『十二人の怒れる男』(1957)

この週末は、ブルーレイで『十二人の怒れる男』(1957)を見た。

1957年のアメリカ映画。
監督は、『狼たちの午後』『評決』のシドニー・ルメット
撮影は、『波止場』のボリス・カウフマン
主演は、『戦争と平和(1956)』『間違えられた男』『史上最大の作戦』『西部開拓史』『ウエスタン』のヘンリー・フォンダ
共演は、『サイコ』『ティファニーで朝食を』『トラ・トラ・トラ!』『大統領の陰謀』のマーティン・バルサム、『波止場』『西部開拓史』『エクソシスト』のリー・J・コッブ、『トラ・トラ・トラ!』のE・G・マーシャル、『地上より永遠に』『大統領の陰謀』『ナイル殺人事件』『チャンス』『評決』のジャック・ウォーデン
僕は浪人中に、本作のパロディーである、三谷幸喜の『12人の優しい日本人』という映画を観た。
三谷幸喜という人はパロディーばっかりだが。
「もし日本にも陪審制があったら」という設定だったが、いつの間にか、「裁判員制度」なるものが導入されてしまった。
僕は、アメリカの猿真似である、この制度には大反対だが。
と言うのは、日本には陪審制は合わないと思うからである(理由は後述)。
しかし、導入されてしまったものは仕方がない。
これと法科大学院を併せて、司法制度改革は大失敗であった。
で、オリジナルである本作は未見だったが、今回、ようやく見ることが出来た。
ユナイテッド・アーティスツ
モノクロ、ワイド。
舞台はニューヨークの法廷。
殺人事件の裁判。
裁判長が評決について宣言し、陪審員は退廷する。
被告の少年の不安げな顔のアップ。
なお、被告の少年はこの一瞬しか登場しない。
セリフもないし、名前も分からない。
穏やかで切ない音楽が流れる。
タイトル・バックは陪審室に入って行く男達。
本作では、それぞれの陪審員の名前も明らかにされない(最後に挨拶する二人は除く)。
本作を見て、最初に疑問に思うのは、12人の陪審員が全員、白人の男性だということだ。
人種や性別が偏っているのは、今では許されないだろう。
で、陪審室には旧式の扇風機が設置されているが、壊れている。
もちろん、エアコンもない。
暑くてたまらない。
ドアがロックされた。
本作では、登場人物の素性は全てセリフで表現される。
初めて陪審員になった者も、何回目かの者もいる。
トイレに行く者。
それぞれ職業もバラバラ。
ナイターに行くから早く終わらせようと言う不心得者もいる。
だが、セリフだけでそれぞれの登場人物のキャラクターを浮び上がらせる手腕は、シナリオのお手本と言えるだろう。
進行役は陪審員1番(マーティン・バルサム
被告の少年は父親殺しの容疑。
有罪になると、電気イスに送られる。
この時代には、未だ死刑制度があったのだろう(なお、僕は死刑廃止派である)。
最初に、有罪か無罪か、それぞれの陪審員の判断を投票で確認する。
評決は全員一致でないとダメ。
投票の結果は、1人が無罪、11人が有罪。
なお、無罪のことは「innocent」ではなくて、「not guilty」と言うんだな(有罪は「guilty」)。
無罪に投票したのは陪審員8番(ヘンリー・フォンダ)。
全員一致ではないので、話し合うことになった。
被告の少年は18歳。
8番は、簡単に死刑が決まってしまうのは納得が行かないという。
ここから、事件の全貌が(セリフを通して)少しずつ明らかになって行く。
少年はスラム街で生まれ、9歳で母親が死亡という、悲惨な人生を歩んで来た。
それぞれの陪審員に意見を聴いて行く。
一人目は「有罪は明らか」と言う。
二人目は「階下の老人の証言がある。」
3人目は「少年の証言が信用出来ない。」
4人目は「(殺人現場の向かいに住んでいる)女性の証言から。」
5人目はパス(しかし、彼はスラム街で育った)。
6人目は「親子の間に言い争いがあったから、動機がある。」
7人目は「ヤツは札付きの不良だ。」
ここで、8番が「確信に満ちた証言ばかりで妙だ。弁護士を変えたい」と言う。
事件の前に少年が買ったナイフは珍しいものだったが、少年はそれをどこかに落としたという。
ところが、8番は同じナイフを持っていた。
