『アタラント号』

連休中は、ブルーレイで『アタラント号』を見た。

1934年のフランス映画。
監督はジャン・ヴィゴ
音楽は、『巴里祭』『舞踏会の手帖』『北ホテル』『旅路の果て』の巨匠モーリス・ジョベール。
撮影は、『波止場』『十二人の怒れる男』のボリス・カウフマン
出演は、『素晴らしき放浪者』『旅路の果て』のミシェル・シモン
本作は、ジャン・ヴィゴの唯一の長編劇映画であり、29歳で夭逝した彼の遺作である。
僕は本作を見るのは初めてだが、学生の頃にミニシアターで上映していたことは覚えていて、タイトルだけは知っている。
調べてみると、日本初公開は1991年らしい。
僕が高校を卒業した後、上京して、新聞奨学生をしながら映画を観まくっていた頃だ。
しかし、当時は観なかった。
モノクロ、スタンダード・サイズ。
やや勇ましい合唱がテーマ曲。
4Kレストア版らしいが、画質は全体的に甘くて、決していいとは言えない。
アタラント号が停泊している。
ちなみに、アタラント号というのは船の名前だ。
大した船じゃない。
おそらく、生活雑貨なんかを仕入れて運んでいるのだろう。
結婚式場から出て来る夫婦。
アタラント号の若き船長ジャン(ジャン・ダステ)と村の娘ジュリエット(ディタ・パウロ)だ。
ジュリエットと言えば、シェイクスピアしか浮かばないが、フランスでも一般的な名前なのだろうか。
ちなみに、ディタ・パウロは、ジャン・ルノワール監督の代表作『大いなる幻影』(未見)にも出ている。
スタスタと歩く二人の後を、親戚や村の人々が追い掛ける。
一方、アタラント号が停泊している岸では、ネコ好きの老水夫ジュール(ミシェル・シモン)がニャンコと戯れている。
本作には、本当にたくさんのニャンコが出て来る。
ものすごく現場に馴染んでいるが、みんな野良猫らしい。
少年水夫(ルイ・ルフェーブル)が、その辺に生えている花を摘んで来て、花嫁に差し出す。
貧しい時代だったんだな。
船はすぐに出港する。
一同が見送り、ジュリエットも船に乗る。
村から出たことのない若い娘が、船乗りの嫁になったのだから、大変なことだろう。
船の中は狭い。
ほとんどベッドしか置けないジャンの部屋で抱き合う二人にニャンコが何匹も飛び掛かる。
早朝、ジュールは「花嫁を歌で起こそう」と歌い出す。
ジャンのベッドの上にニャンコがいる。
ジュールは文字通り、ネコ可愛がりしているが、ジャンは船の中がネコだらけなのが不快だ。
ジュールは気ままな自由人で、船の行き着く先々に友人がいるが、浮浪者みたいなのばかり。
ジュリエットは、今まで男しかいなかった船内で、洗濯物を集めて回る。
非常に生活感がある。
ジュリエットはジャンに「水の中で目を開けたら好きな人が見える」と言う。
ジャンはそれを真に受けて、汚い川の中に頭を突っ込む。
モノクロの画面でも、水に油が浮いているのが分かる。
あんな水の中で目を開けたら、目の病気になりそうだ。
「見えた!」
ジャンは毎日、朝の5時まで船を操縦している。
ジュリエットは退屈。
ラジオからパリの放送が聴こえて来る。
パリに憧れる妻。
若い二人はヒマさえあればじゃれ付いている。
ジュールはそれを見て怒るが、自分はニャンコとじゃれ付いている。
ジュリエットが、手動のミシンでスカートを縫っている。
ワインをしこたま飲んだジュールは、ジュリエットにセクハラまがいのちょっかいを出して来る。
ジュールは、若い頃は世界中を船で回ったようだ。
行ったことのある土地を挙げるが、その筆頭に「ヨコハマ」が出て来る。
監督は日本びいきのようだ。
余談だが、東京オリンピックの開会式も、もっと日本文化を盛り込んで世界に紹介すれば良かったのにと思う。
今や日本の文化はアニメやゲームしかないのか。
ロンドン五輪の開会式では、ポール・マッカートニーが「レット・イット・ビー」を歌い、ミスター・ビーンが現われ、ジェームズ・ボンドが宙を舞い、炎のランナーが流れ、ケネス・ブラナーシェイクスピアを朗読した。
世界中の誰もが知っている「これぞイギリスを代表する文化」というものを並べた。
翻って、日本はどうだ。
160億円とかいう、ハリウッドの超大作映画でもお釣りが来るような予算を掛けながら、ある特定の層しか知らないようなミュージシャンや芸人を起用して大失敗した。
もっと、世界中に知名度のある人が各分野にいるだろう。
