『旅路の果て』

この週末は、ブルーレイで『旅路の果て』を見た。

1939年のフランス映画。
監督は、『我等の仲間』の、フランス古典映画の巨匠ジュリアン・デュヴィヴィエ
脚本は、『我等の仲間』のシャルル・スパーク
撮影は、『モンパルナスの灯』のクリスチャン・マトラ
音楽は、『我等の仲間』『北ホテル』のモーリス・ジョーベール。
主演はヴィクトル・フランサン。
共演は、『素晴らしき放浪者』のミシェル・シモン、『北ホテル』のルイ・ジューヴェ、フランソワ・ペリエ、『フレンチ・カンカン』『恋人たち』のガストン・モド。
『旅路の果て』はジュリアン・デュヴィヴィエの代表作である。
僕が学生の頃、行き付けだったレンタル屋の「名作映画」のコーナーに、ヴィットリオ・デ・シーカの『終着駅』、ピエトロ・ジェルミの『鉄道員』(ぽっぽやではない)などと一緒に並んでいた。
が、恥ずかしながら、この年になるまで見たことはなかった。
モノクロ、スタンダード。
哀しげなテーマ曲から始まる。
劇場の舞台裏。
慌ただしい衣装の準備。
デュマの『アントニー』が上演されている。
が、今夜も赤字だとボヤく関係者。
彼らは旅一座なので、あと11分で次の行き先へ出発しなければならない。
カーテンコールもなく、急いで幕を下ろす。
主役でスターのサン・クレールは大いに不満だ。
一座はバスに乗るが、サン・クレールは「もう潮時だ。私は田舎に引っ込む」と言い残して、去る。
彼は、南フランスのサン・ジャン・ラ・リビエールにある俳優専門の老人ホームへ。
そこには、彼の30年前の恋人シャベールや、彼が妻を寝取った役者のマルニーらがいる。
サン・クレールは色男だが、女ったらしであった。
老人ホームに着くと、早くも女性達は花を準備して待っている。
ここにいる人達はカネがない。
まあ、今の日本の高齢化問題にも直接つながる話しだ。
高額の老人ホームに入れる層はごく一握り。
特養なんて、特に東京では、何年待っても空かない。
僕には母方の祖母がいたが、実家(京都)で面倒を見ていた母(一人っ子)がガンで早死にしたため、僕(一人っ子)が面倒を見ることになった。
僕は東京で仕事もあるので、実家に戻る訳には行かない。
祖母を引き取ることも考えたが、「周りの人の話す言葉が変わると、急激に痴呆が進む」と言われて断念した。
京都は、東京よりはマシだが、それでも特養の空きなんかあるはずがない。
仕方がないので、老健施設に入れて、期限を何度も延長し、結局、最後までそこにいた。
施設の費用は祖母の年金から自動引き落としにしていたが、ある時、突然、小泉改革とやらで、施設の負担金が値上がりした。
しかも、通知は紙切れ1枚で「来月から負担額が変わります」と書かれているだけ。
僕は、月に約5万円を負担しなければいけなくなった。
結婚したばかりで、住宅ローンもあったので、大いに困った。
まあ、一応正社員だったので、何とか払い続けたが、これが非正規雇用で低賃金だったら払えなかっただろう。
そういう場合、一体どうすれば良いのだろうか。
今や、日本中でこういう問題が起きているはずだ。
それなのに、まあ人々は、何の解決もしない現政権に尻尾を振って、よく信任投票なんかするよな。
昨日の参議院選の結果を見たか。
僕は前日に細君と一緒に期日前投票に行った。
どうせ自民が勝つならと、いちばん暴れてくれそうなところに批判票を入れた。
差し障りがあるので、具体名は書かないが。
選挙区は、実家が創価学会だったので、創価学会員(ただし、代表ではない)に入れた。
比例区は、僕は旧自由党の党員だったので、自由党の仲間に入れた。
結果は、二人とも落選だったが。
ほぼ100万票取って落選かよ。
こんな選挙制度はおかしい。
いかん、政治の話しになると、つい長くなる。
話しを戻そう。
で、サン・クレールに妻を寝取られたマルニーは、いい役者だったが、売れなかった。
生真面目な彼は、サン・クレールのことを恨んでいる。
この老人ホームは経営難で、理事長は金策に走っていたが、そろそろ限界であった。
ダメなら、閉めるしかないというところまで来ていたのである。
ここには、代役専門の役者であったカブリサードという問題児がいた。
彼は、自分の部屋でニシンの燻製を作り、裸でホーム内を歩く。
彼は昔の自分の栄光を捏造し、ホラ話しばかり聞かせるので、生真面目なマルニーとは犬猿の仲であった。
ある日、食事の時、カブリサードはマルニーに謝罪する。
しかし、マルニーは受け入れない。
そこへ、サン・クレールがやって来る。
色男のサン・クレールに、女性達は羨望の眼差しを向ける。
マルニーは気分が悪い。
女を見れば、手当たり次第に食い散らかして来たサン・クレールは、かつての恋人シャベールのことも覚えていない。
ヒドイよね。
シャベールが昔の写真を見せるが、思い出せない。
隣に写っているのが自分だということも分からない。
そんな男、いるのか。
『我等の仲間』もそうだったが、登場人物のキャラクターが非常にしっかりと描き分けられている。
