『フレンチ・コネクション2』

この週末は、ブルーレイで『フレンチ・コネクション2』を見た。

1975年のアメリカ映画。
どうしても水谷豊の音痴な歌が浮かんでしまうが、それは「カリフォルニア・コネクション」である。
当たり前だが、『フレンチ・コネクション』の続編。
監督は、『グラン・プリ』のジョン・フランケンハイマー
前作のウィリアム・フリードキンから交代したが、本作の演出も捨て難い。
主演は、前作に引き続き、『俺たちに明日はない』『ポセイドン・アドベンチャー』『スケアクロウ』『カンバセーション…盗聴…』『ヤング・フランケンシュタイン』『遠すぎた橋』『スーパーマン』『レッズ』の大スター、ジーン・ハックマン
昔は、こんなハゲたオッサンが大スターだったんですよ。
しかし、彼にはものすごいオーラがある。
今回は、ロイ・シャイダーは出て来ない。
共演は、これまた前作に引き続きフェルナンド・レイと、『ファミリー・プロット』のキャスリーン・ネスビット。
彼女は、チョイ役だが、インパクトがある。
編集は、『タクシー・ドライバー』のトム・ロルフ。
日曜洋画劇場」に出て来そうな、哀愁のある、それでいてテンポも良い、素晴らしいテーマ曲で始まる。
今回の舞台はマルセイユ
フレンチ・コネクション」だから、フランスへ行ったんだな。
このブルーレイ・ディスクの画質はあまり良くない。
簡単に前作とのつながりを。
アメリ東海岸の麻薬常用者の大半はヘロインを用いている。
それらの大部分はフランスのマルセイユから船で送られて来ており、そのルートは「フレンチ・コネクション」と呼ばれている。
ニューヨーク警察の刑事「ポパイ」ことドイル(ジーン・ハックマン)は前回、麻薬密売組織のボス・シャルニエをニューヨークで捕り逃した。
そこで、今回は単身フランスに渡り、マルセイユ警察のバルテルミー警部(ベルナール・フレッソン)と協力してシャルニエを捕まえ、「フレンチ・コネクション」を潰滅させることが目的であった。
港には、日の丸を掲げた日本の船も見える。
ただ、これはあんまり本筋とは関係ない。
ドイルが車から降りて来る。
まるで、森林原人みたいな風貌。
フランスでは、英語が全く通じない。
これが実は本作の重要なテーマで、アメリカ人のドイルは異国の地で、言葉が通じなくて、一人悪戦苦闘する。
昨今の日本では、「これからの国際化社会は英語だ」という紋切り型のセリフが流行っているが、世界には英語が通じない国や地域なんてわんさとあるんだよ。
フランス人は、「フランス語の方が英語より高級だ」と思っているからねえ。
日本人同士で会話するのにわざわざ英語を使わせるような基地外企業の社長は、ちょっと見習った方がいい。
さて、ドイルが港に着くと、バルテルミー達マルセイユ警察の面々が、大量の魚をメチャクチャにさばいている。
これが、どうにも画面から臭気が漂って来そうなおぞましさ。
どうやら、魚の中にヤクを隠して取り引きが行なわれているという情報があったようだが、やがて、これはエイプリル・フールに引っ掛けたガセネタだということが分かる。
(フランスでは、エイプリル・フールに魚の絵を他人の背中にくっ付けるという風習があるのだとか。)
アメリカ人とフランス人は、猛烈に仲が悪いらしい。
ドイルは、最初から厄介者扱いされる。
バルテルミーから、トイレで身の上について色々と尋問される。
ドイルのデスクは、何とトイレの隣に置かれた。
彼も、アメリカとは違うフランス流のやり方が、一々気に食わない。
バルテルミーに向かって、「ニューヨークでは、この街の麻薬のせいで多くの人が死んでいるんだ」と声を荒げる。
舞台は再び港へ。
最初に出て来た日本船の船員がいる。
何故かカメラを持っている(典型的な日本人のイメージ)。
どうやら、ヤクの取り引きに関わっているようだ。
マルセイユと言えば、キレイな街のイメージがあるが(僕だけ?)、裏の方ではバラックがあったり、とんでもなく場末な空気が漂っている。
ドイルは、外国人なので銃の携帯が許されていない。
バルテルミーは、「客人は黙って見ていろ!」と言う。
ドイルは全く面白くない。
そこへ、張り込んでいた建物で大きな爆発が起きる。
中から逃げ出す黒人。
ドイルは直感的に「こいつが犯人だ」と思い、逃げる黒人を捕まえてボコボコにする。
ところが、彼は実はマルセイユ警察が放っていた味方であった。
「余計なことをしやがって。」
黒人は、ドイル達の目の前で死んでしまう。
外国人の銃の携帯は違法であったが、ドイルはカバンの中に隠して、秘かに持ち込んでいた。
ドイルへのフランス警察による嫌がらせは続く。
言葉が全く通じないのに、チンピラへの尋問を担当させられる。
まるで、パナソニックの「追い出し部屋」のようだ。
うんざりして外へ飛び出し、飲食店に入っても、まるっきり英語が通じない。
店の名前は「フロリダ」なのに。
若いネエチャンをナンパしても、バカにされるだけ。
言葉が通じないのに、店員と酒を飲む。
「いいから飲め。相手が欲しいんだ。」
二人ともヘベレケになって店を出るが、相変わらず言葉は通じていない。
話しは出来なくても、酒は酌み交わせるということか。
しかし、こういうのを見ていると、「英語をシャワーのように浴びていれば、いつかは話せるようになる」という言説の「いつかは」というのが、如何に遠大な道のりなのかが分かる。
ドイルには、常に二人の刑事が見張りに付いていた。
ドイルは叫ぶ。
