今回は、森鷗外の『舞姫』を取り上げます。
こちらも文語体ですが、『羅生門』『山月記』『こころ』と並ぶ、高校現代文の定番小説「四天王」の一つであるため、相当多くの方が読んでいるのではないでしょうか。
川島幸希先生の『国語教科書の闇』(新潮新書)によると、『舞姫』が高校現代文で定番教材化したのは、1980年代前半だそうです。
当時高校生だった方は、今では50歳代。
つまり、50歳代以下の方の大多数が、高校の国語の授業で読んでいるということです。
僕が通っていた高校の現代文で使っていた第一学習社の教科書にも、もちろん載っており、授業で読みました。
ところが、その時にどう感じたかが全く思い出せません。
国語の成績は良かったので、試験の時は模範的な解答を書いたのでしょうが。
そこで、再読してみたのです。
文語体は読みづらいので、まずは、ちくま文庫から出ている現代語訳を読みました。
これは大変、分かり易かったです。
その後に読んだ、『ビギナーズ・クラシックス 近代文学編 鷗外の「舞姫」』(角川ソフィア文庫)は、更に分かり易かったのですが、残念ながら絶版になっています。
僕はアマゾンの中古で買いました。
こういう、難解な古典に少しでも近付ける様にした本を、どうして絶版にするのでしょうか。
まあ、需要がないのでしょうが。
さて、読み終わってから僕は、これを高校生に読ませるのは、どうだろうかと思いました。
前述の『国語教科書の闇』にも、「雅文体という古めかしい文体で、しかもおよそ教科書にふさわしくない内容(主人公が留学先で知り合った少女を妊娠させた上に、逃げるように帰国してしまう)にもかかわらず、採録され続けている不思議な小説と言えよう」とあります。
ある程度の人生経験がないと、表面的な理解しか出来ないでしょう。
教える先生にも、相当な力量が必要でしょうし。
僕が高校時代の読後感を思い出せないのも、きっと何も感じていないからですね。
『国語教科書の闇』によると、多くの高校生、特に女子生徒は、一読して生理的嫌悪感を覚えるとあります。
曰く、「不潔な男」「卑怯な男」「エリスがかわいそう」と。
川島先生は、『舞姫』を教科書に採録することに反対されています。
その理由を、上述書から引用してみましょう。
編集委員自らが「最も難しくて、なおかつ複雑に絡み合ったテクスト」と認める小説を、国語を含めた基礎学力の低下が長年叫ばれ、さらに「ゆとり教育」の被害を蒙った現代の高校生の大多数がどうして理解できようか。そんな教材を高校生に強いるのは、私に言わせればサディスティックで不誠実な選定だ。
「舞姫」のさらに深刻な問題は、これを高校時代に読んで「鷗外嫌い」になる若者(特に女性)が多いということである。いや若者だけでなく、一九八〇年代からの定番化を考えると、今の中高年にも結構いるのかもしれない。ある大学の文学部の教授によれば、鷗外研究者減少の理由の一端を「舞姫」が担っていることを、かなり以前から学生の言葉で感じるそうだ。
鷗外の文学を知ったうえで、それを好まないとか受け入れないのは一向に構わない。それは個人の自由だ。しかし高校時代に読んだたった一つの小説への印象が、多くの人に鷗外の人格に偏見を抱かせるとしたら、鷗外を読むことに拒絶感をもたらすとしたら、こんな悲劇はない。そしてそれは、文学の世界にとどまらず、近代日本の生んだ最高の知識人の一人である鷗外に対する冒瀆だと思う。
このように難解な『舞姫』ですが、教科書に採録するのがふさわしいかはさておき、日本を代表する文豪・鷗外の小説デビュー作であるため、文学史上に極めて重要な意味を持つ作品であるのは間違いありません。
当然ながら、高校日本史の教科書にも載っています。
例えば、僕の手元にある『詳説日本史』(山川出版社)には、第9章「近代国家の成立」の「おもな文学作品」という一覧表の中です。
初期の鷗外については、本文中に、次のように書かれています。