誰しも、老いるのはイヤだ。
カフェでマルニーがお茶を飲んでいる。
彼は、ここで給仕として働いている17歳の娘ジャネットに、秘かに想いを寄せている。
って、相当なロリコンだな。
そこへ、カブリサードとサン・クレールがやって来る。
マルニーは、妻を寝取られたことを未だに根に持っていたが、サン・クレールはロクに覚えていない。
価値観がまるっきり違うんだろうな。
ある男にとっては、大事なただ一人の女性が、別の男にとっては、いっぱいいる女の中の一人でしかない。
で、あろうことか、サン・クレールは早速、ジャネットを口説き始める。
その頃、理事長は金策に失敗していた。
そんなことも知らず、サン・クレールは風呂で読書をして、ひんしゅくを買っている。
カブリサードが、「新聞にマルニーのことが載っている!」と騒ぎ立てる。
それは、何と、マルニーの「死亡記事」であった。
まだ生きているのに!
しかも、そこには、「彼は二流の役者だった」などと、さんざんなことが書かれている。
カブリサードは笑っているが、マルニーは激怒。
そりゃそうだよな。
一方、そんなカブリサードも、実は寂しいのだ。
唯一の友達は、ボーイスカウトの少年ピエロ。
彼に呼ばれて、ボーイスカウトのキャンプに遊びに行くカブリサード。
で、その頃、サン・クレールはジャネットを口説いていた。
メロメロになるジャネット。
それにしても、17歳の娘が老人ホームに入るようなジイさんにメロメロになるかね。
そこへ、1905年にサン・クレールが指輪を与えたという女性が亡くなったと言って、相続人が訪ねて来る。
名はアンリエットといった。
しかし、またもやサン・クレールは、その女性のことを全く覚えていない。
もう、ここまで来ると、病気だな。
サン・クレールは、身の回りの世話を頼むために、馴染みのビクトール・ルルーという男を呼び寄せたり、結構お気楽に暮らしていた。
そこへ、ホーム中に「経営報告書」が配られる。
経営難で、夜9時には消灯し、ワインも減らすという。
カブリサードは憤り、理事長に抗議すると息巻く。
一方、ジャネットの態度を見て、マルニーは、彼女が最早自分に関心を失い、サン・クレールのことを好きになったと知る。
またか。
人生で二度も、同じ男に愛する女性を奪われる。
どんな気持ちだろう。
だが、サン・クレールはジャネットの気持ちなどどうでもよく、モンテカルロへ旅立ってしまう。
涙を流すジャネット。
相変わらず、ヒドイ男だ。
そんな時、マルニーの基へ、新聞記者が訪ねて来る。
件の死亡記事を書いた男だった。
若い彼は、実はマルニーのファンであった。
誤報を詫びる彼に、マルニーは、「今夜、君の前で朗読する」と約束する。
マルニーは、シャベールといつも、『ロミオとジュリエット』を読み合っているのだった。
一方、カブリサードはピエロにあることを頼んでいた。
カブリサードは、ピエロの前では、自分は大スターだったと嘘を吐いている。
もう、この辺が、後半への悲しい伏線なのだが。
夜9時、電気が消された。
食堂にはロウソクの灯りがともされ、ピエロが樽ワインを運んで来る。
カブリサードは仲間を集めて乾杯。
新聞記者の前で朗読しているマルニーとシャベールだけは、そのばにいなかった。
マルニーとシャベールは、『ハムレット』でも『リア王』でも『ロミオとジュリエット』でも、お気に召すままと記者に言う。
フランスなのに、シェイクスピアばかりだな。
まあ、本作には、モリエールの作品も頻繁に登場するが。
そう言えば、「(フランスは)料理がうまいから、イギリスに生まれなくて良かった」というセリフもあった。
で、この後、カブリサードは寄った勢いで、仲間達の前で、全共闘の学生のように「ホームの運営権を我らに!」とブチ上げる。
余りに騒がしいので、様子を見に来た理事長に、「総長団交」のようにまくし立てるカブリサードだが。
その場で「ホームの閉鎖」を告げられ、しゅんとなる。
何と言うか、大衆が無力さを知る瞬間だな。
僕も、以前勤めていた会社が倒産した時は、そんな気分を味わった。
さあ、これからどうなる?
後半では、ネタバレになるので、あまり書けないが、役者にとってはもっともショックな出来事が起きる。
舞台の上で、セリフが飛んでしまうのだ。
僕は高校時代、文化祭で『リア王』を演じたが、脚本が締め切りまでに書けなかったり、舞台の上でセリフを間違えてしまうという夢を、未だに見ることがある。
だから、この気持ちは痛いほど分かる。
本作の中で、いちばん残酷なシーンだ。
全体を通して、老人の悲哀が、ものすごく色濃く浮き上がって来る。
たまらんね。
誰もがいずれは年を取るのだ。
なお、本作の原題は「La Fin du jour」、英語に直すと、「The End of the Day」。
「落日」ということかな。
でも、「旅路の果て」というのも、いい邦題だ。
人生の終着駅ということだもんな。

La Fin du Jour - Bande-annonce officielle HD