『未来世紀ブラジル』

この週末は、ブルーレイで『未来世紀ブラジル』を見た。

1985年のイギリス映画。
監督はテリー・ギリアム
製作は、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』のアーノン・ミルチャン
脚本には、『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』『恋に落ちたシェイクスピア』のトム・ストッパードが参加している。
主演はジョナサン・プライス
共演は、『ミーン・ストリート』『ゴッドファーザーPART II』『タクシードライバー』『ディア・ハンター』『レイジング・ブル』『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』『アンタッチャブル』の大スター、ロバート・デ・ニーロ、『ファミリー・プロット』のキャサリン・ヘルモンド、『エイリアン』『ハムレット(1990)』のイアン・ホルム
僕は多分、中学生の頃だと思うが、『宇宙船』か何かの雑誌を近所の本屋で立ち読みした時に、本作の特集を読んだような気がする。
「ヘンな映画だな」と思ったのは覚えているが、恥ずかしながら、それから30年以上、現物を見たことはなかった。
「いつか見なければ」とは思っていたのだが。
今回、初めて見て、「これはスゴイ映画だ」と思った。
20世紀フォックス
カラー、ワイド。
テーマ曲「ブラジルの水彩画」が流れる。
サントリー・プレミアム・モルツのCMでも使われている曲だ。
舞台は20世紀のどこかの国。
クリスマスの夜。
テレビのモニターが並んだショー・ウィンドーが突然爆発。
爆弾テロのようだ。
壊れなかったテレビでは、情報省次官のヘルプマン(ピーター・ヴォーン)が「情報管理の重要性」を力説している。
テロの相次ぐ昨今から見ると、しかも、情報化社会というところが、実に予言的である。
本作の未来社会の造形は、モダンとクラシックが適度にミックスされていて、実にスタイリッシュである。
もちろん、現実の未来(例えば、2017年)とは違うのだが。
以前、スタンリー・キューブリックが、『時計じかけのオレンジ』で、敢えてクラシックなデザインを多用したことについて、「クラシックなものは古びない」と語っていたようなきがするが、それを思い出した。
情報省の役人が、オフィスに現れた虫を追い掛け、はたき落とされた虫がタイプライターの上に落下。
そのため、タイプ中の容疑者の名前をタトル(Tuttle)ではなく、バトル(Buttle)と打ち間違えてしまう。
幾ら文明が発達しても、虫はいるし、人間のミスも治らないということか。
平凡なバトル一家。
母親が子供にディケンズの『クリスマス・キャロル』を朗読している。
イギリスでは、児童文学の定番中の定番と聞いたが、やはりそうか。
そこへ、情報省の武装軍団が大挙して押し寄せ、無実のバトル氏を拉致して連れ去る。
国家権力の横暴だ!
断じて許せない!
この「情報省」というのが、得体の知れない役所だが。
本作には、役所や役人に対する強烈な不信感が根底にある。
上の階に住む金髪で短髪の女ジル(キム・グライスト)が講義するが、相手にされない。
情報省記録局では、パソコンのモニターが、まるで『モダン・タイムス』のベルト・コンベアのように並ぶ。
役人達も、所詮は労働者階級に過ぎない。
彼らは、局長のクルツマン(イアン・ホルム)が見ていないと、モニターで映画を見て、サボっている。
会社のパソコンで2ちゃんねるを見ている昨今のサラリーマンと全く同じではないか。
夢の中、羽根で空飛ぶ男サム(ジョナサン・プライス)。
美女とキス。
この美女は、髪は長いが、先のジルとソックリだ。
気持ち良く夢を見ていると、呼び出しの電話が。
現実世界に引き戻されるサム。
上司のクルツマンからだった。
時計を見ると、何と11時。
急いで、出勤の身支度をするサム。
ここで、本作の考える未来世界のイメージが「これでもか!」と繰り出される。
要するに、あらゆるものが機械化されている。
そして、本作はイマジネーションの洪水だ。
「情報省は市民の味方」というスローガン。
意味が分からない。
「この道しかない」と国民を洗脳するどこかの国の政権政党のようだ。
サムが出勤すると、局に抗議に来ているジルがモニターに移る。
それは、夢の中の女性と瓜二つであった。
サムの友人のジャック(マイケル・ペイリン)は、サムに対して「記録局は出世の見込みもない。秀才のお前が」と嘆く。
役人の出世競争は大変そうだ。
サムは、そんなものには興味がない。
僕も、彼の気持ちはよく分かる。
今の会社じゃ、出世なんか関係ないからね。
気楽でいいよ。
ジルは、「役所でたらい回しにされた」と憤慨している。
本作は、役所に対する痛烈な批判が込められている。
で、記録局では、ジルに対して、「情報剥奪局がタトルとバトルをタイプミスした」と、しれっと言い放つ。
それにしても、情報剥奪局って、何だろう?
