『王様と私』

この週末は、ブルーレイで『王様と私』を見た。

1956年のアメリカ映画。
監督はウォルター・ラング
原作は、『サウンド・オブ・ミュージック』(作詞)のオスカー・ハマースタイン2世
音楽は、『サウンド・オブ・ミュージック』(作曲)のリチャード・ロジャース
主演は、『クォ・ヴァディス』『地上より永遠に』『007 カジノロワイヤル』のデボラ・カーと、『十戒』『荒野の七人』『ウエストワールド』のユル・ブリンナー
王なのに、ユル・ブリンナーの名前の方が後に出て来るというのが、既にこの作品の立ち位置を示しているが。
共演は、、『雨に唄えば』『ウエスト・サイド物語』のリタ・モレノ
20世紀フォックス
カラー、シネマスコープ
勇壮なテーマ曲。
舞台は1862年のシャム。
汽船に乗ってバンコクに到着するアンナ(デボラ・カー)と息子のルイス(レックス・トンプソン)。
船の召使いは皆、有色人種。
首相のクララホムがアンナを迎えに来る。
アンナは王家の家庭教師として招かれたのであった。
最初は通訳を通して話していたが、実はこのクララホムは一杯食わせ者で、英語が話せるのである。
と言うよりも、本作では、セリフは全編を通じて英語だ。
タイが舞台なのに。
まあ、ハリウッド映画だから仕方がないのか。
アンナは専用の家に住める約束だったが、王の宮殿に住まうように告げられる。
約束が違うと怒るアンナ。
バンコクの町には象が歩いている。
黄金の宮殿。
実に素晴らしく豪華なセットである。
今日は王(ユル・ブリンナー)の機嫌が悪いらしい。
偉そうな王である。
ちょうど、ビルマから貢ぎ物としてタプティム(リタ・モレノ)という娘が連れられて来たところである。
今日の謁見はこれまでと言われたが、アンナはそれを無視して、王の面前へ。
王が言うには、アンナはシャムの近代化の一環として、英語の家庭教師として雇われた。
王は英語を話す。
アンナは真っ直ぐなところが王に気に入られた。
それにしても、渡辺謙ユル・ブリンナーの演技をそのまま真似ているようだ。
王は家族をアンナに紹介する。
まずは、第一王妃であるチャン王妃。
彼女は、宣教師から教わったという『創世記』の一節を唱えながら登場する。
妻が何人もいるが、皆、少しは英語を話せる。
王は、「近代国家の女達は英語くらいは話せないと」と言う。
全く同じような言説が、現代の日本でも聞かれる。
これは、本作に秘められた深いテーマの一つでもあると思うのだが。
本作は、明らかに「西洋文化=進んでいる」「東洋文化=遅れている、野蛮」という価値観で描かれている。
原作者は進歩的なアメリカ人だから、そういう発想になるのだろう。
しかし、僕は東洋人だから、こういう見方に大いに反発を覚える。
確かに、この時代、日本も含めてアジアの多くの国々は、西洋に倣って、如何に近代化(=西洋化)を推し進めるかが課題であった。
日本は、近代化に成功したからこそ、現代のように発展したというのも事実だろう。
男尊女卑はいけないと思うし、人身売買のような制度は野蛮だとも思う。
究極的には、王制(天皇制を含む)も廃止すべきだと思う。
だが、「西洋化=善」ではない。
東洋には東洋のアイデンティティーがある。
大事なのは、イデオロギーよりもアイデンティティーだ。
どうにも、本作には、『ロビンソン・クルーソー』並みの傲慢さが感じられる。
「英語を話せること=近代化」ではない。
現に、日本人は英語を話せなくても、近代化を達成した。
一方、英米の植民地となって、英語が公用語になったのに、なかなか発展しなかったという不幸な国だって幾つもある。
本作の王のモデルになったラーマ4世も、如何に欧米列強に支配されないで自国を近代化するかに腐心したという。
もちろん、本作でも、王の葛藤は描かれているが、明らかに英米目線である。
タイでは、本作は不敬罪に当たるので、上演・上映が禁じられているという。
それもむべなるかな。
で、アンナは王から「宮殿に住め」と言われ、家の交渉は却下される。
王には子供が67人もいる。
タプティムは、アンナに「初級者向けの英語の読み物は何ですか?」と聞いて、ストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』を借りる。
まあ、本作は、英語学習の指針にはなるかな。
地理の授業でも、この国の世界地図は、シャムが異様に大きく描かれている。
アンナが子供達に、現実の世界地図を見せると、シャムは小さな点にしか過ぎないので、子供達はガッカリする。
アンナは、このクソ暑い国で、英国のドレスを着たままである。
シャムの子供達は、雪も氷も知らない。
それに対して、王は「見たことだけを信じるなら、学校は要らん!」と子供達に言う。
何しろ、イギリス本国には高い授業料を払っているんだ。
リンカーンの話しをアンナから聞いた王は、思わず、「奴隷制には反対だ」と言ってしまう。
奴隷制を導入しているのにもかかわらず、だ。
しかし、主人公がリンカーンを称賛しているというのが、如何にもアメリカ人の原作っぽい。
イギリス人は、リンカーンのことを褒めるのだろうか?
