イギリス文学史I(第4回)『カンタベリー物語』(その1)

チョーサーについて
ノルマン・コンクエスト(1066)以降、フランスからの新しい文化の影響を受けて、14世紀になると、詩の形式や種類、主題は豊富になりました。
この時代の代表的な詩人はジェフリー・チョーサー(Geoffrey Chaucer, 1340-1400)で、彼の代表作は『カンタベリー物語』(The Canterbury Tales, 1387-1400)です。
僕の手元にある高校世界史の教科書(『詳説世界史』)には、次のようにあります。

ルネサンス文芸は、古代ローマの伝統が強かったイタリアでまず展開した。イタリアには、『神曲』で知られる詩人ダンテやボッカチオらが出たが、その影響下にイギリスでもチョーサーが『カンタベリ物語』を著した。

なお、この教科書には、数行下にシェイクスピアが載っています。
200年も違う時代の人を、「ルネサンス文芸」の括りで同じページに載せてしまうとは、高校世界史恐るべしです。
それはさておき、『カンタベリー物語』は教科書に載っているものの、実際に読んだことがある人は少ないのではないでしょうか。
では、『カンタベリー物語』の著者・チョーサーとは、どのような人物だったのでしょうか。
『イギリス文学の歴史』(開拓社)から、チョーサーの生涯について書かれた箇所を引きます。

チョーサーは、ロンドンのぶどう酒商を営む豊かな家庭に生まれた。若いころから、小姓(page)として、宮廷に仕えた。このため貴族階級の人々と近づきになり、宮廷の風習・作法を学び、高い教養を身につけることができた。当時の宮廷は、まだフランス語が話され、フランスの文学や音楽などが楽しまれていた世界ではあった。したがって、チョーサーはフランス文学に接する機会に恵まれた。

彼は「百年戦争」の折、フランスの戦場へ赴き、また外交官として、フランス、イタリア、その他の国へ行く機会を持った。豊かな文学的天分に恵まれ、しかも大の読書家であった。各地の風物・人間に接し、細心の観察を続け、詩人としての成長をとげていった。
彼は生涯を通じ、外交官・税関の監督官・治安判事・国会議員などの仕事に従事し、余技・教養として詩作を行なったのである。1400年死亡。ウェストミンスター寺院の「詩人の墓所」(Poet's Corner)に葬られた。

チョーサーの作品は、通例、三つの時代に区分して考えられます。
再び、『イギリス文学の歴史』から引きます。

第1期――フランス期(1359-72) フランス語の作品や模倣の類の作品が多く、この時代のフランス文学の影響は、生涯を通じて、持続した。ことにフランスの韻文の寓意物語『バラ物語』(Roman de la Rose)を翻訳したことの意義は重要であった。この物語によって、チョーサーは、「宮廷風恋愛」といわれて来た中世ヨーロッパ文学における愛の伝統について知ることができた。この恋愛観は、彼の作品の随所に現われている。

第2期――イタリア期(1372-85) イタリアの詩人たちの影響を受けた時期で、この期の代表作は『トロイラスとクリセイデ』である。

第3期――イギリス期(1385-1400) 晩年の約15年間で、円熟の域に達し、もはや模倣的態度を脱し、独自の世界を確立した時期。この時期の成果が、『キャンタベリー物語』である。