「オレはシャルニエを捕まえに来たんだ! 尾行を止めさせろ!」
そんな折、シャルニエは偶然、ドイルの姿を見掛け、猛烈に不安に駆られる。
夜、ドイルは外出中に二人の男に襲われ、車で連れ去られてしまう。
尾行の刑事も一人やられた。
場末のホテルへ。
シャルニエと子分が何やら話しているが、ドイルには何のことやら、さっぱり分からない。
本作には、フランス語に字幕が全く付かないが、異国の地に一人でいるドイルの気持ちを観客に追体験させるためなのだろう。
ドイルが目覚めると、ベッドのそばにシャルニエが立っていた。
それからドイルは、ヤク(ヘロイン)を打たれる。
何度も何度も。
アジトの中に、英語を話せる婆さん(キャスリ―ン・ネスビット)がいる。
この婆さんは、親切を装って、ヤクで意識が朦朧としているドイルに話し掛け、腕時計を盗んでしまう。
それから、何日が経っただろう。
最初は、ロビンソン・クルーソーのようにトイレの壁に1日毎に印を付けていたドイルだが、いつの間にかそれも出来なくなってしまった。
連日ヘロインを打たれ続けたドイルは、完全なヤク中になってしまったのである。
シャルニエは、ドイルに「フランスへ来た理由」を白状させようとする。
でも、ドイルは吐かない。
かろうじて刑事としての意識は残っているのか。
最早用済みと考えたのか、シャルニエはドイルに強い注射を打ち、意識不明になった彼を車で連れ出し、お巡りの前で放り出す。
警察の薄汚い隔離病棟みたいな部屋で、ドイルは何だかよく分からないが怪しい治療を受ける。
彼は、何と3週間も捕まっていたらしい。
禁断症状の描写がスゴイ。
もちろん、ジーン・ハックマンの演技の賜物なのだが。
ドイルがフランスの刑事に「Ass hole!」と叫ぶのが笑える。
とにかく、本作は全編を通じて、アメリカとフランスの文化ギャップを「これでもか」と描き出す。
かと言って、どちらかに肩入れする訳ではない。
ヤク中から立ち直ろうとするドイルとバルテルミーが病室で他愛のない会話をする。
ドイルは一生懸命野球の話しをするが、全く分かってもらえない。
バルテルミーは、一応英語を理解するのだが、文化的背景が全く伝わらない。
サウスポーの話しをしているのに、「共産主義者?」と尋ねたりする。
そりゃ、確かに「左」だが。
野球選手の名前も、発音の違いでうまく伝わらない。
日本人は、英語について、すぐ「できる」と「できない」の二つに分けようとするが(もちろん、僕は「できない」の方)、一口に英語力と言っても、こんなに奥が深いのだということが、本作を見ているとよく分かる。
日常の何の変哲もない話題ですら、コミュニケーションを取るのは用意ではない。
下痢村博文容疑者が強引に推し進めようとしているコミュニケーション重視とやらの政策が、如何に表層的で現実味のないものであることか。
同じヨーロッパ語系のアメリカ人とイギリス人ですら、こうもうまく行かないのである。
いわんや、全く違う言語系統の日本人をや。
ネイティヴみたいな発音でペラペラとアメリカ人とコミュニケーションを取りたいなんて、思うのは勝手だが、教育目標としては完全に間違っている。
そもそも、一口に「英語でコミュニケーションを取りたい」と言っても、誰と何を話すかが肝心なのだ。
それは、実際に相手がいないと成立しない。
相手がいないのに、仮想のコミュニケーションの訓練をしても仕方がない。
ドイルとバルテルミーは、仕事上のコミュニケーションは取れている。
それは、共通の土壌があるからである。
日本の経済界は「仕事で使える英語を学校で身に付けさせろ」などと言っているが、仕事で使う英語は仕事をしながら身に付けるしかない。
だって、使う言葉は何の仕事をするかによって全然違うのだから。
それから、仕事以外の話題となると、無限にあるので、そんなもの一々学校で全部教えられるはずがない。
日本語でだって無理なのだから。
更に、大半の日本人は「外国人に道を聞かれたのに答えられなかったから、コミュニケーション重視の英語教育導入に賛成」らしいが、その程度のことなら、学校で6年(8年?)も掛けてやる必要はない。
問題なのは、コミュニケーション重視派は、往々にして文法・読解を軽視(または無視)することである。
その結果、基礎的な英語力すら身に付かず、もちろんコミュニケーションなんか出来るはずがない。
よって、政府の推し進めようとしている政策は、百害あって一利ナシなのである。
少なくとも、文科省のエライさんは一度この映画を見て、もっと真面目に考えた方がいいと思う。
いかん、また話しが壮大にそれた。
ドイルは、ヤクの影響で筋力が極端に落ちていた。
腹筋も、腕立て伏せもままならない。
彼は一体どうなってしまうのか?
この後、「のぞみ」みたいなガソリンぶちまけ→放火シーンや、『タイタニック』ばりの水難シーン等、大掛かりな見せ場もある。
クライマックスは、とにかくドイルが走る走る。
まるで『太陽にほえろ』だ。
手持ちカメラが揺れて揺れて、吐きそうになる。
この吐き気に覚えがあると思ったら、『グラン・プリ』の監督だった。
まあ、あれだけ筋力が落ちていたのに、よくぞこんなに走れるなと思う。
ちょっと出来過ぎだが、そこは映画なので。
結末はスゴイよ。
「続編に名作ナシ」とは思うが、本作は、1作目とはまた別の意味で骨太の作品に仕上がっている。
昨今の身もフタもないハリウッドの続編・リメイク連発には呆れるが。
それと比べると、本作には未だ志が感じられる。