日本近代文学を文庫で読む(第2回)『小説神髄』

「日本近代文学を文庫で読む」などと偉そうなタイトルで始めてしまった連載(?)ですが、最初は坪内逍遥の『小説神髄』を取り上げたいと思います。
前回、「読んで行く作品は、『詳説日本史』(山川出版社)に載っているものを基準にします」と書きました。
『詳説日本史』の近代の「おもな文学作品」には、『小説神髄』の上に、仮名垣魯文の『安愚楽鍋』、矢野龍渓の『経国美談』、東海散士の『佳人之奇遇』、末広鉄腸の『雪中梅』が挙げられています。
ただ、これらの作品は、文庫では、いずれも品切れか絶版になっていて、新刊書店で入手することは出来ません。
僕は、『安愚楽鍋』と『雪中梅』は読みましたが、これらは、数年前に岩波文庫の「リクエスト復刊」で復刊された時に、たまたま書店で見掛けて、買っておいたものです。
これらの作品は、戯作文学や政治小説と呼ばれています。
戯作文学・政治小説について、『詳説日本史』には、次のようにあります。

文学では、江戸時代以来の大衆文芸である戯作文学が、明治初期も引き続き人気を博した。また、自由民権論・国権論などの宣伝を目的に、政治運動家たちの手で政治小説が書かれた。

そして、注には、「戯作文学では文明開化の世相を描いた仮名垣魯文の『安愚楽鍋』などが、政治小説では立憲改進党系の政治家でもあった矢野龍渓の『経国美談』や東海散士の『佳人之奇遇』などがある」とあります。
これらについて、僕が大学入学後に再受験をしようと思って読んでいた代ゼミの田村秀行先生の『田村の[本音で迫る文学史]』(大和書房)では、次のようにスッパリと切り捨てているのです。

この文学史は、明治二十年前後から始める。
これよりも前に、近代文学史に載せるべきことがないわけではないが、特に重要なことではないから、その説明は第II部に回すことにする。

この参考書は、大学受験に特化しているのと、田村先生の個人的な主張が入っているので、国文学を真面目に研究しようとする学生が真に受けるのは危険な部分もありますが、明治二十年前後、つまり、坪内逍遥が『小説神髄』を発表した頃(明治18年)より前の文学(=戯作文学や政治小説)が、日本近代文学史にとって「特に重要なことではない」というのは、正しいでしょう。
同書には、次のようにあります。

明治十八年(一応このように書くが、無理に覚えなくてよい)、坪内逍遥が『小説神髄』を発表し、近代文学の目指すべき目的を示す。ここに「日本近代文学」は始まる。

要するに、『小説神髄』が日本近代文学のスタートだというのですね。
念のため、『詳説日本史』の記述も見ておきましょう。

戯作文学の勧善懲悪主義や政治小説の政治至上主義に対し、坪内逍遥は1885(明治18)年に評論『小説神髄』を発表して、西洋の文芸理論をもとに、人間の内面や世相を客観的・写実的に描くことを提唱した(写実主義)。

写実主義については、やはり『本音で迫る文学史』の説明が分かり易いので、次に引いておきます。

写実主義」とは、人間の心理や生活の有様などを、あるがままに描写しようという考え方である。こんなことは当たり前のようであるが、文芸では、古来、非現実的な夢の世界が多く描かれ、登場人物も現実には存在しないような人間や特殊な階級の者達が中心であり、普通の市民が描かれることは少なかった。従って、こうした「写実」という考え方は、近代になって生まれた特殊なものなのである。
絵画においても、人物や風景をそのままに描くという考え方は新しく、たとえば、中世では宗教的なテーマを表したり、王の権威を表すために絵を描いたのであって、世界のありのままの姿を写す“スケッチ”というものは、近代の産物なのである。文芸における「写実主義」は、この“スケッチ”という技法を取り入れたものである。これを、フランス語で「レアリスム」、英語で「リアリズム」という。

坪内逍遥は、僕が在籍していた大学の文学部の創設者です。
そのため、坪内博士記念演劇博物館という施設もありました。
シェイクスピア時代の「フォーチュン座」を模して作られた建物で、僕も学生時代に見学したことがあります。
その時は、「ゴジラ映画の歴史」みたいな展示をしていたような気がするのですが。
坪内逍遥については、『精選 日本文学史 改訂版』(明治書院)に、ごく簡単に略歴がまとめられているので、下に引きます。

坪内逍遥 安政六(一八五九)年―昭和十(一九三五)年。小説家・評論家・劇作家・英文学者・翻訳家。岐阜県生まれ。本名は勇蔵、後、雄蔵。東京専門学校(早大)の人となり、『早稲田文学』を創刊。戯曲『桐一葉』、シェイクスピア全訳などもある。

さて、『小説神髄』ですが、全編文語体で書かれているので、内容がスッと頭に入って来ません。
読むだけでも、通常の口語体の倍以上の時間が掛かります。
僕は時間をおいて、二度、読みました。
二度目の方が読み易かったような気はしますが、この難解な評論の内容を説明出来るかというと、難しいところです。
逍遥がこれを書いたのは23歳の時だとか。
恐るべき教養ですね。
という訳で、ロクに理解していない僕が下手なことを書くより、ちゃんとしたテキストに書かれていることを引用した方がいいと思うので、『はじめて学ぶ日本文学史』(ミネルヴァ書房)から引きます。