第2期の『トロイラスとクリセイデ』とは、どんな作品なのでしょうか。
『はじめて学ぶイギリス文学史』(ミネルヴァ書房)には、「この作品は、ボッカチオ(Giovanni Boccacio, 1313-75)の『恋の虜』(Il Filostrato)にもとづいて書かれた物語詩で、トロイ戦争の一挿話を枠組に、トロイの王子トロイラスと若く美貌の未亡人クリセイデの悲恋を情熱的に、しかも気品高く描いたものである」とあります。
ちなみに、シェイクスピアの『トロイラスとクレシダ』は、元ネタの一つとしてチョーサーの『トロイラスとクリセイデ』も使っています。
先を急ぎましょう。
岩波文庫版『完訳 カンタベリー物語(上)』の巻末にある「チョーサーについて」には、更に詳しく、30ページ以上に渡って、彼のことが解説されています。
上で書いたことと重複する部分もありますが、簡単にまとめてみましょう。
ジェフリー・チョーサー(1343?~1400)が『カンタベリー物語』を書いたのは、44歳頃から晩年14年くらいの間でした。
シェイクスピアが、最後の作品『テンペスト』を書いた47歳で筆を絶った(共同執筆を除く)のと対照的です。
チョーサーは、ウェストミンスター寺院の境内に借りた小さな家で亡くなるまで『カンタベリー物語』を書き続けました。
それでも、本作は未完に終わったのです。
チョーサーは、14世紀のイギリスで国王に仕えた宮廷人あるいは公務員のジェフリー・チョーサーと同一人と考えられています。
14世紀の英国の王室記録には、宮廷人ジェフリー・チョーサーの記録はあっても、「詩人」チョーサーの名は記録されていません。
宮廷人チョーサーと詩人チョーサーを同一人とするのは、状況証拠によるのだそうです。
ジェフリー・チョーサーは、1340年頃、おそらくロンドンで生まれ育ち、ロンドンで一生を過ごしたのでしょうが、少年時代の記録は何も残っていません。
父親は、テムズ街で葡萄酒貿易商を営んでいたと考えられます。
チョーサーの家は、祖父の代に商売のためにロンドンへ移住して来たようです。
彼の家柄は、ロンドンでは裕福な上流市民階級でした。
これが、チョーサーの作品にも影響を与えています。
この時代のロンドンは人口4万で、イギリス最大の都市であり、国王の干渉からも比較的自由で独立していました。
チョーサーは、おそらくグラマー・スクールでラテン語の手ほどきを受けたのでしょう。
この時に、既にオウィディウスの『変身譜』等を読んだのかも知れません。
また、学校では、教授するのにフランス語が使われていました。
当時のグラマー・スクールの教育は、徹底的に宗教的・道徳的な色彩が強かったので、そこでキリスト教的な素養を身に着けたのでしょう。
その後、チョーサーは宮廷に出仕します。
ブルジョワ階級の者が宮廷に仕えるのは、立身出世のためでした。
1357年頃から、彼の名が王室記録に登場します。
彼は、環境の異なる中で、実に多くのことを学びました。
その頃、英国はフランスと百年戦争の最中にあり、チョーサーも従軍し、そして、フランス軍の捕虜になります。
1360年、英仏両国の講和が結ばれ、彼も自由の身となりました。
チョーサーの教養は、法律から、フランス語、ラテン語、イタリア語の語学の知識、歴史、神学、医学、錬金術の専門語、天文学占星術、文芸修辞学に至るまで、大変幅広いものです。
彼は、フランスやイタリアの詩を英語に翻訳し、その面でも才能を発揮していました。
例えば、フランスの恋愛詩『薔薇物語』等です。
更に、若い騎士見習だった彼は、公爵に命じられて、黒死病で亡くなった公爵夫人に対するエレジー『公爵夫人の書』を著します。
また、1370年代には、外交の重要な用務で、たびたびフランスやイタリアに派遣されました。
中でも、二度に渡るイタリアへの旅行の経験は、後に、『名声の館』『鳥の議会』『トロイルスとクリセイデ』等に表れています。
チョーサーは、英文学史上ほとんど初めて、イタリアの詩人ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオの文芸をイギリスにもたらしました。
『トロイルスとクリセイデ』は、ボッカチオの『恋の虜』を創作的に英語に翻案したものです。
チョーサーは、国内でも税関監査長等の重要な任務を拝命しました。
彼は、社会の様々な階層の人々のことをよく知り、それを創作に活かしたのです。
税関長を解任された後は、国会議員や治安判事、土木工事監督官をも務めます。
チョーサーは、妻が亡くなった1387年頃から『カンタベリー物語』の執筆に取り掛かりました。
そして、上に書いたように、未完のまま、1400年に亡くなります。
死後は、ウェストミンスター寺院に葬られました。
チョーサーの生きた14世紀は、古いものが滅び、新しいものが生まれようとしている、正に過渡期の時代でした。
世界史の教科書でも、「ルネサンス」の章に載っていますからね。
カンタベリー物語』は、このような新しい時代の胎動を告げる作品であり、また、中世的な古い慣習や精神も、その背景に見られる作品でもあります。
このような社会の活力が、ロンドンの英語の力で、より一層反映されました。
チョーサーが用いたのは、単純、直截な英語でした。
その上に、フランス語の柔らかな音律と響きを加え、フランス、イタリア、ラテンの言葉の意味の陰影を取り込んで、芸術的に洗練させたのです。
チョーサーは「英詩の父」と呼ばれています。
『講談・英語の歴史』(PHP新書)に、チョーサーの英文学史における位置付けについて、とても分かり易く書かれているので、見てみましょう。