そういう人を起用出来ないのは、今回のオリンピックが、賛成派と反対派で国論を二分しているからだ。
何でそうなるかと言うと、コロナ騒動の最中に強行したからである。
話しが逸れた。
ジュールの狭い部屋には、世界中から拾って来たガラクタのような品物がホコリを被って転がっている。
「全部手描き」という日本のデカイ扇子もある。
こんなものはクソの役にも立たないが、ジュールの人間味が浮び上がって来る。
僕の部屋にも、明治時代の英語のテキストや辞書がある。
クソの役にも立たない。
僕が死んだら、細君は資源ゴミに出すだろう。
まあ、しかし、当人にとっては宝物なのだ。
亡くなった友人の手首がホルマリン漬けで保存されている。
今なら逮捕されそうだ。
ジュールは全身にイレズミがある。
しかし、これが幼稚園児の落書きみたいで、全くカッコ良くない。
当時だと検閲で引っ掛かりそうな無修正の女性のヌード写真もある。
若いジュリエットは、ジュールの人生経験の厚みを何かしら感じただろう。
だが、オッサンの部屋に入り浸っている新妻がジャンの逆鱗に触れ、彼は怒鳴りながらジュールの部屋のガラクタを壊しまくる。
まあ、嫉妬だな。
若い男にはありがちだ。
僕にもそんな時代があった。
ちょっと反省したジュールは、街に出て頭を丸めて来る。
ジャンは、狭い船の中で息が詰まっているのだろうと、ジュリエットに「夫婦で街へ出掛けよう」と提案する。
ウキウキして洋服を選ぶジュリエット。
一方、ジュールは肌身離さず着けている首飾りが壊れた。
「不吉なことが起こる」と、少年水夫を連れて街へ修理に出掛ける。
ジュールがいなくなったのを知ったジャンは、「船をほっとけない」と言い、夫婦でのお出掛けはキャンセルになる。
ジュリエットは落胆。
ジュールは「お守り(首飾り)が壊れた」と言って、女占い師のところへ。
実は、この女占い師が売春婦であることが暗示される(少年水夫を帰らせる)。
それから、ジュールは飲み屋へ。
なかなか船に帰って来ない。
少年水夫だけ帰って来る。
ジュールは酔っ払って、飲み屋に置いてあった蓄音機のラッパの部分だけ持ち帰る。
まるで、高田馬場ビッグボックス前の早稲田の学生達のように高歌放吟しながら帰って来るジュール。
まあ、僕も毎晩、飲んだくれて細君に迷惑を掛けているので、他人のことは言えないが。
あまりにうるさくて、ジャンとジュリエットは眠れない。
とにかく、ジュールをベッドに寝かせる。
そして、ジャンは「出航だ!」
ジュリエットは結局、一歩も船の外へ出られなかった。
さあ、これからどうなる?
新婚夫婦のすれ違いというのはよくある話しだ。
我が家でもあった(かも知れない)。
しかし、本作は、時代の空気をものすごくよく切り取ってあるのと、ジュールの人間味が実に深くて、単なる新婚夫婦の痴話喧嘩ではない。
後のフランス映画の人間ドラマに通じる。
行商人の文化というのは、日本でも1970年代まではギリギリ残っていたかも知れない。
僕が本当の子供の頃になら、おぼろげに記憶がある。
こういう空気感は、今の若い人達には通じないだろう。
まあ、レコードも黒電話もダイヤル式テレビも、過去の遺物だからな。
余談だが、とうとうウチの会社でガラケーを使っているのは僕一人だけになってしまった。
しかしながら、僕には先天的にスマホ遺伝子が欠落しているので、絶対にスマホを使いこなすことは出来ない。
このままでは、来年3月には、僕は携帯電話が使えなくなり、公衆電話を使うしかなくなる。
しかし、公衆電話もすっかり減ってしまったからなあ。
困った困った。
また話しが逸れた。
当時のパリは、若い女性が一人で歩くのは大変危険な街であったことが分かる。
日本でも、昔はそういうことがあったかも知れない。
でも、今の東京では、暗い夜道ならともかく、若い女性が一人で歩くこと自体が危険とは誰も思っていないのではないか。
それから、本作ではジュークボックスが出て来る。
この時代のフランス映画ではよく出て来るが。
あと、終盤に空中撮影のシーンがある。
ドローンなどない時代だから、飛行機で撮ったのだろうか。
この時代に飛行機で映画を撮影するとは、大変なことだったろう。
色々な意味で、フランス映画史上に残る作品だ。

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