日清戦争前後には、啓蒙主義や合理主義に反発して、感情・個性の躍動を重んじるロマン主義文学が日本でもさかんになった。北村透谷らの雑誌『文学界』がその拠点をなし、森鷗外・泉鏡花らの小説のほか、詩歌の分野でも、島崎藤村の新体詩や与謝野晶子の情熱的な短歌が現われた。
『精選日本文学史 改訂版』の脚注には、次のようにあります。
森鷗外 文久二(一八六二)年―大正十一(一九二二)年。軍医・小説家・翻訳家・評論家・戯曲家。島根県生まれ。本名は林太郎。陸軍省の留学生として渡独。後、軍医総監、帝室博物館総長、帝国美術院長などを歴任。
また、同書の本文には、次のようにあります。
明治二十一(一八八八)年、ドイツ留学から帰国した森鷗外は、広く文学・芸術・哲学にわたる新知識をもって意欲的な執筆活動を展開した。訳詩集『於母影』を編み、『しがらみ草紙』を創刊して石橋忍月と論争し、『早稲田文学』の坪内逍遥とは没理想論争を続けた。評論を文学の一形態として位置付けた功績が大きい。
鷗外にはまた、ドイツ留学を記念する小説『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』がある。青春の浪漫的情緒を香り高い雅文体でつづった悲恋物語だが、特に『舞姫』は、近代的自我に目覚めた青年の苦悩を写して、『浮雲』とともに日本近代文学の先駆的作品と評価されている。原作以上の名訳とされるアンデルセンの『即興詩人』も有名で、典雅な文体が初期鷗外の浪漫的詩情を伝えている。
田村秀行先生の『田村の[本音で迫る文学史]』(大和書房)でも、鴎外について、かなり詳細に述べられているので、長くなりますが、そちらも引用しておきます。
日本近代文学は、わずかではあるが、「写実主義」の方が早くスタートした。これだけでも、世界文学とは違う点である。これに対して、「浪漫主義」をひっさげて登場するのが若き日の森鷗外である。
森鷗外は、ドイツ留学から帰国した後、明治二十三年に『舞姫』を発表する。これは、自分自身をモデルにしたと考えられる小説で、留学生が現地で恋に陥り同棲した女性が妊娠したにもかかわらず、帰国して出世する道を捨て切れず、ついにそれを知って発狂した女性をドイツに遺して日本に帰る、という内容である。
鷗外については、詳しいことを知らなければならないが、それは後に一章を設けて説明する。ここでは、とにかく、『舞姫』が「浪漫主義」の先駆となった作品であることを知っておけばよい。こうして、日本近代文学は出発したわけであるが、このあとすぐに、坪内逍遥と森鷗外の間で論争が起こる。逍遥が「写実主義」の立場から、理想を排除して「没理想」の小説を書くべきだと主張したのに対して、鷗外が「浪漫主義」の美学的立場から、理想を重んじることを主張したのである。これを「没理想論争」という。この論争は平行線をたどって決着がつかなかったが、それは日本近代文学の有様を端的に表すものであった。
森鷗外もまた、個人についてかなり細かく知らなければならない人物である。そして、時代ごとに理解する項目が異なってくるということでは、漱石以上に覚えなければならないことが多い。
鷗外の本名は森林太郎であり、陸軍の軍医である。そして、ドイツに留学したのも衛生学を学ぶためであり、その基礎を日本に移入するという職務を立派に果たした。すなわち、作家鷗外でなくとも、医学者森林太郎の名は医学史に残っているのである。また、軍医として最も高位である軍医総監になり、後には宮内省関係の役職にも就いた。すなわち、文学以外の世界で十分の価値を持ち、特に政府側の重職に就いていたという、日本近代文学者としてはまさに特例の人物である。
鷗外の出発点は、第三章で説明したように"明治二十年前後"、正確には明治二十年代初期である。