(余談だが、本作では皆、タバコを吸っている。今では考えられない。)
8番が取り出したナイフに、「とっとと片付けろ!」と、室内は騒然となる。
8番が譲らないので、残りの11人で、もう一度、無記名投票を行なった。
その結果、新たに「not guilty」が。
「誰だよ!」と、半ば犯人探しが始まったが、9番が「ワシだよ」と名乗り出る。
8番は「勇気ある発言だ」と讃える。
トイレ休憩の後、審議が再開したが、遊んでいるヤツらもいる。
8番がたしなめる。
8番の主張では、階下の老人が「殺してやる!」と少年が叫んだのを聞いたというが、現場は高架鉄道のそばで、叫び声は聞こえないはずだと。
死刑にするには、証言が正確でないと(これは、全くその通り)。
8番は、「証人の老人はウソをついているのではないか」と言う。
「殺してやる!」なんていう言葉は、日常的に使われている。
もし、少年が本当に父親を殺す気なら、聞こえるようには言わない。
この辺の議論は、非常に合理的で面白い。
陪審員の中に、偏見に満ちたヤツが何人かいて、コイツらがなかなか主張を変えないのだが。
彼らは、移民の陪審員に「英語もロクに話せないバカ」と言い放つ。
彼は、「アンタの英語も間違っている」と言い返すが。
アメリカ人(及び、イギリス人)は、未だに「英語が話せないのは野蛮人」と思い込んでいる。
こういう連中が支持しているのが、例のトランプな訳だが。
日本人の中にも、本気で「英語が話せない」ことを恥じる人達が多数いて、だから英会話学校が儲かるのだが。
日本人が英米人に英語を話せないことをバカにされたら、「じゃあ、お前らは日本語を話せるのか?」と言ってやればいい。
それはさておき、再度、投票をすると、また「無罪に変える」という者がいて、「有罪:無罪」が9対3になった。
被告の弁護士はヤル気がないらしい。
おそらく、貧困層だから、カネにならない国選弁護人なのだろう。
日本も、アメリカの後追いをして、訴訟社会になりつつあるようだが。
罪に問われるかどうかは、いい弁護士を雇えるかどうかに掛かっているようだから、他人事ではない。
続いて、「なぜ少年は家に帰ったか」が問題になった。
もし少年が犯人なら、警察に逮捕される可能性があるのに、自宅には戻らないだろうと。
再び、投票が行なわれると、「有罪:無罪」が8対4に。
転向した陪審員は「合理的な疑問を持った」と言う。
陪審員の日当は3ドル。
これが現在で言うと、幾ら位なのか分からんが。
日本の裁判員の日当も1万円位らしいから、高い金額ではないのだろう。
「私達には損も得もない」と8番は言う。
更に、「陪審員制度があるのが、この国が強い理由だ」とも。
市民が裁くのが民主主義だということだな。
まあ、この辺りまでは理解出来る。
最後まで有罪にこだわっているヤツらは、ネトウヨみたいなことを言う差別主義者だ。
インテリは弱者の見方であるし、そうあるべきだとも思う。
(だから、朝日新聞は左寄りであるべきだ。)
ただ、映画が終盤に差し掛かって来ると、無罪派が多数になって、有罪派を追い詰めようとする。
ものすごい視線で見つめて、無言の圧力を掛ける。
または、露骨に無視したり、態度に表わす。
これって、冒頭で8番が一人だけ「無罪」に入れた時に他の人達が取った態度より、もっと陰湿に見える。
ここが、どうにも受け付けない。
アメリカ人は、こんな状況でも、自己主張を続けられるのだろうが。
僕が最初に、日本での「裁判員制度」に反対だと言った理由は、日本人は同調圧力が強過ぎるからだ。
死刑の判断を下さなければならないような場面で、他の人達と違う意見を言える人は滅多にいないだろう。
「司法を市民の手に」なんて言えば、聞こえはいいが、日本人の国民性には合わない。
日本の裁判は、プロの手に任せるべきである。
という訳で、僕は本作の結末には納得が行かないが。
ただ、密室だけで進む物語の脚本は実によく出来ていると思うし、サスペンスの盛り上げ方も素晴らしい。
社会派と言われるシドニー・ルメットだが、これがデビュー作とは思えない。
ヘンリー・フォンダ以外は当時、無名の役者だったらしいが、後に何人も性格俳優として活躍しているように、演技も素晴らしい。
ベルリン国際映画祭金熊賞受賞。