チョーサーは「英文学の汚れなき泉」などと讃えられる大詩人で、英文学はここから始まるという人も大勢いる。オックスフォードから上智大学にいらしたミルワード先生は英文学をチョーサーから始めるのが普通だった。
これは伝統的な英文学のとらえ方である。今はオールド・イングリッシュから始めるが、それでも本当の英文学はチョーサーあたりから始まるといわれるほど、チョーサーの存在は大きい。

確かに、古英語時代の代表的な作品である『ベーオウルフ』なんかは、チョーサー以降の英文学と全く趣が違いますからねえ。
チョーサーの功績は、上にも何度も書いたように、イギリス文学の中に、フランス、イタリア等の南方文学の特徴を取り入れたこと。
それから、新しい作詩法を導入したことです。
これについては、『イギリス文学の歴史』に、次のようにあります。

チョーサーは、フランスの作詩法を学び、古期英語時代のイギリス詩の特徴であった頭韻の代わりに、脚韻を取り入れた。さらに、「弱強五歩格」(iambic pentameter)の行が、2行ずつ韻を踏む詩形を案出した。

更に、英語史においても重要なのは、標準英語を確立したことです。
『イギリス文学の歴史』を見てみましょう。

チョーサーは英語で作品を書いた。このことは英語史上で重要な意味を持つことであった。
当時、英語は、徐々に、威信を高めてはいたが、まだ多くの著作は、ラテン語かフランス語で書かれていた。チョーサーは英語で書くことによって、英語が適切な文学的表現の手段となりうることを証明した。
なお、そのころ、英語は、多くの方言に分かれていて、共通に理解される方言は、まだ存在していなかった。チョーサーがロンドン英語で書いたことが、(他の条件とともに)ロンドン英語が、標準英語(Standard English)の地位を確立することに大いに貢献した。

チョーサーは、後の英文学に多大な影響を与えました。
近代英語を確立させたのはシェイクスピアですが、それも、チョーサーの土台があってこそなのではないでしょうか。
カンタベリー物語』について
それでは、チョーサーの代表作である『カンタベリー物語』について、詳しく見て行きましょう。
再び、『イギリス文学の歴史』から引用します。

約1万7千行に及ぶ長大な物語詩。チョーサーの作品中の最大作であり、イギリス中世文学の最高傑作とされる。

キャンタベリー大聖堂のトマス・ア・ベケット墓所に参詣しようとする29名の巡礼が、テムズ河南岸の宿に落ち合い、旅の道中の退屈しのぎに、各人が、おもしろい話をすることになる。このようにして、集められた多くの話をまとめて、この物語集が構成されている。

本作の主題となったカンタベリー詣でについて、『イギリス文学の歴史』では、次のように解説されています。

キャンタベリーの町はロンドンから東南東約112キロ。巡礼の目指す大聖堂のある町。当時はロンドンから、馬または徒歩で3日か3日半の旅であった。巡礼者は、国中から集まり、ロンドンの旅宿で落合い、グループを作って出かけた。グループの方が、旅は楽しいし、道中の盗賊に対しても安全策となった。

『イギリス文学史入門』(研究社)には、カンタベリー詣でについて、「わが国のお伊勢参り善光寺参りを考えればよい」とありますが、うまいこと言うものですね。
そして、同書では、それぞれの巡礼者が、旅のつれづれに、面白い物語を聞かせることについても、「今日の観光バスの旅行で、マイクがつぎつぎに回されるのと、同じ趣向である」と言っています。
僕も高校時代、京都から長野へと向かうバスの中で、自分の持ち込んだテープをバックに、オフコースを歌ったものでした。
当時は、カラオケと言えば、未だ演歌しかなかったので、皆、自分の好きな歌(もちろん、ボーカル入り)をカセット・テープにダビングして、持って来るしかなかったんですね。
カンタベリー物語』は、最初の「総序の歌(プロローグ)」が有名ですが、この部分について、『イギリス文学の歴史』には、次のようにあります。