ドイツ留学の成果として、ドイツ浪漫主義文学の影響下に『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』を書く。この時代の鷗外の文体は「雅文体」と呼ばれるもので、平安時代の文体から掛詞などの日本独特の語法を除いた一種の擬古文である。というのは、当時はまだ言文一致が完成しておらず、また、漢文書き下し文体では浪漫主義の味わいが出せなかったからで、この風雅な文体のために、この時代の作品は"浪漫主義の香り高い"などと評されることが多い。先の三作を「雅文体三部作」ないし「初期三部作」という。
それから、後の章に、『舞姫』についての田村先生の分析もあるので、そちらも引用しておきます。
鷗外は、ドイツ留学時代に、実際に一人の女性と暮らし将来も誓ったであろう。ところが、森家の長男として母を捨てることが、明治人鷗外としてはどうしても出来なかったのだと思う。出世欲のあったことも否定しがたいであろう。そこで、結局その女性を捨てて日本に帰ってきてしまった。このことは、数年後にドイツから一女性が訪ねてきて、森家が大騒ぎになるという事件のあったことでも裏付けられる。
問題は、その女性を捨てることにしたときに、鷗外がその代償、また良心の証として、それ以後の自身の人生はすべて偽りであり、ここに自分の本当の生を埋めていくということを誓ったのではないか、ということである。
後期の鷗外の活動については、後日、改めて書きたいと思います。
それにしても、文学史の教科書にはたくさんの作品名が出て来ますが、読んでいない作品の何と多いことでしょうか。
作家名と作品名を丸暗記するだけでは無意味です。
実際に作品を読まないと(自分に言い聞かせています)。
森鷗外について
さて、鷗外の略歴について、角川文庫版の「解説」をもとに、少し詳しく述べておきましょう。
森鷗外は、文九2(1862)年1月19日(太陽暦では2月17日)、島根県鹿足郡津和野町字横堀に、父静男・母峰子の間に生まれました。
母親は、気位も高く、負けず嫌いの強い性格で、鷗外は、この母の気質を多分に受け継いでいるようです。
10歳の時、父と共に上京し、遠縁の西周家に預けられて、進文学舎に通い、ドイツ語を学びます。
この西周は、幕末から明治にかけての蘭学者、哲学者であり、森有禮らと明六社を起こし、西洋文明を熱心に紹介した先駆者でした。
直接影響を受けるようなことはあまりなかったようですが、それでも西の存在が鷗外に与えた影響は否定出来ないでしょう。
東京医学校に入学し、それが改称された東京大学医学部を卒業。
父母の希望で陸軍の軍医副となり、22歳の若さでドイツに留学を命じられます。
これから4年間の滞在が鷗外に与えた教養の蓄積は計り知れないものがありました。
それは医学を中心としたものでしたが、文学、美術、哲学などの広い範囲に渡っていたのです。
明治21年、26歳の時、ドイツから帰国し、翌年、赤松登志子と結婚しました。
この年、鷗外を中心とする新声社訳の詩集「於母影」を「国民之友」に発表したのですが、これが文壇に波紋を投じた最初の仕事と言って良いでしょう。
続いて、鷗外自身の経営によって文学雑誌「しがらみ草紙」を発行し、ロマンティシズムの文学運動を起こしました。
その翌年の1月、最初の小説「舞姫」を「国民之友」に発表して、視聴を集めます。
この作品は、文章としても文語体を使いながら、清新の息吹を放つものですが、題材的にも多くの問題性を含むものでした。
それは、鷗外自身の私生活を覗かせたものだったからです。
事実、この中の女主人公と同じ名のエリスが、鷗外が帰朝して2週間ほどしてから、後を追って日本にやって来て、築地の精養軒に泊まっていました。
既に、帰朝した日に鷗外からエリスの事件を告げられていた父母は、義弟の小金井良精、次弟の三木竹二に、森家の困難な事情を説明させて、エリスに帰国することを穏やかに説き勧めます。
エリスも、その事情を了解したと見えて、ついに日本滞在を諦め、帰国の汽船に乗船しました。
それまで面会を控えていた鷗外も、その時だけは、弟達と共にエリスを汽船に送りに行ったといいます。
