『ラストエンペラー』

この週末は、ブルーレイで『ラストエンペラー』を再見した。

1987年のイタリア・中国・イギリス合作映画。
監督は、『ラストタンゴ・イン・パリ』のベルナルド・ベルトルッチ
撮影は、『ラストタンゴ・イン・パリ』『地獄の黙示録』『レッズ』のヴィットリオ・ストラーロ
主演は、『キングコング(1976)』のジョン・ローン
僕の母が彼のファンだった。
「好きな俳優は?」と訊かれたら、「ジョン・ローン!」と即答していた。
最近は見ないが、どうしているのだろうか。
共演は、『アラビアのロレンス』『天地創造』『007 カジノロワイヤル』のピーター・オトゥール
僕はおそらく、本作を見るのは3度目だと思う。
最初は、実家にいた頃、テレビの洋画劇場で見た(ような気がする)。
当時、ものすごく話題になっていた。
でも、内容はほとんど覚えていない。
2度目は、大人になってから、DVDで見た。
それでも、やはり内容はロクに覚えていなかった。
情けない。
テクニカラーシネスコ・サイズ(テクノビジョン)。
中華風のエキゾチックなテーマ曲。
1950年の満州(中ソ国境)から始まる。
汽車が駅のホームに入って来る。
降りて来る兵士達。
彼らは戦犯である。
その中に愛新覚羅溥儀ジョン・ローン)がいる。
「口を聞くと厳罰」と言われ、誰も話さない。
街の建物の壁には革命の絵が描かれている。
(元)皇帝に気付いて、ひれ伏す人々。
収容所に着き、一人立ち去り、空き部屋にこもる溥儀。
手首を切る。
「Open the door!」と叫ぶ監視官。
本作は、中国人も全員、英語のセリフを話している。
これが、強烈な違和感である。
昔のハリウッド映画と違い、中国との合作なので、ちゃんと中国でロケして、中国人の役者が多数、出演している。
それなのに、何故セリフが英語なのか。
英語のセリフじゃないと、アカデミー作品賞は獲れなかっただろうが、映画の舞台とセリフの言語について、もっときちんと考えるべきではないかと思う。
映画の雰囲気は素晴らしいが、セリフを聞くと、興醒めなのである。
溥儀の回想で1908年の北京へ。
本作は、このように現代(1950年)の収容所の過酷な状況に置かれた溥儀と、皇帝時代の華麗な溥儀を自在に行き来することで、それぞれの対比を浮び上がらせると共に、長い作品にリズムを与えている。
辮髪の坊や(3歳の溥儀)が神輿に乗って紫禁城へやって来る。
実母が乳母アーモに溥儀を託してだ。
「I want to go home!」と溥儀が叫ぶ。
城に着くと、西太后が座っている。
西太后が溥儀を呼ぶ。
男性は、夜は紫禁城に入れない。
ただ一人、皇帝を除いては。
昨日、先代の皇帝が亡くなった。
溥儀を皇帝に指名し、西太后は亡くなる。
即位式で、退屈な溥儀は、コオロギを追って外へ走り出す。
そりゃそうだろう。
何も分かっていない坊やなのだから。
なお、これはラストにつながる重要な伏線。
城の広い庭に出ると、大勢の臣下達がひれ伏している。
溥儀はおウチに帰りたがる。
もちろん、そんな願いは聞き入れられない。
風呂に入れられる溥儀。
3歳児のおちんちんが無修正で写っている。
現代の日本の法律に照らすと、これは児童ポルノに当たる。
映画史上に残る名作を児童ポルノ扱いするとは、国家権力は断じて許せない。
ウンチまで観察される。
城へアーモが様子を見に来る。
思わず彼女に抱き付く溥儀。
寝床では、アーモが溥儀に絵本の読み聞かせをする。
幸福な幼児時代。
ビンタで叩き起こされ、現代(1950年)に戻る溥儀。
自殺を図ったが、裁判に掛けるために助けられたのだ。
収容所の同室に、実弟の溥傑が入って来る。
回想。
溥傑の少年時代、弟の溥傑が城にやって来る。
母親と7年ぶりの再会。
幼い子供が、母親や兄弟と何年も無理矢理離されて暮らさなければならないとは、異常である。
中国の皇帝制というのが、このような歪な状況を強いながら維持されて来たことが分かる。