この物語は、全体の「序」ともいうべき「プロローグ」で始まる。この中で、物語に現われる全登場人物が紹介されている。宮廷人と乞食を除き、当時のあらゆる階層・職業のものから成る一行の人々は、簡潔ながら個性を持ったいきいきとした人間として、的確に描写されている。このプロローグは、チョーサーの文学的才能の偉大さを充分に示していて、それ自体で、独立の読みものとして高い評価を得ている。

チョーサーの作品は、英語史の時代区分で言うところの中英語(1100~1500年頃)で書かれています。
カンタベリー物語』は、正に中英語の代表的な作品です。
中英語は、古英語ほどではありませんが、現代英語とは語の綴りがかなり異なっているので、まるで別の言語のように見えます。
大学の英文科でも、中英語という科目が設置されている大学は少なく、仮に設置されていても、選択する学生は滅多にいません。
僕の在籍した大学でも、中英語の授業はありましたが、果たして受講者がいたのかは謎です(もちろん、僕も選択していません)。
渡部昇一氏は、『講談・英語の歴史』の中で、「私はミドル・イングリッシュの演習でチョーサーの『カンタベリー物語』のプロローグを読むことから始めたが、これは中英語の総まとめのようなものであり、プロローグが『カンタベリー物語』の神髄ともいえるから、初歩としては適切だったと、今でも思っている」と述べています。
まあ、大学の授業時間数を考えると、『カンタベリー物語』は余りにも長過ぎるので、最初の章だけ読んでお茶を濁していると言えなくもないでしょうが。
カンタベリー物語』全体については、『イギリス文学の歴史』では、次のように述べられています。

『キャンタベリー物語』に取り上げられている多種多様な物語の中には、ロマンス・笑い話・動物寓話・宗教物語・説教・結婚談義などがあり、これらが巧みに組み合わされていて、中世イギリス社会の一大絵巻を見る思いがする。
これらの物語は、すべてが、チョーサーが創作したものというわけではなく、多くは当時の人々によく知られていた物語である。チョーサーは、これらの通俗な物語を借りて、自分の考えを表現する手段として用いたのである。通俗な物語が、詩人の息吹を吹きこまれ、みごとな芸術品に仕上げられている。

岩波文庫版の下巻の巻末には、訳者・桝井迪夫氏による「『カンタベリー物語』について」が収められています。
しかし、研究者だから当たり前かも知れませんが、ひたすらチョーサーと『カンタベリー物語』を礼賛しているのです。
何の予備知識もなく初めて本作を読んだ僕のような初心者とは、かなりかけ離れたお考えなので、着いて行けません。
でも、仕方がないので、少し内容を紹介します。
チョーサーがいつ、どのようにして『カンタベリー物語』を構想し、具体化したかは、誰にも分かりません。
だから、学者が色々と推測しています。
物語にフレーム(枠)、いわば「額縁」をはめ込む様式は、オウィディウスの『変身譜』やボッカチオの『デカメロン』を初めとして、中世に例が多いそうです(オウィディウスは中世ではありませんが)。
カンタベリー物語』も、巡礼行という枠組みの中で、一人一人に話しを語らせるという形式を採っています。
現在の『カンタベリー物語』には、24の物語があり、その内の二つの物語(「料理人の話」及び「トパス卿の話」)は未完のままです。
この24の物語の内、散文である二つを除いても、1万7千行以上になります。
チョーサーの生きていた時代には、未だイギリスに活版印刷の技術は伝えられておらず、書物は主に写本の形で作られました。
カンタベリー物語』の最良の写本は、「エルズミア写本」と言われています(現在では、異論もあるそうですが)。
写本について、うまくまとめられているので、下に引用してみましょう。

中世は写本の時代であり、印刷文化ないし写本文化とも言われる時代である。チョーサーの作品は、はじめすべて写本によって伝えられた。『カンタベリー物語』の写本も、現存するものは八十種以上である。その最も古い写本として残っているものも、チョーサーの死後、一四一〇年代に作られた写本である。しかもチョーサーが校訂した写本ではない。写本文化の時代は口誦的な文化を中心とする。一方、読書による文化の獲得は印刷文化によらなければならないが、チョーサーの生きた十四世紀の後半においてはすでに写本を読む人たちもいたことが、チョーサーの「汝、読者よ」という呼びかけや、「聞きたいと思われない方はどなたもページをめくって別の話をお選びになって下さい」と言っているところなどからも知ることができる。