この作は、石橋忍月の非難に対して鷗外が反駁を加え、騒がしい論争を捲き起こしたことで、一層有名になりました。
文壇処女作としては、確かに成功したと言えるでしょう。
8月、「うたかたの記」が「しがらみ草紙」に、翌年1月、「文づかい」が「新著百種」第12号に掲載されました。
どちらも、ドイツを舞台にした異国情緒の豊かな浪漫的作品でした。
この3作によって、鷗外は、たちまち小説家としての地歩を占めることが出来るようになったのです。
しかし、この3作以後、創作の筆は途絶えてしまいました。
その代わり、翻訳活動は前よりも盛んになります。
その中で、当時の文壇に強い影響を与えたのは、9年に渡って「しがらみ草紙」と「めさまし草」に連載した、アンデルセンの「即興詩人」でした。
原作は、アンデルセンのものとして、特に優れたものではありませんでしたが、その訳文は、特別の格調とリズムを持って、当時の読者の心をとらえ、原作以上の効果を上げたものと言うことが出来るでしょう。
鷗外の翻訳の代表を占めることになりました。
これ以降の略歴については、後日、改めて書きたいと思います。
『舞姫』について
『舞姫』は、二葉亭四迷の『浮雲』と並んで、日本語による近代小説の礎となった文学史上の名作です。
高等学校用国語教科書の定番教材として長きに渡って親しまれているので、教室で出会った読者も多いはずです。
この作を巡っては、鷗外の親族らによる証言をもとに、鷗外自身に似寄りの事実があったのではないかと噂され、多くの研究家による労を惜しまぬ調査の結果、現在のポーランドに生まれたエリーゼ・ヴィーゲルトという女性が、鷗外の帰国直後に来日していたことが立証されています。
しかし、作品の背景調査と作品自体の検討とは基本的に区別されるべきでしょう。
それでは、ここで、『舞姫』のあらすじを、簡潔にまとめているウィキペディアから引用しておきましょう。
時は19世紀末。
ドイツ留学に行っていた主人公の太田豊太郎が、帰国途上のサイゴン停泊中、船内客室でドイツ滞在中のことを回想し、筆を起こす。
大学法学部を卒業後、某省に奉職した豊太郎は、5年前にドイツ留学を命じられ、ベルリンに赴いた。
ある日、下宿に帰る途中の太田は、クロステルあたりの教会の前で涙に暮れる美少女エリスと出会い、心を奪われる。
父の葬儀代を工面してやり、以後交際を続けるが、仲間の讒言によって豊太郎は免職される。
その後豊太郎はエリスと同棲し、生活費を工面するため、新聞社のドイツ駐在通信員という職を得た。
エリスはやがて豊太郎の子を身篭る。
豊太郎は友人である相沢謙吉の紹介で大臣のロシア訪問に随行し、信頼を得ることができた。
復職のめども立ち、また相沢の忠告もあり、豊太郎は日本へ帰国することを約束する。
しかし、豊太郎の帰国を心配するエリスに、彼は真実を告げられず、その心労で人事不省に陥る。
その間に、相沢から事態を知らされたエリスは、衝撃の余り発狂し、パラノイアと診断された。
治癒の望みが無いと告げられたエリスに後ろ髪を引かれつつ、豊太郎は日本に帰国する。
「相沢謙吉が如き良友は、世にまた得がたかるべし。されど我が脳裡に一点の彼を憎む心、今日までも残れりけり。」
ヒドイ話しです。
前に出て来た女子高校生でなくても、主人公の太田豊太郎に嫌悪感を持つのが普通だと思います。
しかし、豊太郎は、我々のような平凡な庶民ではなく、明治の時代に、国家の運命を背負って留学しているのです。
だからこそ、彼自身の苦悩も大きなものがあるでしょう。
立身出世と愛情とどちらを取るかというのは、大変難しい問題で、簡単には論じられません。
多くの人が問題提起しているように、この作品は、ある程度の人生経験がなければ、理解することは難しく、高校生に読ませても、一面的な読解しか出来ないでしょう。
文語文を読み取ることさえ難しいのに、更に内容がこうですから。
しかしながら、僕も半世紀近く生きて来ましたが、やはり、豊太郎はヒドイ男だと思います。
