック
『ルームメイト』『アサシン』のブリジット・フォンダ
余談だが、僕は彼女が結構好きだった。
まあ、『アサシン』は、『ニキータ』の素晴らしい人間ドラマを全て骨抜きにしてアクションだけにした大駄作だったが。
本作では、アンディ・ガルシアの「行きずりの女」みたいな扱いで、出番が少ししかないのが残念である。
彼女は最近、見ないけれど、どうしているのだろうか。
更に、『エル・シド』のラフ・ヴァローネ。
あと、ヘルムート・バーガーも出ている。
出演者は、かくも豪華である。
惜しむらくは、前作、前々作でコルレオーネ・ファミリーの顧問弁護士を演じたロバート・デュヴァルが出なかったこと。
代わりの弁護士は、サラリーマンのようで味気がない。
これも、本作の低評価の原因だろう。
音楽は、『道』『カビリアの夜』『サテリコン』『太陽がいっぱい』『じゃじゃ馬ならし』『ロミオとジュリエット』『ゴッドファーザー(シリーズ)』『ナイル殺人事件』の大巨匠ニーノ・ロータ
この曲がなければ、『ゴッドファーザー』じゃない。
しかし、彼は既に故人だったので、実質的には、コッポラの父カーマイン・コッポラが担当している。
撮影は、『ゴッドファーザー(シリーズ)』『大統領の陰謀』『アニー・ホール』のゴードン・ウィリス
編集は、『アメリカン・グラフィティ』『カンバセーション…盗聴…』『ゴッドファーザーPARTⅡ』『地獄の黙示録』のウォルター・マーチ
いつものテーマ曲から始まる。
舞台は1979年のニューヨーク。
ツイン・タワーが未だある。
マイケル・コルレオーネ(アル。パチーノ)は、子供達に手紙を書いている。
兄殺しの回想(Part.2のフレド殺し)。
マイケルが創設した財団が多額の寄付をし、バチカンから勲章されることになった。
画面は、相変わらずセピア調で美しい。
財団の名前は、マイケルの父親の名前を取って、「ビト・コルレオーネ財団」。
しかし、実態は汚いカネを積んで名誉を買っているのである。
S教新聞に、よくS価G会のI田D作先生が海外の大学から名誉博士号をもらったり、ナントカ市の名誉市民の称号を受けたりしているのが載っているが、あれを思い出した。
と書くと、熱心な信者の方々に怒られるだろうか。
僕は昔、雑誌の広告担当をしていたことがあって、目黒の雅叙園で行なわれた某NPO法人の設立パーティーに呼ばれたことがある。
これが、実はテレクラの社長連が中心になって設立したNPO法人で、アフリカの黒人の飢えた子供達の写真なんかがスライド上映される会場で、ヴィトンのバッグから取り出された札束が舞っていた。
この光景には、強烈な違和感を覚えた。
ヤクザが教会に寄付して勲章をもらうなんて、悪い冗談だろう。
マイケルの妹コニー(タリア・シャイア)や、元妻ケイ(ダイアン・キートン)も出て来る。
マイケルは長男のアンソニーと対立している。
息子は、オヤジの稼業を継ぎたくないと言う。
そりゃそうだろう。
だから、大学(法学部)を中退して、オペラ歌手になりたいと。
これが、クライマックスへの重要な伏線となる。
まあ、結論から言うと、息子は成功して歌手になる。
息子を中心としたオペラの公演が大々的に開かれるが、それに招待された客は皆、オヤジの関係者、つまりヤクザだ。
結局、この息子は全然足を洗えていないのである。
それから、マイケルは元妻のケイとも対立している。
Part.2では、マフィアのドンになってしまったマイケルの、妻への冷たい仕打ちが描かれていたが、結局、二人は離婚してしまったのだ。
マイケルの長兄ソニーの息子ヴィンセント(アンディ・ガルシア)が台頭して来る。
何故か、大人になるまでマイケルは顔も知らなかったのだが。
マイケルに献身的に仕えることになる。
マイケルの長女メアリー(ソフィア・コッポラ)は、重要な役どころなのだが、前述のように浮いている。
まあ、結末をバラしてしまうようだが、本作には『リア王』の要素がある。
マイケルがリアで、メアリーがコーディリアだ。
だが、やはりコッポラの娘には荷が重かったようだ。
コッポラの親バカと、作品の中のマイケルの親バカがダブって見える。
ヴィンセントは、新興ボスのジョーイ・ザザと対立する。
バチカンのギルディ大司教がマイケルに秘密の相談。