一方で、『カンタベリー物語』は、口誦文学でもあったのです。
再び、引用します。

カンタベリー物語』はしかし、口誦を中心とした構想で、語り手が聴衆に向かって話をするという、中世の語りものの伝統の上に立っている。語り手は巡礼として登場する人たちであり、そのときの聴衆は巡礼一同である。チョーサーも巡礼の一人であり、巡礼の仲間を紹介し、その役が終ると巡礼の中に入り、司会の役をハリー・ベイリーという宿の主人に任せて自分もその命令に従って話をする、というフィクションである。

『出版文化史の東西』(慶應義塾大学出版会)によると、イングランド活版印刷を導入したウィリアム・キャクストンが初めて出版した書物は、『カンタベリー物語』だったそうです。
なお、同書には、『カンタベリー物語』の写本と印刷の歴史が、大変詳しく述べられているので、興味のある方は、是非お読みになってみて下さい。
テキストについて
ペンギン版(原文)
原文(中英語)のテキストで最も入手し易いのは、次のペンギン版でしょう。

The Canterbury Tales: (original-spelling edition) (Penguin Classics)

The Canterbury Tales: (original-spelling edition) (Penguin Classics)

アマゾンで注文すれば、数日でイギリスから送られて来ます。
初版は2005年。
編者はJill Mann氏。
日本語訳だと岩波文庫で3巻にもなる全文を掲載しているため、1200ページ以上もあり、枕のように分厚い本です。
本文は、上段に原文、下段に語注というレイアウトになっていますが、本書の後半の3分の1以上が「Notes」や「Glossary」に充てられています。
それでも、中英語の知識のない一般人が、本書だけで内容を理解することは不可能でしょう。
そのため、現代英語版を参照する必要がありますが、こちらも入手し易いのは、僕の近所の調布市立図書館にも置いてあるペンギン版です。
ペンギン版(現代英語)
The Canterbury Tales (Penguin Classics)

The Canterbury Tales (Penguin Classics)

初版は1951年。
現在の改訂版が出たのは2003年。
訳者はNevill Coghill氏。
現代英語なので、辞書さえあれば読めますが、韻文にするためか、原文と微妙に表現が違う箇所が散見されるので、注意が必要です。
また、現代英語とは言っても、原文の雰囲気を出すためか、妙に格調高くて、難しいような気がします。
とは言っても、一般人が読めるのは、こちらしかないのですが。
翻訳について
岩波文庫版(上巻)
最終的に、一番頼りになるのは、やはり翻訳(日本語訳)版でしょう。
手に取り易い文庫版は、上述のように、全3巻で岩波から出ています。
完訳 カンタベリー物語〈上〉 (岩波文庫)

完訳 カンタベリー物語〈上〉 (岩波文庫)