合本された上・下二巻本で言うと、上巻が原理論、下巻が作法論ということになり、原理論としては、小説は美術(芸術)であり、文学のなかで最も進んだ形態のものであるということ、小説は小説として固有の存在理由を内包した独立した芸術であるということ、そして小説は「人情」すなわち人間の内面を写して人生・人間社会を彫り上げるものであるということ、そうしたこれまでに見られなかった文学観を展開していた。
  小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。
と小説の目的を明らかにし、その描き方としては、旧来の「勧善懲悪」という道徳観から脱却し、合理的な心理学的認識に拠る「模写」、つまり写実に従うことがその主張の中心だった。下巻の文体論、脚色論、叙事法等にわたっての体系的な小説理論は、大きく時代を画するものとして、日本近代文学の黎明を告げ、逍遥の不滅の名を史上にとどめることになった。

逍遥が批判した「勧善懲悪」について、『本音で迫る文学史』は、もう少し分かり易く解説しているので、次に引きます。

一般に、新しい主義主張というのは、その前に流行っていた風潮に対する批判という面を持っているが、『小説神髄』が批判したのは、江戸時代の読み物の特徴であった「勧善懲悪」の考え方であった。「勧善懲悪」というのは、漢文の書き下し文にすれば「善を勧めて悪を懲らす」ということで、結局儒教の道徳を広めるものに過ぎないわけである。そして、そういう読み物では、人間が形式的に扱われ、善玉と悪玉、強者と弱者などがはっきりと区別されている。それに対して、『小説神髄』は、強者でも内面では弱気になることもあり、善玉でも悪いことを考えることもある、というように、人間心理の当然の有様をあるがままに描くのが文学の正しいあり方だと主張したわけである。
このときに、具体的に取り上げられて批判の対象になったのは、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』である。
ここで気をつけることは、日本近代文学の端緒となった『小説神髄』は、ジャンルで言えば評論であって、小説ではなかったことである。坪内逍遥は、その理論に基づいて『当世書生気質』という小説を書いたが、これは失敗作で、「写実主義」の理念を十分に表したようなものではなかった。

ちなみに、僕は『当世書生気質』(岩波文庫)も読みましたが、当時の学生の風俗が克明に描かれていて、なかなか面白かったです。
まあ、これ位で、安直ですが、岩波文庫の解説に書かれている程度のことは要約出来たと思うので、最後に、同文庫の解説の中で、当時の研究環境がよく分かる、逍遥自身の興味深い回想があったので、次に引いておきます(一部に変換不能な漢字あり)。

東大の図書館も其頃のは甚だ貧弱で、シェークスピヤの註釈は、ロルフとやつと出はじめてゐたクラレンドン版ぐらゐのもの、小説もヂューマ、スコット、リットン、ヂッケンスなぞが主位であり、単行本の文学論や美術論は英書では皆無、修辞書もベインなぞが第一であつたらう。さういふ有様であつたから、私は性格解剖法の参考としては、主として近着の外国雑誌の文学評論の部を、或は英文学史類を手当たり放題に抜き読みして、解つた限りを抄訳したり何かした。後に『小説神髄』として○(でッ)ち上げた材料の大概は此間の○○(くんせき)で、それをともかく組織立てはしたものゝ出所が全く別々なのだから、後に二葉亭に其根○(てい)を叩かれた時に、「何も無い」と答へないわけに行かなかつたほどに、それは薄弱な基礎の上に築かれた小説論であつた。

現在とは比較になりませんね。
こんな劣悪な研究環境の中で、近代文学の扉を開いた訳ですから、逍遥はやはりスゴイ人だったのでしょう。
岩波文庫
小説神髄』の、今、新刊書店で入手可能な文庫は、次の岩波版しかありません。

小説神髄 (岩波文庫)

小説神髄 (岩波文庫)

初版は、何と1936年!
現在、流通しているのは、2010年発行の改版です。
新しいので、オフセット印刷で、活字は読み易くなっています。
小説神髄』(上巻・下巻)の他に、初期の評論5篇を収録。
本編の後に、40ページ弱に及ぶ「注」、それから、「初版との主な異同」「解説」があります。
注・解説は宗像和重氏。
到底、読み易いとは言えない文語体の古典評論ですが、日本近代文学の黎明期の作品として、敬意を払って読みましょう。
【参考文献】
詳説日本史B 改訂版 [日B309] 文部科学省検定済教科書 【81山川/日B309】笹山晴生佐藤信五味文彦・著(山川出版社
田村の〈本音で迫る文学史〉 (受験面白参考書)』田村秀行・著(大和書房)
精選日本文学史』(明治書院
はじめて学ぶ日本文学史 (シリーズ・日本の文学史)』榎本隆司・編著(ミネルヴァ書房
当世書生気質 (岩波文庫)坪内逍遥・作(岩波文庫