細君に当てはめて考えてみると、僕ならば、到底こういう風には出来ません。
胸が痛みます。
それでは、角川文庫版の「作品解説」が非常に簡潔にまとまっているので、そこから重要そうな箇所を引いておきましょう。
それにしてもこの手記は、いったい誰に向けて書かれたのだろうか。本来豊太郎が語りかけるべき相手は、他ならぬエリスだったはずである。しかし豊太郎は決断を引き延ばし、その場を取り繕い、つまりは何もしなかったために、自分のことばでエリスに語る機会を永遠に失ってしまった。人事不省に陥った豊太郎に代わって、彼女に「隠したる顛末」を語った相澤の語を、エリスはどう受け止めたのか。「我豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺きたまいしか」と叫んだエリスは、出会って以後の豊太郎のことばのすべてを嘘だと見たのだろうか。サイゴンに碇泊する船中で、自身の来歴と「耻」ずべき過去を記す豊太郎のことばを、エリスは聞くことも読むこともできない。いかに真率に語っても、おそらく相澤が語らなかった心の葛藤を伝えたくても。「精神の作用」を失って「赤児」のようになった彼女には、決して届くことはないのである。
文庫版について
現在、新刊で流通している『舞姫』の文庫版は、次の4点(プラス現代語訳1点)が出ています。
角川文庫版
- 作者:森 鴎外
- 発売日: 2013/06/21
- メディア: 文庫
現在出回っているのは、平成25年の改版です。
「うたかたの記」「ふた夜 FRIEDRICH WILHELM HACKLAENDER.」「舞姫」「文づかい」「普請中」の5篇を収録。
「解説 森鷗外――人と文学」は渋川驍氏、「作品解説」は五味渕典嗣氏。
新潮文庫版
- 作者:森 鴎外
- メディア: 文庫
現在出回っているのは、平成18年の改版です。
「舞姫」「うたかたの記」「鶏」「かのように」「阿部一族」「堺事件」「余興」「じいさんばあさん」「寒山拾得」の9篇を収録。
「注解」は千葉俊二氏、「森鷗外 人と作品」は山崎正和氏、「『阿部一族・舞姫』について」は高橋義孝氏。
岩波文庫版
- 作者:森 鴎外
- 発売日: 1981/01/16
- メディア: 文庫
「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」「そめちがへ」「ふた夜 FRIEDRICH WILHELM HACKLAENDER」の5篇を収録。
「解説」は稲垣達郎氏。
ちくま文庫版
- 作者:森 鴎外
- 発売日: 1995/06/22
- メディア: 文庫
「森鷗外全集」の1巻だが、文庫で全集を揃える人がそんなにたくさんいるのでしょうか。
「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」「そめちがへ」「朝寐」「有楽門」「半日」「追儺」「懇親会」「大発見」「魔睡」「ヰタ・セクスアリス」「鶏」「金貨」「金比羅」の15篇を収録。
「解説」は田中美代子氏。
ちくま文庫版(現代語訳)
- 作者:森 鴎外
- 発売日: 2006/03/01
- メディア: 文庫
訳は何と井上靖。
「解説」は山崎一穎氏。
原文も収録しています。
更に、「資料篇」として、「資料・エリス」(星新一氏)、「兄の帰朝」(小金井喜美子氏)、「BERLIN 1888」(前田愛氏)を収録。
【参考文献】
『国語教科書の闇(新潮新書)』川島幸希・著(新潮新書)
『鴎外の「舞姫」 ビギナーズ・クラシックス 近代文学編 (角川ソフィア文庫)』角川書店・編(角川ソフィア文庫)
『詳説日本史B 改訂版 [日B309] 文部科学省検定済教科書 【81山川/日B309】』笹山晴生、佐藤信、五味文彦、高埜利彦・著(山川出版社)
『精選日本文学史』(明治書院)
『田村の〈本音で迫る文学史〉 (受験面白参考書)』田村秀行・著(大和書房)
舞姫 (森鴎外) - Wikipedia