同じことは、日本の天皇制にも言える。
天皇の退位や、皇室の女子の結婚相手を巡っての大騒動等を見ると、天皇制というのが、如何に現代にそぐわない異常な制度であるかが分かるのである。
天皇は、即位を拒む権利も、自ら辞める権利もない。
生まれながらにして、天皇として生きることが運命付けられている。
日本国憲法基本的人権を定めているのに、天皇には人権すらないのである。
日本でも、そろそろ憲法1条を改正して、現天皇を「ラストエンペラー」にすべきではないか。
僕は安倍政権を支持しないが、憲法改正論者である。
話しが逸れた。
城の周囲の人々は溥儀が通ると、背中を向ける。
一般人は皇帝を見てはいけないのだ。
おそらく、天皇が現人神とされた戦前の日本でも同じような状況だったのだろう。
いや、戦後の日本でも、ある時期(と言っても、僕が物心ついた後でも)までは、映画等で天皇の姿を写さず、玉座か後姿だけだった。
ハリウッド映画で、ある時期までキリストを直接的に描かなかったようなものか。
溥儀と溥傑は無邪気に「鬼ごっこ」と言って走り出し、部下が後を追う。
滑稽だが、映像的には優雅で美しいシーン。
アーモの乳を吸う溥儀。
ちょっとおかしい。
彼は当時、10歳位だろうか。
以前、AKBの誰だかの写真集で、少年が彼女の乳を両手で隠しているとして、「児童ポルノだ」と騒ぎになったが、10歳の少年に成人女性の乳を吸わせたら、現代では確実に児童ポルノ扱いになって、監督が逮捕されるだろう。
で、「兄ちゃんは皇帝じゃない!」と溥傑が溥儀に言って、大ゲンカになる。
溥儀が、「皇帝である証拠を見せる」と、部下に命じてインクを飲ませる。
幾ら皇帝の命令は絶対だからといって、こんな不条理が許されるのか。
だが、溥傑が城の外へ溥儀を連れて行き、共和国大統領の車を指し示して見せる。
城外の人々は、最早溥儀にひれ伏さない。
溥儀は、城内でのみ皇帝なのである。
まあ、現代日本の象徴天皇のようなものか。
中国は共和制になった。
アーモが城から連れ出される。
溥儀は、「朕の好きな女だ!」と叫び、アーモを追い掛けて走る。
少年が乳母に恋愛感情を抱くというのは、フィクションならともかく、現実世界では、どうなんだろう。
それくらい、愛情に飢えていたということだろう。
城の庭は、最早草ぼうぼうであった。
これは実に象徴的で、いいシーンだね。
現代へ。
ここは人民局の政治犯収容所である。
戦前は、日本軍の監獄だった場所だ。
所長は怒りの演説を行なっている。
続いて、所長は自室で『紫禁城のたそがれ』という本を読んでいる。
回想。
共和制中国は腐敗し、軍閥の時代へ。
「取消二十一條」の垂れ幕を持ってデモ行進する学生達。
軍隊と衝突する。
安保反対のデモを弾圧する安倍政権のようだ。
一方、紫禁城には、イギリスから家庭教師のレジナルド・ジョンストン(ピーター・オトゥール)がやって来る。
城の「毒味役」というのが出て来るが、これも理不尽な職業だ。
たとえ高給を積まれても、こんな仕事はしたくない。
福島の原発の作業員みたいなものだ。
溥儀は、世界の皇帝の暗殺話しをジョンストンに聞く。
城外で何かが起きている。
銃声と悲鳴。
溥儀は、何があっても紫禁城から出られない。
溥儀は、ジョンストンから自転車の乗り方を習う。
母親がアヘンを飲んで自殺した。
溥儀は、母と弟に会いに行くと自転車に乗るが、城門を閉められる。
「Open the door!」と叫んでも、誰も言うことを聞かない。
溥儀は、「(母親に会いに)行きたい!」と屋根の上で騒ぐ。
西洋人の医師から、「メガネを掛けないと失明する」と言われるが、保守的な周辺は、「皇帝にメガネなどいけません」と言う。
メガネも掛けられないのか。
裕仁だってメガネを掛けていたのに。
しかし、時代は変わった。
溥儀は、ジョン・レノンのような丸メガネを掛ける。
そんな皇帝が、今や囚人なのであった。
この悲哀。
溥儀のお后選び。