まあ、近代化というのは、王制とは相容れないな。
イギリスは王制だが、色々と矛盾がある。
日本の天皇制だって同様だ。
で、首相のクララホムは、近代化には反対の立ち場だ。
「この国には無理だ」というのである。
もっともな意見だ。
アジアの多くの国が、このような葛藤を経て、近代化の波に巻き込まれて行ったんだな。
アンナは、夜中に王に呼び出される。
王は、寝そべりながら、分厚い聖書を読んでいる。
王曰く、「モーゼはこの世は6日で出来たと言っている。大阿呆だ!」
英米人にとっては、キリスト教が唯一絶対だから、この王の発言を「この人は何を言っているんだ」という感じで受け止める。
言語の押し付けと共に、宗教の押し付けも絶対にやってはいけないことである。
ロビンソン・クルーソーは、それを平然とやってしまったのだが。
王は「リンカーンに手紙を書く」と言い出す。
アンナに口述筆記をさせる。
彼女は、王にひれ伏すのはお断りだと言う。
でも、王に雇われているんだから、その態度は失礼じゃないか?
どうにも、東洋人を下に見ているような気がしてしまう。
王は、戦いには象が必要だとして、リンカーンへの手紙に「象を何頭か送りましょうか」と書かせる。
ここで、観ている者を笑わせようとしているのだろうが。
そりゃ、失礼だろう。
異文化に対して、もっと敬意を払えよ。
国が違えば、戦争の仕方も違うんだよ。
で、タプティムは、彼女を連れて来たビルマの使者の若者と恋仲であった。
若者は、夜中に秘かに彼女に会いに来た。
隣の国から、一体、何日掛けてやって来たのであろうか。
ビルマ人なのに、セリフは英語である。
それはさておき、現場を見たアンナに手引きを頼む若者。
「見付かったら殺される。私は力になれない」とアンナ。
しかし、タプティムを連れて来る。
恋愛の自由がないというのも大変だ。
AKBか。
で、この王はいつも本を読んでいる。
非常に勉強家である。
首相のクララホムは、王に対して、「英国はいつか侵略して来る」と告げる。
王は、この国の行く末を真剣に案じている。
だが、王が考え事をしている時に、子供達の大きな歌声が聞こえて来る。
「うるさい!」
王はアンナの音楽の授業に怒る。
アンナは、家の約束を守って欲しいと王に迫る。
王は、「召使いの分際で、家の約束はない!」と激怒。
アンナは、「私は召使いではない!」
続けて、近代国家の仲間入りをしたいなんて大嘘。
実態は旧態依然。
全て国王の意向次第とまくし立てる。
「それ以上は申すな!」と王。
アンナは、「言いたいことは言いました! 帰国します!」
帰国の準備を始めたアンナを、第一王妃が引き留めに来る。
さあ、これからどうなる?
本作は、セットや衣装はものすごく豪華なのだが。
仏(フランスではない)に対して、英語で祈ったりする。
西洋人にとっては、異国趣味もあるのかも知れないが。
クライマックスの、『アンクル・トムの小屋』の翻案劇はスゴイ。
有名な「Shall We Dance?」(周防正行の映画ではない)を始め、音楽も良い。
でも、どうなんだろう。
根底では、東洋文化を見下しているような気がする。
アカデミー賞主演男優賞ユル・ブリンナー)、美術賞、衣装デザイン賞、作曲賞、録音賞受賞。