『スキーピオーの夢』を原文で読む(第1回)

先日、ふと思い立って、このブログの『ガリア戦記』の記事を見直してみたら、ラテン語をキレイさっぱり忘れてしまっていることに気が付きました。
ガリア戦記』の1巻を読み終えて以来、半年以上もラテン語に一切触れて来なかったからです。
正に、故・渡部昇一先生が『知的生活の方法』(講談社現代新書)の中で、「ギリシア語やラテン語をマスターするにはほとんど半生を要するし、またそれを忘れないようにしておくためにも、残りの半生を要する」と仰っている通りでした。
ラテン語の勉強を再開しようとは思ったのですが、現在の日本では、遠山一郎先生(早稲田大学文学学術院名誉教授)の『カエサルガリア戦記』第I巻』(大学書林)以外に、初心者向けの講読のテキストは見当たりません。
困っていたところ、池袋のジュンク堂で偶然、下のような本を発見しました。

ラテン語を読む キケロ―「スキーピオーの夢」

ラテン語を読む キケロ―「スキーピオーの夢」

あの『しっかり学ぶ初級ラテン語』(ベレ出版)の著者・山下太郎先生の新刊です。
奥付けを見ると、「2017年5月25日 初版発行」となっており、文字通り、出来立てほやほやの本でした。
僕は、何を隠そう、『しっかり学ぶ初級ラテン語』でラテン語の文法を勉強しました。
山下先生は、メールでの質問にも大変親切に答えて下さる、とても素晴らしい先生です。
ガリア戦記』の1巻を読了したことをご報告すると、早速、「素晴らしい朗報を読ませて戴き、感激しています」という、ありがたいご返事を下さいました。
『しっかり学ぶ初級ラテン語』は、初心者にも極めて分かり易い、画期的なラテン語文法学習書でしたが、『ラテン語を読む キケロー「スキーピオーの夢」』も、革命的なラテン語講読の本だと言えます。
「はじめに」には、次のようにあります。

辞書を引いてラテン語で書かれた作品を自由に読み解きたい。この本はそうした学習者の願いをかなえるためにできあがりました。

『スキーピオーの夢』という題名は、恥ずかしながら、余り聞いたことがなかったのですが、本書の「作品について」によると、キケローの代表作『国家について』の最終巻に収められているエピソードだそうです。
キケローの『国家について』なら、高校世界史の定番教科書である『詳説世界史』(山川出版社)の「ローマ文化一覧表」にも載っているので、高校時代、世界史の偏差値が29しかなくて、受験科目にするのを諦めた僕でも知っています。
『スキーピオーの夢』について
どのような作品であるかは、「作品について」にまとめられているので、下に引用してみましょう。

「スキーピオーの夢」は、キケロー(前106〜43)の『国家について』(前51)の最終巻、すなわち第6巻の9節〜29節に当たる一つのまとまったエピソードです。19世紀の初めまで他の巻の写本がすべて失われたと信じられていたのに対し、このエピソードだけが奇跡的に消失の危機を免れ、連綿と読み継がれてきました。
内容を一言で述べると、ローマの英雄スキーピオーが夢の中で義理の祖父大アーフリカーヌスに出会い、真の誉れの何たるか、魂の不滅や天における永遠の生とはどのようなものかについて教えを受けるというものです。舞台は壮大な宇宙であり、スキーピオーはかつて聞いたことのない甘美な音楽を耳にしながら、祖父の示す小さい地球を黙って見つめます。地上での名誉のはかなさを強調しつつ、不滅の魂の力を人間としての最善の仕事のために発揮せよ、という大アーフリカーヌスの言葉は、そのまま現代を生きる私たちの胸に届くでしょう。
著者のキケローは共和制末期のローマの政治家にして哲学者でした。その流麗で力強い文体はラテン語散文を完成の域にまで高めたと評されます。

山下先生は、ご自身が主催されている「山の学校」で、ラテン語講習会を定期的に開かれています。
その中には、講読のクラスもあり、「あとがき」によると、本書は、そこで使用した教材をもとにして誕生したそうです。
本書の「作品について」によると、『スキーピオーの夢』はラテン語の講読初心者向きの作品だとのこと。
再び引用します。

「スキーピオーの夢」はキケローの数ある作品の中でも分量的に短く、用いられる語彙と文法のレベルも平易な部類に属します。初めてキケローの思想にふれたい人、また、ラテン語の原典講読に初めて挑戦する人にとって最適な作品と言えるでしょう。

ラテン語の講読の入門には『ガリア戦記』だとばかり思い込んでいましたが、『スキーピオーの夢』もふさわしいということですね。
実際、大学のラテン語講読の授業等でも読まれているようです。
大学の授業について
僕が調べた限りでは、学習院大学文学部の「上級古典語」というクラスで、『スキーピオーの夢』を読んでいました。
「上級」とはあるものの、シラバスには「なんらかの形で一通り文法を習得された方を対象に、こまぎれでない、本物のラテン文に接していただくためのクラスです」とあるので、実質的に、初級に続く講座だということでしょう。
担当されているのは、何と、あの『羅和辞典<改訂版>』(研究社)の編者である水谷智洋先生です。
(余談ですが、この授業は「試験は行わず、平常点で成績を評価します」とあります。早稲田でもそうですが、昨今のラテン語の授業は、出席しているだけで単位がもらえるようです。我々が学生の頃は、ラテン語と言えば、何十人も履修しても単位を取れるのは数人というのが通り相場だったのですが。時代は変わります。)
どれ位のペースで授業が進むかはシラバスには書かれていません。
が、「山の学校」の講読クラスでは、3時間で2節ずつのペースで進んでいるようですので、大学の授業1コマ(90分)ではおよそ1節というところでしょう。
ということは、『スキーピオーの夢』は全部で21節あるので、仮に大学の授業が年間25回あるとして、ほぼ1年間で読み終わるというところでしょうか。
まあ、英文科の原書講読の授業でも、一文一文を丁寧に読んで行くと、遅々として進みませんから、それより遥かに難解なラテン語の原文を、果たしてそんなペースで読み進められるのかは大いに疑問ですが。
山下先生の「文学部で学んだこと―100年先の世界のために」というエッセイによると、先生は大学(京大)4回生の時に、英文学から西洋古典文学に専攻を変えられたそうです。
その当時の主任教授から参加するように指示された西洋古典の演習で、キケローの『国家について』を読んだとか。
興味深いところなので、上記のエッセイから、その授業内容についての箇所を少し引用します。

