『修道女』

この週末は、ブルーレイで『修道女』を見た。

修道女 Blu-ray

修道女 Blu-ray

1966年のフランス映画。
監督は、ヌーヴェルヴァーグの巨匠ジャック・リヴェット
彼の長編第2作である。
ジャック・リヴェットと言えば、『美しき諍い女』でカンヌ国際映画祭のグランプリを受賞した。
僕の好きなエマニュエル・ベアール(まさに、フランス人形のように可愛い)がヌードになっているというので、レンタル屋で借りて来て、見た覚えがある。
4時間もある長い映画(ビデオは2本組)で、延々と、エマニュエル・ベアールが裸になって、絵のモデルをしているという映画だった。
しかも、結局、完成した絵は映らない。
まあ、しかし、当時の映倫は、アンダー・ヘアの写っている映画は皆、修正して公開させていたが、さすがに、カンヌでグランプリを受賞した作品を修正するのはまずいだろうということで、ついに「ヘア解禁」されたといういわくつきの話題作であった。
はっきり言って、日本は後進国である。
僕は、ポルノも解禁すべきだと思っている。
人間に普通に付いているものや、普通の営みを、わざわざ修正しないといけないなんておかしい。
いつの時代の検閲制度だ。
そして、守らなければ、取り締まられる。
国家権力は、そんな下らないことに労力を使っているヒマがあるのなら、もっと巨悪を懲らしめろ!
(と言っても、絶対にやらないだろうが。)
話しを元に戻そう。
あと、ジャック・リヴェットの作品だと、『セリーヌとジュリーは舟でゆく』は、僕が学生時代、フランス映画を片っ端から見まくっていた頃に公開されているので、観たような気がするのだが、内容は全く覚えていない。
で、『修道女』だが。
製作は、『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』のジョルジュ・ド・ボールガール。
主演は、『気狂いピエロ』のアンナ・カリーナ
アルファヴィル』にも出ていたな。
まあ、この頃のゴダールの奥さんだからな。
共演は、『フレンチ・コネクション2』のシャルル・ミロ。
カラー、ワイド。
本作は、修道院の腐敗を描いているので、反対運動が起こって、上映禁止になったらしい。
だから、最初に、字幕で「この映画はディドロの小説『修道女』から翻案したもので、18世紀の修道院の実態を描写したものではない」と言い訳している。
でも、多分、実態は似たようなものだったのだろう。
本作で描かれる修道院は、ディドロが責任者。
ディドロダランベールと並んで、世界史の教科書に出て来た(何をした人だったかは、もう忘れたが)。
当時の修道院は、結婚まで娘を閉じ込めておく所だった。
そして、腐敗堕落していたという。
原作にはモデルが実在するらしい。
俗世を逃げ出し、神に仕えるフリをするだけ。
以上のような解説がある。
最初に、「実態を描写したものではない」と言いながら、「モデルが実在する」って。
この映画の置かれた、苦しい立場がうかがえる。
舞台は、1757年のパリ。
貧乏貴族の三女マリ・シュザンヌ・シナモン(アンナ・カリーナ)は、修道女となる誓願の儀式で、「貞潔、清貧、服従を誓いますか?」と問われ、「いいえ」と答える。
「私は強制され、この場に連れて来られた!」と叫んで、大騒ぎになる。
さらに、「修道女にだけはなりたくない!」とわめいて、黙らされる。
これだけを見ても、宗教というのが、如何に偽善まみれか分かる。
けれども、当時は、公の場では到底、こんなことは言えなかったんだろうな。
最近だと、大川隆法の息子が教団の実態を暴露して、面白かったが。
僕は、完全な無神論者なので、如何なる宗教も一切、信じていない。
神も仏も、所詮は人間が考え出したものだ。
しかし、当時は、貧乏人の娘は、修道女になるくらいしか選択肢がなかったのだという。
一種の人身売買だな。
シュザンヌの実家は破産寸前であった。
だから、修道女になるしかないのであった。
3ヶ月が経過。
一旦は実家に戻ったシュザンヌであったが、神父に説得される。
しかも、母親から、シュザンヌは今の父親の実の娘ではないと打ち明けられる。
だから、今の父親は彼女に辛く当たるのであった。
財産も残されない。
しかも、母親も彼女のことを突き放す。
シュザンヌの実の父は、既に亡くなっていた。
母親は狂ったようにシュザンヌを罵る。
シュザンヌは、幾ばくかの供託金と引き換えに、ある有名な修道院に受け入れられる。