改版発行は1995年。
翻訳は桝井迪夫氏。
「はしがき」によると、『カンタベリー物語』は聴衆を意図して作られた作品なので、翻訳に当たっては、なるべくその口調を出すように努めた、とあります。
一方で、原文におけるスタイルの違いにも応じるように配慮したそうです。
訳文は、比較的直訳調ですね。
原文は韻文で書かれていますが、翻訳は散文です。
上巻には、人名、地名、出典、事柄等について、60ページに及ぶ詳細な「訳注」が、また、巻末には原作者チョーサーについての解説が付いています。
「はしがき」の「付記」によると、昭和48年に『カンタベリー物語』上巻が刊行された後、訳者桝井迪夫博士は病に倒れ、続巻の原稿は出来上がっていたものの、出版は長い間、中断されていたそうです。
その後、3人の方々が改訳作業に当たられ、平成5年にようやく完成しました。
さて、『カンタベリー物語』は、身分も職業も様々な29人の巡礼達が、カンタベリーへの道中に、順番に話しをするという体裁を取っています。
それぞれの物語に内容的な関連はありません。
つまり、短編集のようなものですね。
上巻には、「総序の歌」「騎士の物語」「粉屋の話」「家扶の話」「料理人の話」「弁護士の物語」の6編が収められています。
「総序の歌」は、平たく言うと、登場人物の紹介のようなものです。
具体的なストーリーは、次の「騎士の物語」から。
まあ、よくあるギリシアやローマを舞台にした昔話のようなもので、現代人の感覚からは、さして面白いものではありません。
ところが、身分の高い騎士の物語から、次の粉屋や家扶の話になると、何とまあ、下ネタのオンパレード!
これが、本当にイギリス文学の古典中の古典なのかと思ってしまいます。
僕が初めて『カンタベリー物語』の名を知ったのは、昔、『キネマ旬報』の広告で、映画版のビデオ発売の広告を見た時でした。
未だ子供だったので、よく分かりませんでしたが、何だか、とてもエロそうな雰囲気です。
監督は、あのピエル・パオロ・パゾリーニ
どうしてパゾリーニが、こんな古典を映画化したのだろうかと、ずっと疑問に思っていましたが、原作を読んで、ようやく謎が解けました。
如何にも、彼の好きそうな内容です。
あと、全編を通して、キリスト教的な説教臭い教訓が、非常に目立ちます。
巡礼の話しですから、当たり前なのですが。
これが、クリスチャンでない我々には、退屈な部分です。
『ベーオウルフ』では、ほのめかされる程度だったキリスト教的なテーマが、本作では前面に出ています。
やはり、英文学を学ぶには、キリスト教の素養が必要とされるのでしょう。
岩波文庫版(中巻)
完訳 カンタベリー物語〈中〉 (岩波文庫)

完訳 カンタベリー物語〈中〉 (岩波文庫)

初版は1995年。
翻訳は桝井迪夫氏。
中巻には、「バースの女房の話」「托鉢僧の話」「召喚吏の話」「学僧の物語」「貿易商人の話」「近習の物語」「郷士の物語」「医者の物語」「免罪符売りの話」「船長の話」「尼僧院長の話」「トパス卿の話」「メリベウスの物語」の13編が収録されています。
相変わらず、チョーサーの教養をひけらかしているだけのような、大して面白くもない話しが続きますが、唯一の例外が「学僧の物語」でした。
これは、身分違いの侯爵と結婚した、余りにも従順な妻の話しですが、大変引き込まれ、最後まで一気に読んでしまいました。
有吉佐和子の『華岡青洲の妻』と、シェイクスピアの『冬物語』を合わせたような物語ですが。
まあ、現代では有り得ない話しですね。
それでも、考え込んでしまいました。
なお、僕は別に男尊女卑ではありません(フェミニストは大嫌いですが)。
巻末の「訳注」は30ページ弱。
この巻には、「解説」等はありません。
岩波文庫版(下巻)
完訳 カンタベリー物語〈下〉 (岩波文庫)

完訳 カンタベリー物語〈下〉 (岩波文庫)

初版は1995年。
翻訳は桝井迪夫氏。
下巻には、「修道僧の物語」「尼僧付の僧の物語」「第二の尼僧の物語」「錬金術師の徒弟の話」「賄い方の話」「教区司祭の話」の6編が収められています。
最初の「修道僧の物語」は、歴史上の偉人の転落の話しを列挙していて、「おっ」と思いましたが、何故か、途中で遮られてしまいました。
後の話しは、相変わらず面白くありません。
とにかく、宗教色が強過ぎるのです。
特に、最後の「教区司祭の話」は、延々と聖書の解説が続きます。
当時の文学は、一般大衆にキリストの教えを説くという意味もあったのでしょうか。
「訳注」は少なく、10ページほど。
映画化作品について
映画化作品としては、上述した、イタリアの鬼才ピエル・パオロ・パゾリーニ監督のものがありますが、僕は未見です。
【参考文献】
詳説世界史B 改訂版 [世B310]  文部科学省検定済教科書 【81山川/世B310】』木村靖二、岸本美緒、小松久男・著(山川出版社
イギリス文学の歴史』芹沢栄・著(開拓社)
はじめて学ぶイギリス文学史神山妙子・編著(ミネルヴァ書房
講談・英語の歴史 (PHP新書)渡部昇一・著
イギリス文学史入門 (英語・英米文学入門シリーズ)』川崎寿彦・著(研究社)
出版文化史の東西:原本を読む楽しみ』徳永聡子・編著(慶應義塾大学出版会)