『ウンベルト・D』

この週末は、ブルーレイで『ウンベルト・D』を見た。

ウンベルトD ヴィットーリオ・デ・シーカ Blu-ray

ウンベルトD ヴィットーリオ・デ・シーカ Blu-ray

1952年のイタリア映画。
監督は、ネオレアリズモの巨匠ヴィットリオ・デ・シーカ
脚本は、デ・シーカと多くの作品で組んだチェーザレ・ザヴァッティーニ
音楽は、イタリアの巨匠アレッサンドロ・チコニーニ
主演は、カルロ・バティスティ。
共演は、マリア・ピア・カジリオ、リーナ・ジェンナーリ。
ヴィットリオ・デ・シーカと言えば、『靴みがき』『自転車泥棒』だ。
靴みがき』は、大昔に見たので、残念ながら記憶が曖昧だが、『自転車泥棒』は、これまでに3回見て、3回とも号泣した。
僕の人生で、こんなに泣いた映画は他にない。
敗戦後のイタリアの過酷な生活の状況が、もう気の毒で気の毒で。
ハリウッドを風刺した、ロバート・アルトマン監督の傑作『ザ・プレイヤー』の中でも、ティム・ロビンス演じるヤリ手映画プロデューサーが名画座に『自転車泥棒』を観に行くシーンがある。
彼は「いい映画だけどね」と言う。
『ザ・プレイヤー』が製作された90年代前半のハリウッドは、既に続編とリメイクの嵐で、スター俳優の組み合わせを変えて、似たような企画に押し込んでいるような状況で、『自転車泥棒』のような正統派の映画に客が入る余地はなかった。
『ザ・プレイヤー』はそんな有り様を痛烈に皮肉っていたが、今のハリウッドは、当時よりも遥かにヒドイ事態に陥っていて最早、収拾不能だ。
それはさておき、マルチェロ・マストロヤンニソフィア・ローレン主演の『ひまわり』も名作であった。
戦争で引き裂かれた男女の運命は、本当に身につまされる。
ニーノ・ロータのテーマ曲も涙を誘う。
ウンベルト・D』は、ヴィットリオ・デ・シーカの作品の中で現在、唯一廉価版のblu-rayで入手可能である。
余談だが、このblu-rayを出しているIVCのラインナップには、他にも素晴らしい作品が並んでいる。
脚本、音楽は『自転車泥棒』と同じ。
役者も、『自転車泥棒』と同様、演技経験のない素人を起用している。
そのことが作品に独特のリアリティを与えている。
実は、恥ずかしながら、僕は『ウンベルト・D』のタイトルは知っていたが、内容はよく知らなかった。
しかし、素晴らしい映画であった。
モノクロ、スタンダード・サイズ。
画質は良い(音は良くない)。
鐘の音。
悲愴なテーマ曲から始まる。
「この作品を父にささげる ヴィットリオ・デ・シーカ」という字幕。
「年金額を上げろ」とデモ行進をしている老人達。
これは、少子高齢化の日本の、近い将来の姿でもある。
どこかの宗教政党の大臣が「100年安心だ」などと言っていたが。
現在の日本の年金制度は、100年不安だ。
僕は団塊ジュニア世代だが、我々の時代には、絶対に年金制度は破綻している。
いや、そんな先まで到底持たないだろう。
ふざけるな。
で、デモ隊は警察ともみ合いになる。
「許可のない集会は認められん」と、警察のジープが来て散り散りになる。
しかし、デモの許可なんて、そもそも下りない。
安保闘争もそうだが、国家権力は常に民衆を弾圧する。
絶対に許せない。
愛犬フライクを連れた老人ウンベルト(マリア・ピア・カジリオ)は元公務員で、年金が少なくて家賃も払えない。
年金1万8000リラに対して、家賃が1万リラである。
しかし、デモに参加した老人の内部にも格差があるようで、ウンベルトほど困窮している者はなかなかいない。
デモに対しても、温度差がある。
切実でない者は、ただ誘われたからデモに参加しただけだ。
それにしても、現在の日本では、安倍政権の横暴に対して、どうして暴動の一つも起きないのだろう。
集まるのは、せいぜいハロウィンで仮装した若者(=バカ者)くらいだ。