コルレオーネに、インモビリアーレという不動産会社買収のための出資のお願い。
教会の偉い人が、こんなにカネ絡みで汚れているなんて。
ああ、イヤな世の中だ。
それにしても、僕は初めて本作を観た時、如何に理解していなかったかが分かる。
この買収には、法王の許可がいるのだが、法王の重篤な病で許可が得られず、破談になりそうだ。
ストーリーはゆったりと流れる。
ジョーイ・ザザとの確執は悪化し、今やコルレオーネ・ファミリー全体を巻き込んだ対立に発展していた。
ある時、コルレオーネの友好ファミリーのドンが集まった会合で、ヘリによる派手な襲撃事件が起こる。
マイケルは、ヴィンセントの導きで逃げ、何とか無事だった。
この襲撃はジョーイ・ザザが行なったことは間違いないが、裏に手を引いている親玉がいるはずだ。
それが、ドン・アルトベロ(イーライ・ウォラック)であった。
これが、とんだ一杯食わせ者なのだ。
イーライ・ウォラックは、さすがの名演である。
マイケルは「足を洗えたと思ったら、また逆戻りだ」と言う。
けれども、いくら合法ビジネスに転換したなどと言い張っても、所詮はヤクザなのである。
と思ったら、マイケルは突然、発作を起こして倒れ、入院することになる。
糖尿病であった。
マイケルの留守中、教会でコニーとヴィンセントがジョーイ・ザザへの復讐の話しをする。
キリストの像の前で殺しの相談とは、皮肉だ。
マイケルの病状は、かなり深刻なようだ。
一方、メアリーとヴィンセントは恋に落ちる。
いとこ同士の恋である。
ここで、やはりソフィア・コッポラを起用したのは失敗だったのではないかという気がする。
祭の日、ジョーイ・ザザ一味が抗争を引き起こす。
ヴィンセントは、ザザを撃ち殺す。
これには、コニーの「殺せ」という助言があったのだが、マイケルは「勝手なことをするな」と激怒する。
そして、「娘に手を出すな」とも。
ギルディ大司教バチカン銀行は密接につながっている。
やだねえ、カネまみれの聖職者。
マイケルの前で、歌手になった息子のアンソニーが、ギターの弾き語りをする。
曲は「ゴッドファーザー 愛のテーマ」。
僕は公開当時、本作のサントラまで買ったのに、「愛のテーマ」が使われていることに気付かなかった。
まあ、この曲がないと『ゴッドファーザー』じゃないよなあ。
この曲は後半に、もう一度流れる。
マイケルは、メアリーにも「ヴィンセントと付き合うのはよせ」と忠告する。
けれども、メアリーは頑なに「No!」と言う。
ヴィンセントは、敵であるドン・アルトベロの内情を探るため、彼の懐に潜り込もうとする。
相手に疑われないように、「娘と駆け落ちしたいと相談しろ」とマイケルは助言する。
ヴィンセントがアルベルトの元へ通い始めると、黒幕には更にドン・ルケージも絡んでいることが分かって来た。
さあ、これからどうなるか。
本作は、公開時は酷評されたが、改めて見ると、正統な続編であることが分かる。
ゴッドファーザー』の場合、Part.2の評価がものすごく高かったので、Part.3に対する期待もそれだけ大きく、失望を招いてしまったのだろう。
でも、「続編」には破綻している作品も多々ある中で、このPart.3は十分に及第点を与えられるレベルではないか。
コッポラは、やはり才能のある監督である。
実際にあった事件をモチーフにしているが、それらを知らなくても、ちゃんと理解出来るように作られている。
本作が酷評された理由の一つに、「マイケルの懺悔ばかり」というのがあった。
確かに、マイケルが泣くシーンまである。
しかしながら、ヤクザのドンの心の内をさらけ出すと、こうなのではなかろうか。
表では血で血を洗うような抗争ばかり。
人間なら、苦しまない訳がない。
クライマックスの劇場のシーンは、オペラの音楽をバックに、畳み掛けるような編集で見せて、実に映画的である。
ラストシーンは、あえてロング・ショットで、マイケルを中心に置かず、「盛者必衰」や「因果応報」を表現したのではないか。
静かで、余韻の残るエンディングであった。
いずれにせよ、『ゴッドファーザー』は、映画史上に残る大河シリーズであることは間違いない。
1991年の洋画興行収入7位(ちなみに、1位は『ターミネーター2』。邦画の1位は『おもひでぽろぽろ』)。