『舞踏会の手帖』

連休中は、ブルーレイで『舞踏会の手帖』を再見した。

1937年のフランス映画。
2年ほど前に見たのだが、内容はキレイに忘れていた。
中年になってから見た映画というのは、感性が磨耗しているからか、若い時のように印象に残らない。
しかし、見ていると、すぐに思い出して来る。
最初に見た時はそれほど感じなかったが、この映画の登場人物はことごとく強烈なインパクトがある。
誰も彼も、ロクな人生を歩んでいない。
青春の思い出というのは大抵美化されるが、失われた時間は取り戻せないし、人生はやり直せない。
本作のテーマは、この1行で済むが。
人間描写がスゴイのが評価された理由だろう。
監督は、『我等の仲間』『旅路の果て』の巨匠ジュリアン・デュヴィヴィエ
音楽は、『我等の仲間』『北ホテル』のモーリス・ジョベール。
主演はマリー・ベル。
モノクロ、スタンダード・サイズ。
優雅な音楽から始まる。
イタリアの湖畔。
旦那が亡くなり、喪服姿の未亡人クリスティーヌ(マリー・ベル)。
彼女は夫を愛していなかった。
自分のことを「恋を知らない女」と言う。
彼女はどこかへ旅に出ようと思った。
夫の形見を全て召し使い達に与え、思い出の品を炉に投じた。
持ち物の中から、「舞踏会の手帖」が出て来る。
20年前の1919年、16歳の時に参加した舞踏会で踊った10人の男性の名前が書き連ねてある。
彼女は、その舞踏会の様子を思い出した。
金髪で、ギリシア神話に登場する神のように美しく、彼女が秘かに愛を感じたジェラール。
亡き夫の秘書であったブレモンに頼んで、その10人の住所を調べてもらうと、その内の二人は既に他界していた。
現代の感覚だと、どうしてこれで住所が調べられるのかが分からないが。
個人情報の保護なんていう観念はなかった時代だ。
そして、ジェラールの住所だけが分からない。
彼女は、その男性達を訪ねて回ろうと決意する。
これはどうなんだろう。
確かに、34歳で未亡人になったというのは気の毒だが、昔の男を訪ねようっていう感覚は、女性に一般的なのだろうか。
そうではないような気がする。
そんなことをしても、それぞれ別の人生を歩んでいるのだから、どうにもならないし。
まあ、それを言ってしまうと、この話しは成り立たない。
一人目はジョルジュ。
応対したばあやは、「ジョルジュさんはお亡くなりになりました」と言うが、ジョルジュの母親(フランソワーズ・ロゼー)が出て来て、それを覆す。
しかし、すぐに、この母親が狂っていると判る。
ジョルジュは、クリスティーヌにフラれたショックでピストル自殺したのだ。
母親の中では、20年前で時が止まっている。
クリスティーヌは20年前、大金持ちと婚約して、イタリアの古城に移り住んだ。
それが死んだ旦那なのだが。
それ以来、ジョルジュは引きこもってしまったという。
母親は、クリスティーヌのことを、クリスティーヌの母親だと思っている。
彼女の中では、クリスティーヌも、20年前で止まっている。
「息子はもうすぐ24歳」なんて平気で言う。
息子の葬式の招待状が大量に残っている。
クリスティーヌは、だんだん怖くなって来る。
要するに、母親は息子の自殺のショックで狂ってしまったのだ。
結局、「帰って!」とクリスティーヌは追い返される。
まあ、人生において、好きな女性にフラれるなんていうのはよくあることで、そんなことで死んでいたら、命が幾つあっても足りない。
だが、この母親の狂気は、見ている方も怖くなって来る。
一種のホラーだ。
二人目は、文学少年だったピエール(ルイ・ジューヴェ)。
彼はかつて、ヴェルレーヌの詩を暗唱していた。
今ではジョーと名を変えて、キャバレーを経営していた。
しかし、裏では、客として訪れた男爵の殺害を画策するなど、犯罪集団のボスでもあった。
クリスティーヌが店を訪ね、店員に、ヴェルレーヌの詩の一節をピエールに伝えるように告げる。
ピエールはすぐに、彼女が誰だか分かった。
この店では、トップレスのダンサーが踊っている。
この時代に、トップレスの女性が出演しているというのは驚きだ。
で、最初、ピエールはクリスティーヌがカネに困って自分を訪ねて来たのだと勘違いし、この店で働かせ、客をあてがおうとする。
「わたしはジョーではなくピエールに会いに来た」と彼女に言われ、ようやく誤解が解ける。
ピエールは一度、弁護士にもなったが、犯罪に手を染め、3年間、刑務所に入る。
出所後、今の店を開いた。
「あなたは変わったわ。」
昔話しに時が過ぎ去るのを忘れたピエールは、逃げるタイミングを逃し、踏み込んで来た官憲に連行される。
ああ、何ということだ。
これも、最初に見た時はそんなに感じなかったが、エリートだったはずなのに、悪に手を染めざるを得なくなって転落してしまうという人生の皮肉。
続いて、修道院へ。
少年聖歌隊を指導する神父ドミニクがいる。
少年に「ラテン語で歌える?」なんて尋ねる。
彼は、気の毒な境遇の少年に聖歌を教えているのだ。
合唱の練習中に、クリスティーヌが訪ねて来る。
彼女はアランの消息を尋ねる。
そのアランこそが、今は神父のドミニクなのであった。
主は、昔のことは忘れよと言ったという。
かつてアランは新進の音楽家であった。
苦悩と信仰から修道院へやって来たという。
アランは昔、舞踏会である令嬢と出会った。
彼は、「希望の日のソナタ」という愛の曲を弾いた。
しかし、令嬢は聴いていなかった。
隣席の男と談笑していた。
アランは、「年齢が違い過ぎたのだ」と諦める。
その後、息子が死んだ(この息子がどこから来たのかの説明はない)。
失意のどん底の時、主が現われ、「他人様の子を育てよ」と告げる。
ドミニクはクリスティーヌに、「令嬢は今も私の心の中に生きている、昔のまま」と。
クリスティーヌは静かに立ち去る。
さあ、これからどうなる?
こんな調子で、7人の過去の男が登場するが、ことごとくロクでもない。
人生において、恋愛というのは、表向きにはそんなに言わないが、実は大きなウェイトを占めている。
恋愛面で成功しなければ、他のことで意義を見出すしかないが、それは大抵、失恋の穴埋めにはならない。
残念ながら、これが現実である。
まあ、それでも生きて行くしかないのだが。
後半で出て来る、仕事より女(恋愛)を選ぶと一度は決意しながらも結局は仕事から離れられない山岳ガイド、チンピラの義理の息子に揺すられる町長、モグリで子供を堕ろす片目の医者、ペテン師の床屋。
いずれも人物造型が素晴らしい。
医者のシーンは、斜めのカメラ・アングルがものすごい心理的効果を上げている。
クリスティーヌは故郷の床屋と、20年ぶりに同じホールに行くが、その時に踊っている人達が、まるで町内のカラオケ大会に参加しているジジババのように華のない庶民で、夢見ていた自分が16歳の頃の華やかな舞踏会との落差がすさまじい。
2回見ると、かなり色々と考えさせられる。
格差、貧困、人生、青春、恋愛…。
ヴェネツィア国際映画祭外国映画大賞受賞。

A Dream Sequence from UN CARNET DE BAL