勇んで参加した授業のレベルは私の想像を絶するものであった。参加者は錚々たる院生ばかりが五,六人、学年順にオックスフォードのテキストを飛ぶように訳していかれる。ちらっと横目で覗いても、テキストに何も書き込みは見あたらない。私はといえば、原文のコピーを拡大してノートに貼り付け、余白に辞書で調べた結果をありったけ書き込むものの、辞書を引くだけで精一杯のありさまであった。先生はときおり「ここはこう訳してもよいですね」と簡単にコメントされるのみで、あっという間に数ページの訳のチェックが終了する。

まるで、大学受験生がセンター試験の英語長文を読む如く、ほとんど解説もなしにラテン語の原文を「あっという間に数ページ」も読み進むということですね。
「さすが京大」としか言いようがありませんが。
普通のラテン語初心者は、京大の西洋古典を専攻している院生のような訳には行きませんが、山下先生は、ご自身が進路変更で苦労されただけあって、ラテン語が苦手な者の気持ちがよくお分かりのようで、この『ラテン語を読む キケロー「スキーピオーの夢」』は、実に至れり尽くせりの構成になっています。
「まえがき」には、次のようにあります。

原文のすべての単語に文脈に即した訳語と文法的説明が施されています。また、一文ごとに逐語訳があり、個々の単語が元の文の中でどのように用いられているかを確認できるようになっています。この本があれば、なぜこのラテン語はこのような日本語に訳せるのか、その理由が手に取るようにわかるでしょう。

この「すべての単語」というのがポイントです。
ラテン語の参考書というのは、偉い大学の先生が書いた高踏的な本がほとんどで、初心者のことを考えて書かれているようなものはほとんどありません。
特に、読解の参考書(対訳本等)は、読者が文法を一通り終えていることを前提としているため、日本語訳と若干の語釈程度しか付いていないのが普通です。
それでは、到底僕のような初心者が独学で読み進めることは出来ないでしょう。
しかし、本書は、まるで高校時代に使った古典の教科書ガイド(原文の横に品詞分解が載っていた)のように、全ての単語の変化や活用が解説されているのです。
よく、英語の文を読むのに、「文法など必要ない」という人がいます。
それは、英語は長い年月の間に簡略化されて、活用や変化がほとんど残っていない(三単現のsや複数形のsを除いて)ので、単語を並べただけでも何となく意味が分かる(ような気がする)からです。
でも、ラテン語はそうは行きません。
複雑な活用や変化を暗記しなければ、一歩も先に進めない(辞書すら引けない)のです。
本来、語学の学習というのはそういうものでしょう。
本書の「まえがき」には、「日本の中学、高校の生徒が英文読解に際し日々実践している学習法」として、次のように書かれています。

彼らは日々教科書の英文をノートに写し、一字一句を抜き出しながら個々の訳語と文法的説明を辞書を引きつつ書き加えます。この動詞の目的語は何だとか、品詞は何で、文中の働きは5文型の何に当たるか、等。

ところが、昨今の日本の英語教育では、「コミュニケーション重視」の名の下、このような基礎的な訓練がないがしろにされているのです。
逸身喜一郎氏(東京大学名誉教授)は、『ラテン語のはなし』(大修館書店)の中で、次のように述べています。

私が初級文法を教えたときに、学生たちには、「ノートに練習問題を写して、その下に単語ひとつひとつの分析を記し、最後に訳を付けなさい、こんな子供じみたことをいいたくないけれども、君たちは中学校でもこうした練習のやりかたを習ってきていないから」、といやみを交えて指示した。ときおりすばらしい才能のある人がいて、こういう人たちは何をしてもしなくても文章を覚えてしまうけれども、普通の人なら最初の段階ではこうした分析が必須である。結局、それをやる忍耐のある学生が一年後に残っている。

この『ラテン語を読む キケロー「スキーピオーの夢」』は、正にこうした訓練にふさわしい教材です。
【参考文献】
知的生活の方法 (講談社現代新書)渡部昇一・著
カエサル『ガリア戦記』〈第1巻〉』遠山一郎・著(大学書林
しっかり学ぶ初級ラテン語 (Basic Language Learning Series)』山下太郎・著(ベレ出版)
詳説世界史B 81 世B 304 文部科学省検定済教科書 高等学校 地理歴史科用』木村靖二、佐藤次高、岸本美緒・著(山川出版社
ラテン語講習会~文法は地図、講読は旅
http://syllabus.gakushuin.ac.jp/kougi2002/syllabus/43035000100.html
羅和辞典 <改訂版> LEXICON LATINO-JAPONICUM Editio Emendata水谷智洋・編(研究社)
文学部で学んだこと―100年先の世界のために | 京都 山の学校|新しい学びの場
ラテン語のはなし―通読できるラテン語文法』逸身喜一郎・著(大修館書店)