日本人は、何と従順なのか。
パリの民衆も立ち上がったというのに。
で、身寄りのないウンベルトは、フライクを大変可愛がっている。
孤独な老人というのも、日本の将来(いや、現在でも)の姿だ。
これだけ生涯未婚率が上がっていたらなあ。
まあ、我が家も子供がいないので、僕か細君のどちらかが死んだら、同じことになるが。
で、ウンベルトは、施設に行って、食事をするが、こっそりとフライクを連れて入り、自分の分を分けてやる。
いや、ほとんど自分の分は食べていないと言ってもいい。
バレたら追い出されるのだが。
このワンコが実によく言うことを聞いて、可愛い。
と言うより、大変な演技派だ。
ワンコにここまで演技をさせるのは大変だっただろうが。
本作は、犬好きにはたまらんだろう。
動物と子供が出て来る映画にハズレはないと言うが。
自転車泥棒』の子供が、本作ではワンコに当たるだろう。
と言っても、そんなあざとい映画ではない。
魂に訴えかける。
ウンベルトは、身に着けている懐中時計を売ろうとするが、売れない。
本当は4000リラで売りたいのだが、何とか3000リラで買い手が付いた。
しかし、売った相手は、道行く人々に「お恵みを」と言っている。
今の日本では、さすがにこんな光景はあまり見掛けない。
3000リラというのは、現在の日本では幾ら位なのだろうか?
随分とたくさんのしわだらけの札だったが。
インフレなのだろう。
年金が1万8000に家賃が1万というから、今の日本円だと、年金が9万円に家賃が5万円位か。
ということは、3000リラの時計は、1万5000円位か。
まあ、今や皆、携帯を時計代わりにしているから、時計を持つ人も少数派だろうが。
で、ウンベルトがアパートの部屋に帰ると、何故か若いカップルがイチャついている。
女主人(リーナ・ジェンナーリ)が、1時間1000リラでラブホテル代わりに貸しているのであった。
ここに20年も住んだウンベルトは、家賃滞納を理由に、アパートを追い出されようとしていた。
ウンベルトには熱があった。
お手伝いのマリア(マリア・ピア・カジリオ)はウンベルトを気遣ってくれるが、彼女は「妊娠した」と言う。
女主人には言えない。
言うと追い出されるから。
恋人が二人いて、どちらの子なのか分からない。
これも、典型的な貧困の構図だ。
僕の知り合いのライターが、貧困のため性風俗で働く女性のドキュメントを書いているが、彼の本にもこんな話しばかり出て来る。
で、女主人はウンベルトに対し、「月末には荷物を放り出すよ」と告げる。
このアパートは、古くてボロくて、アリがいっぱいいる。
ウンベルトは、体調が悪くて、ノドの奥に白いブツブツがある。
彼は、マリアに家賃として3000ドルを託す。
「領収書をもらってくれ」と頼んだが、女主人には「1万5000リラ全額払え」と断られる。
ウンベルトはフライクを連れて散歩に出掛け、古本屋に想い出の本を売って、2000リラ作る。
マリアに5000リラを渡し、「残りは年金が出たら払う」と。
無学なマリアは、勉強する時間もない。
集団就職の少年が定時制に通うが、挫折するのを思い出した。
まあ、働いていたら、なかなか疲れて勉強なんて出来ない。
僕も夜学だったから、痛いほど分かる。
ウンベルトは公務員だったから、そこそこの学はあるのだろう。
マリアのことを気遣ってこう言う。
「不幸は無知に付け込む。文法を学んでおけ。」
正に、現在の日本でも、低学歴は貧困を生んでいる。
社会に出る前に、対処法を見に付けていないと、貧困から抜け出せない。
もっとも、現在の日本では、高学歴だからと言って高収入だとは、最早言えなくなっているが。
ウンベルトは、年金から家賃を払うと、食費も残らない。
しかし、意地の悪い女主人は、「耳を揃えて払わなければ立ち退いてもらう」としか言わない。