当然、前回は大スキャンダルを引き起こしたのだから、最初は難色を示されたのだが、最後はカネだ。
余談だが、当時の修道院が、どこからの資金で運営されていたのかにも興味が湧いた。
カネがなきゃ回らんからな。
如何に宗教と言っても、結局はカネだ。
僕の母は、某日本最大の新興宗教の熱心な信者だったが、毎年、「財務」という名の集金があった。
さらに脱線するが、彼らは選挙も宗教活動と思っているから、非常にタチが悪い。
自分達の主張とは全く違うはずの痔民や維チンに、組織上部の指示一つで、平気で一斉に票を回す。
しかも、それがかなりのまとまった数だから、結果として、日本の政治を左右してしまう。
つまり、一宗教団体に、日本の政治は動かされてしまっているのだ。
さすがに、先の沖縄知事選では、こうした動きに反発する末端の信者が現れたが。
ある宗教団体の中で、異端者がどんな扱いを受けるかは、想像だに難くない。
また、話しが逸れた。
シュザンヌは、歌が得意だったので、歌をうたわされる。
連れて来た母親は、娘を置いて、去って行った。
「意志を絶ち、本能を捨てよ、祈れ」と命じられ、修道院に入ることが認められた。
明日、2度めの修道誓願が行われるという。
シュザンヌは、前日から不安であった。
まあ、でも、一応、ここの修道院長モニは信用出来る人のようで、彼女のことを導こうとする。
当日、シュザンヌは儀式の最中に何を話したか、全く覚えていなかった。
しかし、これで正式に修道女になったのだ。
そんな折、彼女は母親の死を知らされる。
だが、母からの手紙は焼いてしまった。
更に、彼女は苦行衣を焼き、ムチを捨てた。
それは彼女なりの宗教的信念に基づくものであった。
今度は、院長のモニが亡くなる。
新しく院長になった聖クリスティーヌ修道女(美人!)は、前任者とは違い、狭量で独善的な女性であった。
突然、シュザンヌは部屋を検査され、所持を禁じられた聖書を没収される。
何故、キリストに仕える身なのに、聖書を所持してはいけないのだろうか。
シュザンヌは懲罰に掛けられる。
1週間、部屋から出ることを禁じられ、他のシスターにも近付くなと命じられる。
シュザンヌは、自分は会派に従うのではなく、キリスト教徒であるという自負があったが、そんな理想は、ここでは通用しない。
どうして、宗教は必ず派閥に別れてしまうのであろうか。
左翼の内ゲバと似ている。
で、シュザンヌは「死にたい」と思う。
彼女に対する集団の仕打ちは、完全にイジメである。
彼女は、今度は、部屋を移され、元の部屋を家探しされる。
新しい院長は、「あなたのやることはすべて罪よ!」とまで叫ぶ。
シュザンヌは、とうとう大司教に訴える手紙を書いた。
そのことを院長に疑われた彼女は監禁される。
三日目に、ようやく出され、「この件を口外しないで」と釘を差される。
シュザンヌは、「自由が欲しい」と強く願うようになった。
彼女に接見するために、弁護士がやって来る。
彼女は、修道女を辞めるための訴訟の手続きを依頼した。
弁護士は「ヒドイ仕打ちがあるだろう」と告げる。
当然ながら、院長は怒り狂い、激しい口論になる。
シュザンヌは全てがイヤになった。
「閉じ込められたくない!」
とうとう、院長は「悪魔に憑かれているのよ!」とまで言い出す。
最早、シュザンヌはここを出て行けなければ死にたいと思っていた。
彼女は、当分の間、聖務を禁じられる。
食事もなし。
他のシスターと話すことも禁止。
いじめ、唾吐き、罵り、虐待。
もう凄まじいね。
さあ、これからどうなる。
後半、彼女を襲う運命。
アンナ・カリーナは美人だから、説得力がある。
修道院を抜け出した者が、世間ではどんな扱いを受けたかも分かる。
本当に、個人の自由がない時代だったんだな。
ちょっと話しは逸れるけど、個人の自由がないという意味では、天皇制だって同じである。
だって、この現代においてすら、生まれた時から、天皇になることが決められている。
自分の意志などない。
まあ、今の天皇は退位が認められたが、これだって、全く自由な訳ではない。
七面倒臭い手続きが山程あるはずだ。
世間は「新元号」とか言って浮かれているが、僕は、平成で天皇制を廃止にすれば良かったのに、と真剣に思っている。
まあ、いいや。
で、本作はスゴイ結末を迎える。
そりゃ、キリスト教団体は上映に反対するわな。
図星なんだろ。

The Nun - Official Re-Release Trailer (1966)