サムの母親アイダ(キャサリン・ヘルモンド)は、息子の出世欲のなさを嘆き、裏から根回しをして昇進させようとする。
この母親は、美容整形を繰り返している。
この時代は、美容整形がファッション感覚らしい。
そして、本作には、美容整形に対する痛烈な批判(と嫌悪感)も表現されている。
アイダの頬の皮膚がビローンと伸びる映像(特殊メイク)は強烈だ。
アイダは、レストランで友人の娘とサムを見合いさせる。
この母親の友人というのは、整形を繰り返して、合併症で悲惨なことになっているが、それでも止めようとしない。
このレストランで出て来る食事の味気なさも格別だ。
不気味な色の団子状のものが盛られた皿に、うまそうな料理の写真が付いている。
で、この食事中のレストランで爆弾テロが起きる。
結構な爆発だ。
この時代は、CGじゃないから、撮影も大変だっただろう。
それでも、テロは日常のようで、誰も気にしない。
恐ろしい世界だ。
サムは、「テロは管轄が違う」などと言ってのける。
役人の中では、情報剥奪局が一番のエリート・コースのようだが、サムは「剥奪局へは行かない」と母親に告げる。
また夢を見るサム。
目覚めると、室内に煙が充満している。
どうやら、暖房の調子がおかしいようだ。
セントラル・サービスに電話をすると、「人手不足で夜間の修理はしない」と、木で鼻をくくったような対応。
すると、突然、部屋にピストルで武装した男が侵入して来る。
彼は、タトル(ロバート・デ・ニーロ)と名乗った。
タトルは、暖房修理をモグリで行うという。
この世界では、公式にはセントラル・サービスしか工事をしてはいけないのだが、書類仕事がイヤで、モグリの修理屋をしているらしい。
背に腹は変えられないので、サムは彼に修理を頼んだ。
そりゃそうだよな。
クリスマスに暖房がなけりゃ、寒いもん。
そこへ、本物のセントラル・サービスがやって来る。
モグリの修理屋に頼んだとなれば、大問題だ。
サムは、とっさに「直った」と言うが、「ウソつけ! 調べさせてもらう」と言われてしまう。
しかし、サムが書類の掲示を求めると、震え出す。
書類で回っている世界だが、書類には皆、恐怖心もあるようだ。
修理が完了し、タトルは部屋を出て行く。
翌日、サムが出勤すると、同僚は仕事中にモニターで『カサブランカ』を見ている。
古い映画しか上映されないようだ。
サムは、上司のクルツマンに呼び出される。
バトルをタトルと間違って拘束したことで、費用の超過払い戻し分の小切手を渡さなければいけないという。
これを表沙汰にならないように処理しないと、クルツマンの椅子は危ないらしい。
恐ろしいのは、問題が、無実の人を過って拘束したことにあるのではなく、超過費用が生じたことだということ。
人権を何だと思っているのか。
サムは、バトルの家に小切手を届けに行く。
サムの乗っている車が、一人乗りの超ミニ車で面白い。
未来社会風にアレンジされているとは言え、なかなかのスラムだ。
さすがイギリスだけあって、住人の階層がモロに現れている。
バトル夫人にサムが小切手を渡そうとすると、「主人は死んだのね!」と泣き崩れる夫人。
この無感情な世界で、これが普通の人間の反応だろう。
サムは「タイプミスで…」などと、信じられない言い訳をモゴモゴと始めるが。
バトル家の子供が、サムに「人殺し!」と叫んで飛び掛かる。
と、天井に開いた大きな穴(バトル氏を拘束する時に開けられた)から、上の部屋にいるジルが見えた。
サムは彼女を追い掛けて、外へ。
彼女は巨大タンクローリーの運転手であった。
なかなかガテン系の姉ちゃんだ。
やはり、労働者階級だろう。
そして、サムのミニカーは爆破されていた。
彼女の名前は、ジル・レイトンだということが分かった。
サムは、局に戻って、パソコンで彼女の名前を検索する。
何と言っても、情報省の役人だからね。
個人情報の悪用だ。
それにしても、グーグルが設立される10年以上も前に、こんな映画があったのがスゴイ。
で、サムが検索した結果、彼女の情報は「マル秘扱い」。
彼女の資料は、情報剥奪局が握っているのだ。
だが、サムは一旦、昇進を断ってしまった。
また、夢を見るサム。
家に帰ると、セントラル・サービスが家の中をメチャクチャにしていた。
「タトルが来ただろ?」
「役所はモグリの修理を許さん!」
また、夢を見るサム。
ヘンなヨロイを着たサムライが出て来る。
アイダが整形手術で若返ったので、パーティーを開いた。
そこへサムを呼ぶ。
すると、そこへ情報省次官のヘルプマンも来ていた。
サムは、ジルの個人情報を得るために、情報剥奪局への異動をヘルプマンに願い出る。
ここまでで、やっと半分弱。
さあ、これからどうなる?
後半の展開もスゴイよ。
「英語が読めないの? これだから移民は」などという、差別的な発言をする婆さんも出て来る。
昨今の、「朝鮮人出て行け!」などとヘイト・スピーチを繰り返すネトウヨと同じじゃないか。
30年後の現代から見て、本作の問題提起は、実に的確である。
人が死ぬことも、単なる情報の「delete」でしかない。
後半は、なかなかに革命の血が騒ぐ。
戦艦ポチョムキン』のオマージュもあるしね。
ネタバレになるので、書かないけど、本作のアメリカ公開バージョンは、最後の部分をカットしてしまって、本作の問題提起を全て無にするハッピー・エンドになってしまった。
当然、監督は猛抗議したらしいが。
ブルーレイに収録されているのは、元のバージョンだろう。
それにしても、衝撃のラストだ。
僕がいつも参考にしている『エンタ・ムービー 本当に驚いたSF映画』(メディアックス)に、本作について、「この映画は、どんなに個人が管理されても、国は夢見る力だけは奪うことができないと訴えているようだ」とあった。
でも、違うと思う。
夢を見ることしか残されず、しかも、最後には、それすらも奪われてしまうんだ。
こんな深刻な題材を、重くなく、コメディ(ブラックだが)的な要素も含め、SFとして娯楽映画に仕立て上げた監督の手腕には驚愕する。
映画史に残る傑作を見ることが出来て、良かった。