青木雄二の『ナニワ金融道』にもこんな話しがあったな。
青木雄二マルクス主義者だったが。
しかしながら、こういうどうにもならない貧困に対して、保守政権は何をしてくれるというのか。
僕は共産主義者ではないが、弱者に冷たい現在の保守政権は到底支持出来ない。
と言うより、ニート・フリーターが多数派の若者は、どうして軒並み自民党支持なのか。
連中は原発やらオリンピックやら万博やらの利権で儲けることしか考えていないぞ。
何万人もの労働者のクビを斬った経営者が、何十億もの報酬を受け取るなんて、どう考えても狂っている(逮捕が妥当かどうかは、また別問題だが)。
いかん、映画の話しなのに、今日はどんどん話しが逸れる。
それだけ本作のテーマが現実に寄り添っているということなのだが。
で、ウンベルトには38度以上も熱がある。
しかし、有閑マダムが仲間を呼んで、オペラか何かの練習をしているから、うるさくて眠れやしない。
おまけに、目覚まし時計が壊れて音が止まらない。
ウンベルトはとうとう、教会が運営する病院に電話をした。
救急隊がやって来たが、フライクは一緒に連れて行けない。
救急隊員に「フライクと遊んでやってくれ。遊んでいるスキに出て行く」と頼む。
このフライクは、実によくウンベルトになついているんだな。
そして、マリアにフライクのことを託す。
「すぐ戻るので」と言いながら、ウンベルトはタンカで運ばれて行く。
貧乏人は皆、病院に入院していた。
医者はウンベルトに対して、「明日には帰っても良い。若ければ扁桃腺を切るが、その歳で手術してもな」と告げる。
しかし、病院にいると食費が浮くのだ。
年金が出る月末までの1週間、ここに居れば助かるのだ。
ここには、そんな考えの貧乏人の常習者が仮病を使って大量に入院していた。
これも、近い将来の日本の姿ではないか。
マリアがバナナ1本をお見舞いに持って、病院にやって来る。
フライクは病棟には入れられないから、中庭に待っているという。
ウンベルトは、フライクのことが気になって仕方がない。
窓を開けてフライクを大声で呼んでみるが、気付かない。
マリアの話しによると、女主人は近々、恋人である映画館の支配人と結婚するから、ウンベルトのことを追い出したいのだという。
このまま行くと、ウンベルトは救貧施設に入るしかない。
だが、彼は「救貧施設にだけは入りたくない」と言う。
僕の実家も貧乏だったが、母は口癖のように「生活保護だけは受けたくない」と言っていた。
もちろん、自力で育ててくれた両親には感謝しているが。
生活保護は重要な命綱だろう。
昨今の日本では、ネトウヨを中心に、生活保護受給者を貶めるような連中がいるのがガマンならない。
で、ようやくウンベルトは退院した。
アパートに戻ると、ウンベルトの部屋は工事中であった。
おまけに、マリアもいないし、フライクもいない。
探しに行くと、マリアはいた。
フライクのことを尋ねると、「奥さんがドアを開けて、飛び出した」と言う。
ウンベルトは急いで保健所へ向かう。
保健所には、犬の引き取り手が多数来ていたが、450リラ払えないと、処分されるという。
それを払えないがために、愛犬を泣く泣く処分されてしまう人も。
ウンベルトは必死で保護された犬の中にフライトを探すが、見付からない。
さあ、これからどうする?
もうね、余りにもどうにもならない話しだから、涙ナシには見られません。
こういう魂を震わせるような名作が、昨今は余り省みられないのは残念だ。
老人と動物という点では、『ハリーとトント』(あちらはネコが登場)を思い出すが、こちらの方が悲愴だ(もちろん、『ハリーとトント』も名作だが)。
僕は、実家でニャンコを飼っていたので、どちらかと言うと猫派だが、そんなことは関係ない。
後半、フライクに帽子をくわえさせて物乞いをさせるシーンは、痛ましくて痛ましくて…。