何人もの写真を見せられる。
「モダンな女がいい。英語やフランス語が話せて…」
いえいえ、あなたのセリフが、既に英語じゃないですか(とツッコミたくなる)。
「朕は逃げ出したい。オックスフォードへ行きたい。」
溥儀は、17歳の婉容(ジョアン・チェン)を皇后に、12歳の文繍(ウー・ジュンメイ)を第2皇妃に選んだ。
相手は、「結婚相手も自由に選べなかった」と言う。
まあ、これも現代では考えられないだろう。
結婚は、基本的に両性の同意に基づくのだから。
けれども、皇室では、相手が母子家庭だとか、借金があるからと、結婚にブレーキが掛かる。
僕なんか、皇室じゃなくて、本当に良かったよ。
で、溥儀は、初夜にもお付きの者が付く。
そんなところにまで他人がいるなんて。
AVの撮影じゃないんだから。
プライバシーなんて、どこにもない。
婉容は、「きっとあの人を好きになるわ」と言う。
このセリフも、最後まで見ると、悲しいのだが。
しかしながら、現代(1950年)に戻ると、溥儀は「囚人981号」なのであった。
収容所の所長(英若誠)に尋問されながら、「君は反逆者そのもの、反革命そのものだ!」と激昂される。
まあ、歴史を振り返ると、革命を経ると、その前の権力者は、大抵、無惨に処刑されるのだが。
革命と言っても、結局は、権力の移譲に過ぎない。
再び、回想。
溥儀は、「朕の辮髪を自分で切る」と。
溥儀というのは、世界史の教科書にイラストで載っていたように、満州人の象徴なのだが。
これを切る権利もなかったのか。
「前の皇帝は、改革を望んで殺された。」
やはり、近代化と天皇制とは相容れないのか。
溥儀は、眠る時もピストルを持っている。
イヤだね。
寝る時くらい、ゆっくりと落ち着いて寝たいね。
婉容と文繍が寝床に入って来る。
3Pかよ。
王様と私』もそうだったが、本作でも、一夫多妻制に対する蔑視が伺える。
西洋では一夫一婦制だからなのだが。
もっとも、僕も一夫一婦制の方が、夫婦は円満だと思うが。
嫁同士で嫉妬が渦巻く世界なんて、考えただけで面倒臭い。
その時、保管庫に火事が起こる。
宦官達が放火して、自らの使い込みを隠蔽したのだ。
溥儀は、800人の宦官全員を追放する。
現代(1950年)へ。
所長から、日本との関係を追及される。
再び、回想。
ついに、共和国政権は崩壊へ。
溥儀らは、紫禁城から追放される。
余談だが、本作では、セリフは英語なのに、書き物は漢字である。
ますます違和感。
第2皇妃の文繍は離婚を望むが、皇帝には離婚の自由もない。
ジョンストンはイギリス大使館へ連絡して庇護を求めるが、国際問題になることを恐れ受け入れず、結局、溥儀に手を差し伸べたのは、日本だけだった。
ここまでが前半。
さあ、これからどうなる?
歴史に翻弄された男の物語。
大河ドラマ
壮大なスケール。
素晴らしい美術と衣装と、各国の豪華な役者を揃えた超大作。
もう、こんな映画は作れないであろう。
で、後半、日本軍が登場するが、彼らは日本語を話す。
日本人が日本語を話しているのに、中国人が英語って、おかしいだろ。
溥儀は、『TIME』の表紙にもなったんだな。
本作では、日本は完全に悪者である。
まあ、歴史的に見て、仕方がないんだが、日本人としては複雑な気持ちになる。
あと、アヘン中毒の描写が恐ろしい。
最後の方に、文化大革命で、「造反有理」を叫ぶ紅衛兵が出て来る。
当時の中国は、現在の北朝鮮と全く同じに見える。
監督は、コミュニストだったらしいので、反帝政の立ち場で本作を作ったのだろうが。
かと言って、共産主義の実験は失敗したと思う。
では、これからの時代、我々はどうすればいいのだろうか?
ラストは、非常に叙情的で、余韻があって、映画的である。
アカデミー賞作品賞、監督賞、撮影賞、脚色賞、編集賞、録音賞、衣装デザイン賞、美術賞、作曲賞受賞。
1988年洋画興行収入1位(ちなみに、邦画の1位は『敦煌』。中国を舞台にした大作がヒットした年だったんだな)。